傷心に付ける薬
次の朝、登校する間はずっと新曲の録音を聴いた。
昼休みは食事を済ませたらベンチに座る。いつも同じベンチだ。私のことを待っているかのように常に空いている。曇天だが、雲はまだ雫を搾る準備が出来ていないから、午後の授業が始まるまではここにいられそうだ。
イヤホンをすればまた景色が背景に、紙が水にほどけてゆくように溶ける。今日ばかりは新曲を聴く。鞄から未完成な歌詞を書いたルーズリーフを取り出して頭の中でメロディーに乗せる。悪くない。
視界の中でしきりに動くものがある。それが手だと気付いて、イヤホンを取る。
「夏夜、集中し過ぎ」
恭子だ。今日は一人のようだ。
「どうしたの?」
「ううん、明後日だから。忘れてないよね?」
恭子は小首を傾げて口角を上げる。長い髪が垂線になる。私は忘れていた。だけど恭子の顔で思い出した。
「健二のライヴ」
「来てね。友達も一緒だとなお嬉しい」
私は頷く。控えめに、肯定ではなく返事の範囲だと強調するように。
「検討する」
あはは、と恭子は笑う。
「正直だね、夏夜は。うん。期待してる」
じゃあね、と手を振って恭子は背景の中に飛び込んで行った。背景だと思っていた中に男の人が一人いた。恭子がその男に声をかけたとき、恭子が私のところから引っ張って行った背景ではない方の世界が、その男にも泡が弾けるように伝染した。二人の距離は近くはないのに、親密だと言うことが伝わって来る。二人とも私への関心は残してなくて、左側へ消えてゆく。恭子と私を繋いでいたものがプツリと切れる。
イヤホンを付ける。この曲を育てるための困難があってもいいのかも知れない。ライヴはそう言う、曲にとっての困難に、もしくは刺激になるだろう。このタイミングでライヴがあるのはこの曲のためだ。……行ってみようかな。金曜日のライヴ。
午後の授業、四時限目の途中にラインが来た。だけど授業中には見ない。本当に急ぎの要件なら電話を鳴らすはずだ。
休み時間にスマートフォンを開いて、ラインを確認する。英太だった。
『傷心に付ける薬はないですか……?』
ハートがバラバラになるスタンプが添えられている。雪子が去ったすぐにあれだけ泣けたのだ、毎日しっかり泣いているだろう。ちゃんと学校に行っているのかな。サボって泣き暮らすなんてみっともなさ過ぎる。いや、そこは信じておこう。今度訊けばいいことだ。
失恋を慰めるもの、か。
時間が解決するってよく言うから、時間が経つことが癒しになる理由から探そう。
想定される理由の一つは、別れた事実との距離が出来ること。客観的に徐々になるし、別れているので相手がどんどん現実から遠くなる。
もう一つは、時間があればその分だけ他のいいことも悪いことも、新しい恋も、起きて、それによって紛らわされること。
さらにもう一つは、それでも大体普通の毎日が続くことで、失恋の事実が「普通」に希釈されてゆくこと。
一つ目と三つ目は早回しは出来ないけど、二つ目の「紛らわされる」については、旅行に行ったり、喋ったり、――喋るのはそれはそれで紛らわす以外にも整理したり、気持ちを吐き出したり、単純に話すことが気持ちよかったりする、と言う効果もある――、野球を観たり、猫と遊んだり、……あらゆるイベントがそれを促進することになる。だったら、一緒に何かをして、たくさん喋るのが薬になるんじゃないか。
頭の中に閃光が走る。
「健二のライヴ」
その体験が英太にとってどう言うものになるかは分からない。私にとってだって分からない。それでも、傷心を癒すイベントの一つにはなる。だったら行こう。英太を連れて。私だけのためならまだ迷うけど、もう半分に英太のためがあるなら踏ん切りをつけてもいい。その前後で喋ろう。
一日の授業が終わり建物を出たら雨が降っていた。糸を垂らすようなそれはまるで地面と空を繋いでいるみたいだった。繋がられた地面と空は次第に近付いて行く。でもそれは大陸が移動するよりもゆっくりだから、誰も気付かない。それでも接近してゆく。人間の命の長さから見たら永遠の時間をかけて、接近してゆく。
鞄を見ても折り畳み傘はない。建物の出入り口にある屋根の下で立ち竦む。……どうせ雨なら、ここで英太に電話をかけよう。
スマートフォンを出して英太を呼び出す。五回コールして出ないから切る。雨はきっと止まない。売店で傘を買わなきゃ。でももう少し待ってみよう。電話と雨とどっちかが変わるかも知れない。
地面と空がくっついたら、その間に生きている私達はどうなるのだろう。……潰れる。大地は刷新されて、新しい生態系がはびこるのだ。これまでの大量絶滅の本当の理由はこれなのかも知れない。隕石でも酸素濃度でも気温でもなくて、空による圧排。今日も雨が一歩最後の日を近付ける。私は緩慢な終焉のほんの一部を見ている。
スマートフォンが震える。見れば英太だ。頬が緩む。
「もしもし」
『あ、ごめん、さっき出られなくて』
「いいよ。ライン見たよ。毎日泣いてるの?」
『それがさ、あのとき雪子を見送った後に泣いて以来、悲しいのに涙が出ない』
「でも、まだ失恋してるんでしょ?」
英太は少しの間黙る。考えているようでもあるし、動揺しているようでもある。
『それはそうだと思う。だけど、早くここから抜け出したい。そう言う気持ちの方が今は強い』
「それで傷心に付ける薬、ってことだよね。私なりに考えてみたんだけど、ダメ元で試してみない?」
『どんな?』
私の頬が鋭く緩む。
「今度、うちの大学でバンドのライヴがあるんだ。何組も出る。それを観に行こうよ。今度って言うか、今週の金曜日なんだけど。どう?」
英太は、うーん、と声を上げる。
『音楽は聞くけど、ライヴって行ったことないし、大丈夫かな』
「全然問題ないよ。学内のだからそんな怖い人とかもいないし。大した規模でもないし。むしろ『しょぼっ』って言われたらどうしようかと心配になるくらいだから」
『それはそれで微妙』
「だからダメ元で、って。それでご飯一緒に食べよう」
『まあ、夏夜がそう言うなら。……ごめん。せっかく提案してくれたのにごちゃごちゃ言って』
「そうだよ。今は素直に従おうよ」
はは、と英太の乾いた笑い声。いつもより弱々しい声。
『そうする。ありがとう。じゃあ、いつ、どこに行けばいい?』
私は待ち合わせ場所を指定して、それじゃ、と電話を切ろうとすると、英太が、待って、と遮る。
「何?」
『それまでの間、どう過ごせばいいだろう』
「マンガとか映画とかテレビとか、コンテンツを享受しまくったらいいと思う」
『小説でもいい?』
「いいよ。人生をいっとき忘れられるものなら何でもいい」
『分かった。ありがとう』
「じゃあね」
雨脚は少しだけ柔らかくなったが、終わる気配はないから売店に小走りに向かった。
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