向井清純の過去と未来


 神社への参道を登る間、踏みしめる足音に同調して、来し方の記憶がめぐっては消える。


 ──生まれたときからずっと、自分はこの寺の大僧正といわれるやつの孫で、才能のないオヤジに代わって跡を継ぐだろう優秀な兄貴の下にできた、気楽な次男坊という立場だと信じて疑わなかった。

 だから、そんな島の名前は聞いたことがなかったし、親戚のだれかがその地方の出身なんだと聞かされても、へえ、という程度の気持ちしか湧かなかった。


 結論から言えば、まあ、自分を生んだ実の母親が、その島の出身者だったわけだが。

 それは長崎県に属する小さな島で、数十人という規模の集落が、かつてはあったらしいが、いまはもう滅びるのを待つだけの、いわゆる限界集落。

 島には年寄りしか住んでいなくて、持ち主が死んだらその後に住む者はなく、じっさいもう島の半分は廃屋になっている。

 その島に残された遺産を相続するかどうかで、おまえが行って決めて来い、と謎の振りを投げかけられたのが、コトの始まりだった。


 なんでぼくが?


 おまえしか、受け継ぐ人間がいないからだ。そこは、生んだ母親の生家なんだよ。


 もちろん実感なんてない。

 自分を生んですぐに姿を消した母親に代わり、実の子として黙って向井の戸籍に入れた父親の気持ちは、義務感なのか贖罪なのかはわからないが、とにかくその選択が多感な時期の自分を守ったことは、まちがいないのだろう。


 おまえの母親が死んだと知らせを受けた、と父親は感情の読めない声で言った。

 おまえの母方の実家の遺産の相続権は、すべておまえにある。どうするか決めてこい。


 事実を教える気になったのは、要するに事務的な理由だったのか、と納得した。

 実家はどうせ兄が継ぐ。最初から自由な身だ。

 ──おもしろいじゃないか。

 そして、ぼくは島へ渡り、そこが本当の「鬼が島」だったことを知る。




「まがつひ。もどりたる。かりぐらの。せおいつるは」


 詩吟のような語り口で、埠頭に立っていた老人が海に向かって朗々と吟じている。


「すみません、ちょっとうかがいたいのですが」


 老人はこちらを見向きもせず、ぽつりと言った。


「キヨハル」


 答えそうになり、ハッとした。

 その島では子どもが生まれたとき、両親とその子自身にしかわからない別の名前をつける。それは「忌み名」と呼ばれ、人間と化生を見分けるために使われるのだ、という。


 母は自分も両親から忌み名をつけられていたが、そういう島の風習がきらいで島から出たこともあり、ひとりでぼくを生んだときも、忌み名などをつけるつもりはなかったらしい。

 ただ結果として、彼女が息子につけた名前は採用されず、子育てする能力もなかった彼女に代わって赤ん坊を引き取った父の実家で吉凶を占い、いまの名をつけられた。


 結局、おまえの母が選んだ名前を知っているのは、私と死んだ母親だけだ。

 だからこれは、おまえにとっては忌み名になるのかもしれん。


 そう告げられて、教えられたばかりの名前──キヨハル。


 だれも知っているはずのない、その名前で呼ばれたとき反射的にのは、ぼくの高度な危機管理能力のゆえんだ。

 もし忌み名で呼ばれたら、けっして返事をしてはいけない。

 気がつかない振りをして通り過ぎてから、念仏を三度唱えて流水で耳を洗え。


 ぼくは教えられたとおり、黙って老人の横を通り過ぎ、そのまま浜辺へ降りて海水で耳を洗った。

 土着信仰が築き上げたローカルルールを侮ってはいけない。

 すくなくともその土地、その世界観の中では、郷に従うべきなのだ。

 ふりかえると、埠頭にはもう老人の姿はなかった。




 近隣の住人の話を聞いて、自分で考えて行動しろ。

 気をつけて進め。引き返すのも自由だ。わざわざ背負う必要もないだろう。


 奥歯に物の挟まったような物言いで、父はそれ以上のことは言わなかった。

 生まれたときから最大限に祝福され、その期待に応えられるだけの才能を持ち、霊的にもそうとう高位にある兄が、めずらしくぼくに声をかけた。


「踏み外すなよ」


「……めずらしいね、ぼくが兄貴の眼中に入れてもらえるなんて」


。おぼえておけ」


 あいかわらず言葉が少なすぎて伝わりづらいが、兄自身、一を聴いて十を知るタイプなので、他人もそうだろうと思い、またそうでなければ会話する価値もないと思っているようなところがあった。


「はいはい、ご忠告痛み入りましたよ」


 すでに遠のいた兄の背中に向け、ぼくはふてくされたように言った。




 最初、住人は口数が少なかった。

 祖母の葬儀一切は、慣れたものであるらしく近隣が取り仕切ってつつがなく終わっていた。


 お互い様ということもあるが、無償の労働というわけでもない。

 家の中に金目のものが一切なくなっているのは、形見分けと称して近隣住民がすべて持ち去ってしまっているからだった。

 財産目的ではないぼくとしては、もともとそれほど物持ちではなかったのだ、と信じることにして、ふと庭にある土蔵に目を留める。


 ここだけ数世代、時代が遡った感じのする建付け。

 何度も塗り直された壁は、ここ数十年に限っては手入れをされず、ひび割れたまま放置されている。

 気になったのは、扉にかかった錠前だけは、最近人の手が触れた痕跡があったこと。


 錠前じたいは古いもので、かなり赤錆びてはいるが、錠前としての機能を果たせるラインはクリアしている。

 近隣の住民に鍵について問うと、隣家──といっても丘ひとつ越えた距離だが──の爺さんが、しぶしぶのように持ってきた。


「管理ば任されっと。ばってんか、たいしたもっとは入っとらん」


 鍵を受け取り、土蔵を開くと、すえたような澱んだ空気が流れてきた。

 一見してここ数年来、使われた痕跡がない。


 たしかに、ほんとうにたいしたものはなかった。

 かつて農作業に使っていただろう季節農具とか、もっと以前に祭事で使っていたらしい小道具、古い書籍や初期の電化製品のようなものもあったが、現在価値としてはゼロに等しいだろう。

 万一、骨董的価値があれば隣の爺さんが処分しているはずだ、という直感もあった。


 だとすれば、見せるのを渋る理由はない。ふと、そう思いついた。

 金銭的価値とは無関係ななにかが、ここにはある。

 本能的確信をもって、ぼくは土蔵を調べつづけた。


 背後からは老人からの視線が痛いほど注いでいたが無視して、山積みされていた無価値なものを取り除いたところに発見した床板には、この先があることを意味する取っ手。

 老人は一瞬、ぼくを止めようとしたようだったが、どこか諦めたようにやがて両手を下げ、ひとことだけ言う。


「……見んほうがよか」


「でしょうね。


 ぼくは取っ手に両手をかけ、ぎいぃいぃーっ、と引き開けた。




 そうとうな遺恨のある呪物。

 これを祓えれば一人前。そう言われている気がした。


 これは向井の家から課された、元服の課題なのではないかと。

 これを祓えるくらいになって、ようやく名門の一員として名乗りを上げられるだけの資格を有するのだ、と。


 老人は、すこし驚いたようだった。

 並の人間なら、それを見ただけで混乱し、正気ではいられない。

 すこし詳しい人間なら、近寄ろうともしない。

 生半可にかじっている人間が手を出したら、気が狂うよりも恐ろしい事態が引き起こされるだろう。


 その小箱を、ぼくは慎重な手つきで手に取り、ゆっくりと開けた。

 それは、干物のようにからからに乾いた──手だった。


「──猿の手か」


 半可通なら、そのくらいの知識はある。

 老人は目の前の青年の気がいつ狂うのか、じっと観察しているかのようだ。

 猿の手は、もともとはイギリスの恐怖小説。三つの願いというテーマを、猿の手が聞き届けてくれる、という形で名作短編に仕上げられたものだ。

 だが、しょせん単なる呪物。ふつうの役に立つようなものではない。


「この手の呪物に願うことなど、最初から。……いったい、んです?」


 まさか反撃がくるとは思ってもいなかったのか、老人はぎくりと身体を揺らし、ミイラの手とぼくの目を見比べてから、


「よかから、そいば戻せ。長く手にしとっと魅入らるっぞ」


「──並の霊能者なら、そうでしょうね。だが、このぼくはちがうんですよ、爺さん」


 素手で猿の手をつかみ、びくっ、と全身が痙攣する。

 老人は、直接それに触ったことに驚き、おののいて扉の外に飛び退きながら、


「なんごとなくば済まんぞ、わい……」


 ぼくはしばらくその場に立ち尽くし、ぶるぶる震えていたが、ほどなく顔を上げると、老人を逆の意味で驚かせるような満面の笑みを浮かべた。


な、爺さん」


「な、なんば言っとっけんね、わい」


「それも、に、あんたたちの先祖を救おうとして戦った、だ」


 こんどは老人のほうが、全身をぶるぶると震わせて、ぺたんとその場に尻餅をついた。


「何者ね、わい、何者ね」


「明かしも、慰めもせず、封じて、なかったことにしようというわけですか。祟られて当然の島だな、ここは。そうでしょう? 爺さん」


「もう帰れ、頼む、帰ってくれ、そん手は……」


「これはだ。あんたたちの先祖に裏切られ、見殺しにされた、朴訥な修験者の魂が、だ」


 突き出した干からびた指が、何者かを求めさまようように、ぴくぴくと動いた。

 動くはずのないミイラが、復讐を求めて──。


「ひいぃっ、知らん、オイは、なあんも知らん、ただ先祖から言われたことば、島の平和のために、災いが起きんように、守ってきただけばい、守っただけなんばい」


「安心してくださいよ、爺さん。こいつをぼくが見つけたのは、運命みたいなもんだ。……そうかい、坊さん。あんた、ほんとに純粋だったんだな。はじめまして。ぼくの名前は向井清純。いや、本名は……」


 虚空に向かって何事かを語りかけるぼくを、老人はがくがく震えながら見つめた。

 封じた憎悪が、触媒を混ぜられて再燃──あるいは鎮火してくれるのか。

 一抹の期待をこめて見上げた老人の視線の先、ぼくの上半身が黒い炎に包まれたように、おそらくは見えただろう。

 そこには文字どおりの──鬼がいたのだ。




「結局、折伏できなかったのか」


 本家に戻ったぼくを、兄の冷然たる視線が出迎えた。

 胸にある鬼の手が、ぞわぞわと触手を蠢かせて、この心臓をつかんでいるような感覚。

 ぼくは兄の眼を真っ向から睨み返す。交わされる、かつてない視線。

 いざとなれば、自分をも含めて調伏してやろう、という決意を秘めた兄の態度に、ぼくは忽卒として激怒した。


「折伏? 冗談じゃない。こいつは敵じゃない。仲間だよ」


「愚かな。きさまは取り込まれただけだ。闇に」


「そう見えるとしたら、あんた意外に低能なんだな、兄さん。想像力の欠如か、それともバカがつくお人よしかな?」


 挑発するぼくを無視し、兄は淡々とを口走る。


常祓じょうばらえの準備……」


「待ってくれ、兄さん。せめて総祓そうばらいにしてくれないか。失礼だろ、こいつにさ」


 胸に手を当てるぼくの背中に、巨大な影を見た兄は思わず足を引く。


「きさま、それは、いや、まさか」


「本来、あんたは平身低頭しなきゃいけないんだけどな。がだれか、ほんとうにご存知なら。それでも祓うかい? 坊主が悪魔に取り憑かれて御祓いを受けるなんて、こっぱずかしいが、まあ低能僧侶にはよくある話でもある」


「自分が取り憑かれていることにも気づかないのは、もっと低能だろうが」


「取り憑くとか祓うとか、そんな低次元の話じゃないんだ。ちがうんだよ、兄さん。これはという、もっと高い次元の話なんだ。──ぼくは認めたんだ。修験者の憎悪を受け止めて、昇華する方法を見つけたんだよ」


「修験者、やはり……」


 ぎろり、と兄はぼくを凝視する。

 しかし、ぼくは恐れ気もなく、かつて一度も上回ったことがない優秀な兄を、見下すような感覚とともに言う。


「まだな、兄さん。あんただけならともかく、あんたの背後にいる全部の組織は、その気になりゃ、ローマカトリックとも対等に渡り合う連中だ。もうすこし、修行してくることにするよ。期待してくれ、兄さん。膨れ上がったってやつを、この手に入れてきてやるから」


 背を向けて歩き出すぼくに、兄からかける言葉はないようだった。




「そう、してやるよ。使のは、ぼくしかいない。なんだ」


 傾いた鳥居をくぐると、そこには求めつづけていたものがある。

 戦いは最終局を迎え、ちょうど老人が自滅の呪詛を執行したところ。

 ぼくは、すべてを悟った表情で、ぱちぱちぱち、と乾いた拍手をした。


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