椿と兄

「欲しいなら俺が買ってやろうか?」

「え?」

ホテルでの夕食の時だった。大きなテーブルにいっぱいの食事が置かれている。

昼間の話をしたら憂兄がそう言った。

「ピアノに比べれば安いもんだよ。」

「まあ、たしかに……」

キャビアだか海ぶどうだかわからない具材の乗ったよくわからない料理を口に運ぶ。

「お兄はなにしてたの?」

「恩師に会ってきた。」

ちらりと清臣に視線をやる。

清臣から聞いていた。

裏取引に行ったのだと。

「楽しかった?」

「そこそこ。空気が読めないやつがいると冷めるよな。」

なにかあったんだろうな、と思うけど深く追及はしないことにした。

「椿、デザートやるよ。」

「え、いいの?」

「外国の料理は口に合わないんだよ。椿の料理の方がうまい。」

「ありがとう……」

「椿、次イタリアに来るとしたらどこがいい?」

次また来れるなんて考えていなかった。

「ベネチア……とか?」

「水の都か。」

「お兄は行ったことある?」

「俺はないけど、興が……」

興は清臣より無表情である。

「観光じゃないからな。人が多いだけだ。」

「穴場とか、ないの?」

憂は少し考える。

「まあ、椿はまだ未成年だからな。」

憂が何を考えているのかわからなくて、椿は顰めっ面のまま意外とさっぱりした味のデザートを頬張る。

椿の目の前には三人分のデザートが置かれていた。


日付を越えようとしていた。

椿は一人、広いソファの上で膝を抱いて小さくなっていた。

「寝ないの?」

「憂兄。」

椿は勢いよく振り返る。

驚いたのは気配がしなかったからだ。

「時差ボケ?」

「ううん。普通に楽しくて寝れなくなっちゃった。」

「そっか、それはよかった。」

電気をつけようとして憂はやめる。

「ベランダでない?景色、きれいだよ。」

肌寒くらいだった。

街は小さく灯が灯るだけで、昼間あんなに賑わっていた街並み静まり返っている。

星空の下で眠っているようだが、細々と呼吸している気配はあった。

「寒いだろ。」

憂はそう言って、ブランケットを掛けてくれる。

「お兄は、優しいね。」

「そう言ってくれると、兄をやってる甲斐があるね。」

椿は深く息を吐いた。

「お兄は、いつから京極の仕事をしてたの?」

憂は口をつぐんだ。

そう、兄は京極に関することを隠そうとする。

「気づいたら、かな。」

「お兄は、私のことどう思ってる?」

「どう、って?」

清臣と同じ反応で笑ってしまう。

でも、清臣相手とは違ってこの気持ちをはっきり口にするのは難しかった。

「大事な家族。」

憂はそう言った。

しかし、長い沈黙の後、また口を開く。

「俺らは、望まれてない子供だったんだ。実の両親の顔さえ知らないまま捨てられて、父さんと母さんが拾ってくれた。俺の人生、不幸だったのは最初だけ。今の家族にあってからは、全部望んだ通りだった。京極に入るのも俺が望んだこと。椿の面倒見ることも。」

憂の言葉にはいつものような軽さはない。

一つ一つをはっきりと紡ぎ出す。

「椿が生まれた時、本当に嬉しかった。椿の名前、俺がつけたんだよ。」

「そうなの?」

「センスあるだろ。」

椿は笑顔で頷く。

「まあ、正確には俺たち、か。」

興のことか。

「こんな可愛い妹、他にいないって思った。生まれた時から、椿って美形でさ、俺の人差し指握って笑った時、心撃ち抜かれてさ、この子は人を幸せにするために生まれてきたんだって思った。守らなきゃいけないって思った。」

椿はそんなに愛されていたのだろうか。

そのことさえ、椿は知らないままだった。

「じゃあ、イタリアに来たのは?」

「まあ、俺ら京極家一筋だから一流の京極家になるにはと思って。正直あんまり意味のない時間だったけど。」

憂はいつも椿の目を見て笑う。

「興は俺よりも、椿のこと愛してるから。」

「え?」

興をバカにしたような笑いに椿はつられて笑う。 

「椿の護衛を仰々しくしたのは興だから。」

「おじいちゃんだと思ってた。」

「じいちゃんは、椿は強い子だからって……間違ってなかったけど。」

憂は優しい瞳のまま優しく笑う。

「椿には難しい話かもしれないけど、俺らは家族なんだよ。俺は家族だから、隣にいるだけで幸せだって思える。だんだんでいいからさ、俺らのこと信用して。」

憂の手が伸びて、椿の頭を優しく撫でる。

「まずは、俺のこと知ってもらわないとか。」

“お兄”と呼ぶのが少しだけ恥ずかしくなくなった気がした。

兄の愛を受け取るのに少しだけ遠慮がなくなった気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る