件《くだん》
「お庄屋さま、お庄屋さま」
外から声が聞こえる。座敷牢の外から。
女はぐらつく頭を上げ、外を見ようとするが──なにも見えない。
全身にべったりと、糊のようなものがまとわりついている。
目を開けることができない。
開けたところで、曇った眼になにが見えるというわけもないが。
「祭りの件ですがの、庄屋さま」
年寄りの低い声が、近づいたかと思ったら遠ざかっていく。
広い屋敷のなかでも、ほとんど人が立ち入ることのない奥の間、そのさらにどんつきに建て付けられた座敷牢まで、そもそも人がやってくることさえも稀有。
ぐううぅ。
腹が鳴る。そういえばここ三日、物を食ったおぼえがない。
今年は飢饉だという。百姓の下から、ぼちぼち人死にが出始めていると。
「ま、つ、り」
かさついた女の口が、遠くから聞こえた単語をくりかえす。
直後、がらがらっ、と牢が開く音。乱暴な足音が近づいてきて、女はびくりと全身をふるわせる。
どん、と乱暴に粥の入った器が板の間に置かれたつぎの瞬間、女は肩のあたりに走る激痛とともに吹っ飛ぶ。
「ひぃい、おゆ、おゆる、し」
──くりかえされる、虐待の日々。
庄屋の息子は狂人で、ただその餌食に選ばれた不幸を嘆くのみ。
「他言は無用、他言は無用」
歌声のような言葉が、遠くから女の耳に届く。
はじまった。まつりがはじまった。
女はぶるぶる震えながら、自身の膨らんだ腹を撫でる。
本能が、彼女に無事赤ん坊を産み、育てたいという願望を引き起こす。
一方で飢餓感が、明日をも知れぬ自分自身の生命を、腹の中から食いつぶされていくようだと感じる。
ずるずる、びしゃっ。
足音に混じる奇妙な音。なにかが投げつけられ、女は再びビクッとふるえる。
「ひゃっ、おゆるし、おゆるし」
丸っこい。毛が生えている。ぐちゃり、と断面に触れる。
やわらかい──肉。もう一方の手は硬いものに触れる。──角。
恐怖にふるえて、女は手を引っ込める。
「珍味じゃ、喰え、喰わぬか!」
男が、女の手からそれを奪い取ると、断面に指を突っ込み、中身を引きずり出して、女の口に無理やり突っ込む。
「ふが、くぶぉ、ぐしゃ、もぐむぐ……」
味などわからない。ただひたすらに気味が悪い。
「まつりじゃ、まつりじゃ」
突然、女のことなどさっぱり忘れたかのように、男は立ち上がり、踊りだした。
中身をほじくりだした首を、右に左に振りながら、奇妙な歌を口ずさみながら。
ねだやし。ねだやし。
──深夜に、それはやってきた。
女は襲いくる陣痛に耐えながら、必死に生物の本能と戦う。
まつりじゃ、まつりじゃ。
男は、右手にたいまつ、左手に牛の首を掲げて、踊っている。
「喰ろうてやるぞ、喰ろうてもらえ、明日生きる子に、今日つなぐ贄」
「喰ろうてもらえ、喰ろうてやるぞ、他言は無用、他言は無用」
男の目が、ぎょろりと女を見下ろす。そして気づく。いつもとはちがう気配に。
床に羊水の混じった血溜まり。開始された分娩の途中、そこには新しい人間がいる。
「喰ろうてもらえ、喰ろうてもらえ!」
突如、男は嬉々として、それに手を伸ばす。
抵抗しようとする女を殴り飛ばし、悲鳴をあげる女の内側から、それをつかんで引きずり出す。
産声が聞こえたのは一瞬。
ぐちゃり、となにかがつぶされた音が女の耳に届いたのも一瞬。
ざぐり。
牛刀が女の腹を割き、赤児を臓物ごと引きずり出していく。
「ぎゃあぁあ、あぁあ……っあ」
叫ぶ女の顔に、牛の首がかぶせられる。
こもった悲鳴が、永劫のように夜の闇を貫き渡る。
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