第20話
ふと違和感を覚えて、目を開けると見慣れぬ天井。布団は実家から持ってきたものだが、何となく座りが悪い。自分以外の人の気配を感じられず、寒い時期ではないのに寒々とした部屋を見回すと、寝室にした六畳間の、真新しい畳の匂いが、違和感の正体だと気がついた。
――平成九年。一人暮らしを始めて数ヶ月、念願だったわけでもない私にとって、2LDKの高級賃貸マンションは広すぎた。
元々、そう言うものに疎かったというのも原因の一つでは有る。……が、当時の私は控えめに言って『バカ』だったのだろう。不動産屋に行き、会社に近い物件とだけ話し、肝心の予算や、間取りなどを決めていなかった。故に内見の際、見せてくれる物件は確かに良いものばかりだったが、逆に言えば、家賃を一切教えてくれなかった。
……あと、大きな声では言えないが、その時担当してくれた人がやけに馴れ馴れしい女性だったのだが、あれは一体何だったのだろう。
ともかく、私の新たな住処も、結局は長続きしなかった。
――何故か。
まぁ、私のバカのせいでも有るのだが……。
刃傷沙汰を起こしてしまったのである。断っておくが、私が被害者なので、そこの所はお間違えなきよう先にお伝えしておく所存です。
先述の通りでは有るが、当時の私には、お付き合いしていた女性が一人では有りませんでした。一人以上、数人程度であります。別にモテ自慢をしているわけでは有りません、当時、バブル経験者でも有る私達世代の男連中は、特に『ガテン系』に携わって居た方ならご理解いただけると思うのですが、異常なまでに『金回り』が良かったのであります。月収は
そんな高給をたかが二十五歳程度の人間が持つとどうなるか?
弱くて馬鹿な『女性の臀部』を追いかけ回す私の出来上がりです。
普段着は嫌味な程ハイブランドを着込み、クルマは所謂VIPカーを乗り回す。休み前には必ずスナックをはしごし、高級ブランデーをボトルキープ。下品で最悪なヤカラでした。そんな最低な男ですから、その日もお持ち帰りをした女性と気だるい朝を迎えたつもりでした。
――ピンポーン。
何度か鳴らされたのでしょう、少しの間が空いたあと、隣の女性がゴソゴソと動いたのが分かりましたが、昨夜の疲れのせいで私はそのまま動きません。彼女が立ち上がり、寝室を後にしたと思った時、玄関の鍵が『ガチャリ』と開けられる音が聞こえます。途端脳裏に奔る電撃のような感覚、加速した思考の中で『誰だ?!』と思いながらも瞬間的に反応した身体は、思考が追いつく寸前に、その光景を網膜に焼きつけられたのです。
「……どなた?」と言ったのは室内側の女性。
「……は?」と応えるは見知った人。
玄関先で向かい合う二人の女性。
室内側の女性は半裸にブラウスを纏った格好で、玄関側には、お付き合いをしていた彼女の顔。
『メンヘラ』と言うスラングが現れたのは、今から十数年前程度だと思うが、それ以前にも所謂依存症が濃く現れる女性は存在していた。束縛が酷かったり、感情の起伏が大きかったりと情緒不安定な部分が有ったりと、「ヤバイ女」として認識はしていたのだが、実際そんな場面を見たのは初めてだった訳で……。
彼女がそれだったと気づいた時、私は根源的な恐怖を覚えた。
「ちょ、待て! 違うねん、こ――」
なんとか捻り出した言葉はこれだけ。いや、意味すらないが、とにかく口をついたのはそれぐらいだったと思う。
女性を壁に突き飛ばし、ずんずんとヒールも脱がずに突き進む彼女。どす黒い……いや、ゆらゆらと何かが背で揺らめいた彼女に気圧され、私が尻込みをすると、目線をチラとだけこちらへ投げ、そのまま無言でキッチンへ向かう。
「……逃げろ!」
「え?!」
私の言葉の意味がわからず、聞き返す女性に咄嗟に私がもう一度話しかけた時。
「アイツはちょっとやばい! 逃げ……がぁっ!!」
彼女の身体が私にぶつかった。
直後腰に感じる、猛烈な熱と鋭い痛み。
振り返り、彼女を見ると、呆然と立ち尽くしてわなわなと震えている。手元は何も持っておらず、揺れる瞳からはボロボロと涙が溢れていた。
「……でよ」
小さなつぶやきは聴こえず、私は未だ熱く痛む自分の腰を見ようと体を捻っていると、絶叫のような声で彼女が叫び始める。
「なんで、私が居るのにここに知らん女が居てるんよ!?」
その声は酷く響き渡り、腰に刺さっていた万能包丁が、床に落ちてカランと鳴った筈なのだが、私がその音を聞き取ることは出来なかった。
◇ ◇ ◇ ◇
「……被害届、出すのか?」
刑事さんが言った言葉なのだが、少しと言うか、かなり疑問に思ったものだ。
あの後、すぐに気づいた近所の住人が通報してくれたお陰で私は救急車で病院へ搬送され、女性と彼女は駆けつけた警官により、保護と逮捕をされた。病院へ向かう救急車の中、私の傷の具合を隊員が確認していたのだが、不幸中の幸いか、血管は傷ついておらず、また腰骨に当たったのか、躊躇が有ったのか、深く刺さっても居なかった。とはいっても、深さは二センチを超え、傷口は三センチほど縦に裂けている。出血が多く、うつ伏せに寝ていたが、次に気がついたのは病院のベッドの上で、既に処置は終わっていた。
「えぇと……どゆ事?」
病院で目覚めて数時間後、話を聞きたいと警察手帳を持ったスーツのおじさんが二人と、数人の男性が個室に押し寄せた。今回の事件に際し、傷害で立件するかどうかを決めるために、事情聴取に来たのだという。
いや、普通、そうだよね。私刺されてますし? ……え? 違うの? と困惑したまま変な顔をしていると、そのおじさんは傍の椅子に腰を下ろして何故か私を睨んでくる。
「……確かに今回の件でおたくさんは怪我をした。病院で『四針も縫う』手術までしたし、一週間は入院して経過観察も必要らしい。……うん大怪我や、下手すりゃもっと酷い事になってたかもな」
ウンウンと頷きながら、手元にある資料を横目に話して、そこで一旦切る。
「〇〇、◯。二十一歳。大阪市〇〇――」
彼女の氏名や住所がつらつらと述べられていく。
「昨日、当該被害人との連絡を試みようと、午後九時から深夜二時過ぎまで十二回、携帯電話で連絡したが応答が無かったため、心配になり、翌本日午前六時二十分頃、被害人宅へ訪問。その際、チャイムを三度鳴らすも応答が無かったため、『被害人より預かった合鍵』にて部屋の鍵を開け、玄関扉を開いた所、見知らぬ半裸の女性と接見。直後、その後ろに現れた被害人〇〇を発見。全裸の被害人を確認し、状況を把握した後……頭に血が上り、気づくと被害人を刺してしまっていた」
「……」
資料を床頭台に置き、ふぅと深い息を吐いてから、見上げるような仕草で私へ視線を送ってくる。傍で立つもう一人のおじさんも、何故だか私を責める視線。
……痛いです。その視線は痛いのです、当然ですがまだ腰も……。
「……もう一度聞く。被害届――」
~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
結果として私は、被害届を出さなかった。本来ならば許されないとは思うのだが、そう言う事になってしまった。あの時、外に居た数人の中に私の見知った警官が幾人か居たのは知らぬ事だ。
……が、家の方は簡単ではなかった。
結局、迷惑料を支払い、今度は小さな2Kの低層マンションへとコソコソっと引っ越した。
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