椿、遊園地へ行く3
どのくらい経っただろう。
空腹も、喉の渇きも感じないほど、強い恐怖が椿を支配していた。
なんとか落ち着いた頭の中も、整理できたとは言えないくらい思考が散らばっていた。
不思議と死への諦めや恐怖はない。
どうにかして生きのびるという強い気持ちだけが、消えそうなろうそくの炎のように心の奥で揺らめいていた。
仁は椿が何かを忘れているといった。
どうしても思い出せない。
実際、仁との思い出は、あまりない。
「ちゃんと教えて。」
外はだいぶ日が傾いているようで、仁の表情は翳って見えなかった。
「思い出せないのか。」
椿は視線を落としてそれに答えた。
「教える理由はないよ。わからないまま死ぬのも苦しいだろうし。」
椿は口をつぐんだ。
ストンと太陽が落ちて、辺りが一斉に暗くなる。
「私、仁くんとずっと公園で遊んでたことくらいしか思い出せない。」
椿の中には、幸せな思いでしかなかった。
いつも仁は椿の前を歩いて、椿はその後ろをついてまわっていたような気がする。
仁を追いかけて下手なくせに木登りして、降りれなくなったことも、犬に追い掛け回されたとき、仁が助けてくれたことも、全部、全部覚えてる。
仁のお母さんが作ってくれるお菓子がおいしくて、お父さんが優しくてどれだけいたずらしても怒られなくて――
仁はぐっと唇を噛んだ。
「ねえ、お母さんとお父さんは?」
仁は答えなかった。
椿も重ねて聞くようなことはしなかった。
しばらくたってから、仁は深い息とともに、苦しそうに言った。
「死んだんだよ。」
「俺の父親は、京極家の一員だった。なんで俺が君の隣に引っ越してきたと思う?――父は、お前の護衛だったんだよ」
仁はゆっくりはっきりと言葉を紡ぐ。
その一つ一つが静かに椿を刺した。
「父は一度、過ちを犯した。敵に京極家の情報を流したんだ。椿の居場所も一緒に。」
椿にはそれが信じられなかった。
いつもにこやかに静かに佇んでいた仁の父。
「今でも、父がそんなことをするような人には思えない。」
だんだんと早くなる心音も遠く、椿の耳の中では仁の声が反響するように残る。
「父は裏切り者として殺されて、母さんや俺は、逃げた。でも、心労がたたった母さんは十年前に亡くなったよ。」
死――大きすぎるその出来事が、しかも望まぬ死というものが、現実かどうかもわからない。
それが、大好きだった人の身に降りかかったことも、椿の身に降りかかるということも、信じられない。
「それでも俺には、父の罪が真実かどうかなんて関係ない。俺はただ、俺や、母さんが受けた苦しみが許せない。」
コンクリートの地面が冷たい。
たった一人、不安定な足場の上に立たされているような感覚。
緊張でこわばった肩から力を抜けば、ふっと平衡感覚が消えて、そのまま意識まで手放してしまいそうな危うさ。
「お前はずっと、何も知らないまま、守ってくれる誰かがいて、愛されて育ってきた。俺は、いつ殺されるともわからない恐怖の中で逃げるように生きてきた。これは、復讐だよ。」
仁は自分に言い聞かせるような口調だった。
「わかってる。椿は悪くない。」
そう、私は悪くない。
でも、家族の罪を無関係と言えるだろうか。
こうして、椿の身に降りかかっているのに。
自分ではどうにもできないことを、自分の責任だといえるだろうか。
それでも、今は黙って受け入れるわけにはいかない。
「さあ、行こうか。」
「どこに?」
椿の瞳にはまだ光が宿っている。
日は沈み、イルミネーションの光が差し込む。
「終わりにしよう。」
仁は椿の手を取る。
何も言えなかった。
椿は立ち上がる。
仁の手はやさしい。でも、冷たいその手は小さく震えていた。
仁くん、あなたは……
私は、どうすればいいの?
冷たい風が吹き抜ける。もう冬だった。
仁は椿のこめかみに銃口を当てる。
「椿!」
憂が椿の名前を呼ぶ。
椿にもわかる。
仁の仲間らしき人が十人弱、物陰に隠れている。
京極家の人間は兄二人と、いつここに来たのかわからないが豪と、その他数名。そして、清臣。
「東仁……なんだろうな。あいつの要求は。」
憂は怒りの滲む顔で仁を見る。
興は静かに言う。
「わかりきったことだろう。」
憂は口を閉じて静かに仁を睨む。
十年以上前の話だった。
当時は憂も、あまり事態を理解していなかった。
裏切り者の息子。しかし、祖父は、ボスは、彼を殺さなかった。
何も言わないが、愛する孫娘と同じ歳の仁に人情が動かされてしまった。
彼にとってはそれが初孫だったのだから。
それが首を絞めることになるとは……それだってわかりきっていたことだ。
「あの時、殺しておけばよかったかな。」
憂のこめかみに青筋が浮かんで、銃の先を仁に向ける。
仁も指を引き金にかけ直す。
椿は強く目を瞑った。
「落ち着いてください。」
清臣が憂の銃口を手で遮る。
「お嬢がいますから。」
清臣はいたって冷静だった。
「目的はなんだ?」
「見たらわかるだろ。彼女を殺す。」
仁は怒鳴るように言った。
「それなら、わざわざここに出なくたっていいはずだ。お前の命も危険に晒される。」
「復讐だからだよ。俺の痛みをお前らにも味合わせてやる。」
清臣は銃を構えた。
「おい、お前……」
憂は慌てたように清臣を宥めようとした。
「俺には高い銃の腕がある……そうですよね?」
清臣は憂に聞いた。
「あぁ……まあ……」
「お嬢を殺されるか、お前を殺すか……考えるまでもない。」
「正気か?」
仁は笑いながら言う。
「それはこっちのセリフだ。」
仁の貼り付けたような笑みが消える。
「お前の痛みはお嬢には関係ないだろ。」
「君にはわからないかな。苦しめる側の君には。」
「なんとでも言えばいい。」
清臣は引き金に指をかける。
「死んだら、楽になるだろ。」
清臣の瞳から光が消えた。
そこには、憎しみ、怒り、蔑み、苦痛……深い闇が広がる。
引き金が引かれる……
「やめて!」
銃声と共に椿の声が響き渡る。
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