第3話:道端で拾った天使との生活が始まった

 マリアが家に来てから三十分程が経過した今、朔は絶体絶命のピンチを迎えていた。


「はぁ……どうすれば……」


 掻くように頭を抱え、思わず大量の息が漏れてしまう。


 邪魔になった前髪を掻いて流すと、朔は天を仰いだ。


 その原因は、お風呂場から漏れ出てくるシャワーの水音に他ならない。


 今までダンボール生活だったから、とマリアにお風呂を勧めたまでは良かったのだ。


 朔も年頃の高校一年生である。煩悩が無いと言えば、当然ながらそれは嘘になった。


 誰も目の届かない密室の中、艶やかに水滴を伝わせるその肢体を想像してしまうのは条件反射のようなもので、ある意味では健全とも言えるはずだ。


 だから、これくらいは許してほしい。切実に。

 

 とはいえ、邪な気持ちからマリアを家に上げた訳ではない。


 迫る気など毛頭無いし、紳士的な行動は心掛けていくつもりだ。


 だから、色欲云々に関してはさほど気になるようなことではなかった。

 

 では、何を気にしているのか。


 それは、シャワーを終えた先の未来。


 自らの花園を庇護する一枚の布について、だ。


 それを端的に言うとするならば、


───いわゆる下着である。


 ここまで大袈裟に言っておいてではあるが、本当は大した問題でもないのかもしれない。


 マリアには悪いが、同じ下着を使い回して貰えばいい。


 しかし、


 というのも、朔にはマリアの装いをこの世界の常識に当てはめてはならないような気がしたのだ。


 マリアは中世の荘厳な絵画に描かれている神々や天使が身につけているような、純白の装束を身に纏っていた。


 薄手のキャミソールのようなものはあれど、その内側に布があるとは思えなかったのだ。


 お風呂から上がったらこれを着てね、と学校の体操着を渡してしまった手前、それがどうしても気になってしまっていた。


「もう着れないじゃん……」

「何がですか?」

「うわあぁぁぁ!!!」


 真後ろから響いてきたマリアの声に断末魔の如く悲鳴を上げてしまう。


「びっくりした……」

「さっきから居ましたよ?」

「本当に?」

「はい」


 ドアを開ける音すら気づかないくらいに苦悩していたらしい。


 朔は覚悟を決めるように大きく息を吐いた。


 運命の瞬間、である。


 意を決して振り返った先に映ったのは───。


「これ返しますね」

「あ、うん」


 出会った時と同じ純白の装束を纏ったマリアだった。


 マリアから畳まれたままの体操服を手渡され、朔は安堵の息を落とした。


「さっきと同じやつ着たんだね」

「同じやつと言うか……同じやつなんですかね?」


 歯切れの悪い、違和感の残る言い方に朔は首を傾げた。


 朔からは全く同じものに見えるけれど。


「同じやつってどういうこと?」

「この服はいつでもどこでも出せるんですよ。天使なので」


 ヒラヒラと布地を揺らしたり、身を翻しながら衣服を見せてくるマリア。


 当然本物の天使だから当たり前なのだが、頭上に浮かぶ金色の輪に純白の羽を見ると本当に天使みたいだ。


 ファンタジーでしかありえないと思っていた天使が、目の前にいる。


 改めてそう考えると、全くの現実味の無さにどこか夢の中にいるような感覚に陥る。が、つねった頬はちゃんと痛かった。


 それと、マリアの天使なので、というセリフが余りにも免罪符すぎることにはツッコませてほしい。


「髪、乾かしてきたら?」

「乾かすってどうやってですか?動物みたいに頭を振るんですか?」

「あー、頭は振らない……かなぁ」


 予想の斜め上の上の上を突き抜ける返答に朔は苦笑しながら答えた。


 今まで天界に居たとはいえ、常識が無さすぎるのではないかと心配になる。


 悪意のある人と先に出会っていたら、かなり酷いことになっていたのかもしれない。


 これからこの世界(下界?)で生活するにあたって、常識を覚えるのが喫緊の課題であることに間違いはなさそうだ。


「マリア、ソファに座って待っててくれる?」

「分かりました」


 流石にマリアにヘドバンをさせる訳にはいかないので、朔が髪を乾かしてあげることにした。


 ドライヤーを取りに行く道中、水滴がところどころに垂れていたことは気にしないでおこう。


「マリア、こっちに来てくれる?」

「……?分かりました」


 ソファに腰掛けた朔の両足の間にマリアがすっぽりと埋まる形で収まった。


「久しぶりだから熱かったりしたら言ってね」


 温風と共に、水分を飽和させたきめ細やかな金髪が指を伝う。


 こうしていると昔、妹──日菜の髪をよく乾かしてあげていたことを思い出す。


 朔が小学校卒業した後、両親と一緒に海外に発ってしまったから、もうまともに三年間も顔を合わせていないことになる。


 日菜ならきっと海外でも元気にやれているだろうし、特に大きな心配もない。


……次会うときまでには過剰すぎる甘え癖が改善されているといいけれど。


「お痒いところはありませんかー?」

「え、あ、はい!」

「そうだ。明後日の土曜日にショッピングモールに行こうよ。これからいろいろ必要だし」

「いいですね!行きたいです!」

「マリアは何か欲しいものある?」

「欲しいもの……欲しいもの……」

「まだ分からないよね。来たばっかりだし。ゆっくりいろいろ見て回ろうか」

「はい!」


 しばらくドライヤーの音と互いの声だけが響いていた。


 肌が触れるほど近くにいるのに二人とも声を張っているのが妙に面白かった。


「マリアには好きな食べ物ってある?」

「オムライスです!」

「いいね。じゃあ今日の夜ご飯はオムライスで決定」

「ほんとですか!?」


 ドライヤーに遮られてもよく聞こえる、マリアの嬉しそうな声が届く。


 リズム良く左右に揺れ出した頭からもマリアの気分の良さが十分伺えた。


 マリアとの生活がどれだけ続くかは分からない。


 明日にはもう居なくなっているのかもしれないし、一年後も二年後も一緒に居るのかもしれない。


 けれど、その時が来るまでずっと楽しくやっていける。そんな確信めいたものがあった。


 今、朔の心が躍っていること。


 それが何よりの証拠だった。


「マリア、改めてこれからよろしくね」

「いきなりどうしたんですか!?」

「なんでもないよ」


 マリアには見えないことが分かってて、朔ははにかむように笑った。

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