小平秀人は祟りから逃げ隠れる


 ずし、ずし、ずし。

 くだんはゆっくりと、求めてやまなかった血の果て、宿命の鎖の行き着く末裔すえに歩み寄る。

 両手を広げ、その身体をゆっくりと抱きしめる──ぐにゃり。

 件の手のなかで、それは水に溶かした紙のように曲がり、くずおれた。


「こ……れ……は……」


 件の目が見開かれ、ぐるりと周囲を恐ろしい形相で見回す。

 めつけたさきに向け、大きく振りかぶった腕をたたきつける。

 魔力の鎌が烈風のように空気を切り裂き、そのさきにあったご神木の幹を盛大に穿つ。

 ──そこには、人の形に切り取った紙が、釘で打ちつけてあった。


「シ、キ……神……を、ぉお、おのれェエ」


 見ただけで小便を漏らしそうな強烈な憎悪を撒き散らし、その場でぐるぐる回りながら地団太を踏む件。

 ──俺はまだ、かろうじて第一段階にある。

 その「守護」をくれた巴は、結界の内側に身を隠しながら、おそるべき件の凶状をじっと見守っている。


「お願い、守って……」


 両手を合わせた祈りのさき、件のほとんど目と鼻の先に、俺は立っている。

 耳なし芳一の結界に守られて……。




「この村には何箇所か、安全地帯のようなものがあるみたいなんです」


 ハンドバッグから出した和紙の人型に、俺の髪の毛を織り込みながら巴は言ったのだった。


「なんとなくわかるよ。ここ……この神社も、崩れてはいるけど、漠然と魔物を寄せ付けないような雰囲気はある」


「はい。ここも当初は、何人かが隠れて殺戮の舞台をやり過ごした歴史のある、強力な聖域でした。でも、いまは……」


「荒れ果てて見る影もなし、か」


 巴は境内の奥、祭壇の中心にある、すこしくぼんだ部分を指差す。


「神石の置かれていた場所、この土地が生まれて以来、原初に成立した霊脈の中枢です。いまはこの一点だけが、かろうじて聖域の痕跡を残しますが」


「じゃ、ここに立てば……」


「無理でしょうね。たった一点の残された聖域、その力をすべて借りても、あの巨大な悪魔の目から逃れることができるとは、とても思えません。──この方法でも、足りないかもしれないけど」


 神木に式神を封じた巴は、そのまま俺のもとにやってきて、バッグから口紅を取り出して見せた。


「なにをするの?」


「神仏習合の式神、和洋折衷の口紅、とでも申しましょうか。いまは、これしか持ち合わせていないんです。本来、儀式で聖別された特別な筆記具を用いるのが筋なんでしょうけど……。このルージュも、いま、おじいちゃんに魔力をこめてもらいましたから。──動かないでくださいね」


 軍服姿の老人は、あいかわらず巴を守る位置に腕組みをして立っている。

 その鉄壁の守護を背に、巴はルージュを引く。

 まずは俺の手の平から、指、腕、肩、そして首へ向けて。


「くすぐったい……」


「服を脱いでください。全身に描かなければ意味がない」


 言われるまま、上着を脱ぐ。

 巴は真剣な表情で、スポーツ少年であって以来、ずっと運動をつづけてきた体育会系男子の鍛えられた肉体をキャンバスに、すらすらと経文を描きこんでいく。

 古典に疎い俺にも、さすがにわかってきた。

 それはあまりにも有名な物語だからだ。


「これ、もしかしたらアレだよね」


「そう、ソレですね。とても有名な怪談の古典」


「耳なし芳一だ」


 巴はうなずきながら、バッグからアイブロウを取り出した。

 耳のように細かい部分は、口紅では描けない。

 細い化粧ペンで、慎重に経文を書き込んでいく。


「芳一のようにはしませんよ、安心してください」


「くすぐったいな」


 もぞもぞと上半身を揺する俺を、巴はすこし力をこめて押さえつけた。


「平家物語を語る琵琶法師……小平さんはもしかしたら、平氏の血族に連なるものなのかもしれません。因縁のようなものを感じませんか?」


「小平物語、ってなんかパッとしないけどねー。だとしたら、巴さんは源氏かなあ。平家の落人を、巴御前が助けたりするなんて、時代も変わったよね」


「もう、冗談ばっかり」


 巴の細い指が、俺の肘をきゅっとつねる。

 一瞬流れる桃色の空気。

 ごほん、と老人の咳払い。

 あわてて作業を再開する巴。

 やがて全身に経文を描き終わると、もう服を着ていいですよ、と許可を与えてから、


がやってきたら、この場からでください。声も出してはいけません。それから音を立てたり、呼吸の音も控えて。すこしでも動いたら、たぶんもうダメです。見つかったら……あれに見つかったら、もう……」


「わかったよ、巴さん。心臓も止めておく?」


「もう、これは冗談じゃないんですからね! 一応、境内の目立つ場所に式神を封じて、あれの目をそらせておきますが、すぐに破れるでしょう。その後、あれは必死であなたを探すはずです。……お願い、見つからないで」


 俺の服の裾をきゅっと握り締める。

 その小さな肩をいとおしく感じた俺が、彼女を抱き寄せている時間は、残念ながらなかった。




 件はくんくんと鼻先を蠢かしながら、見えない俺の姿を探していた。


「どこだ、たいら、どこにいる、たいらのすえ


 俺は、乾いた喉にひりつくものを、唾液と一緒に飲み込もうとして息を止める。

 目と鼻の先に牛の首が近づいて、猛烈な瘴気を吐き出してきた。

 全身の筋肉が縮み上がり、脂汗までが凍りついたような感覚。


「ここにいるのは、わかっている、におう、におうぞ、約束じゃ、わしはここまで、ようやくここまで来た、果たせ、おまえの番じゃぞ」


 牛の首が、ぶつぶつ言いながら横を通り過ぎた。

 萎縮した喉の奥から、細い息が染み出すように漏れる。それだけで、件に嗅ぎ取られ見つかるのではないかという恐怖。

 毎日の運動で鍛え抜かれた筋肉と、野球部の厳しい練習に耐えるだけの精神力を養っていなかったら、早い段階でぶっ倒れていただろう。


「お願い、耐えて、秀人さん」


 境内の隅に小さな結界を張って、そこで守護霊に守られながら、祈りつづける巴。

 ──そのまま、どれくらいの時間が経っただろうか。


 件は廃墟となった神社の隅から隅までを、地面に鼻をこすりつけるようにしながら、何度もぐるぐると回りつづけた。

 ただ、俺の立つ場所だけは避けて。

 それはほとんど奇跡のようにも見えた。


 うぉお、おお、おぉおーん!


 やがて耐えかねたかのように、首を高く上げ、吼える件。

 そのまま朽ちかけた床石を踏み破って、高く高く舞い上がる。

 漆黒の弾丸となって舞い上がった件は、上空から、ぐるりと周囲を見回した。

 俯瞰して標的をとらえようとしているのか、あるいは。


 ふいに件の目がぎょろりと動いて、神社の参道からやや離れた場所に注目する。

 件が見つけたもの、それは。


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