会合
目を開ける。
視界を埋め尽くすのは白。
触れているのは素材のわからない白い床。
体に痛みは無い。首に触れるとちゃんと胴と仲良くしている様子だ。
すっと息を吸い込むと、ラルフの鼻孔をスパイスと焼けた肉の香りが満たす。不思議と気分の悪くなることはなく、むしろ空腹感がもたらされる。
起き上がり、ゆっくりと後ろを振り返る。途中の景色はどれもこれもが真っ白だが、見える範囲に光源の類は見つからないし、影もないように見えた。
「?」
背後を見て、それからラルフは首を傾げる。
どこまでも広がる真っ白な空間だが、そこには豪奢な椅子とテーブル。そしてそこに座る一人の男が居た。
真っ黒な髪と真っ黒な目をしたそいつはテーブルの上の皿に盛られたステーキに銀のナイフを当て、一口大に切ってこれまた銀のフォークで口へと運んでいる。
しばらく咀嚼し、嚥下するとひどく不満そうにナイフとフォークを置く。それから
「まずい」
低い声でそう言うと、まるで役目を失ったかのようにテーブルや食器はまとめて霞となって消えていった。
無風ながらに霞は横へと流れて行き、そこでようやく男はラルフへと視線を向けた。
「なんだ、お前か。」
あまりに聞き覚えも見覚えもあるその男は、ラルフと同じ声と顔でそう言った。
「お前は───。」
「お前は俺だ。だが、もう俺じゃない。」
「!前の俺か」
ラルフはため息をついてから立ち上がる。壁と見分けが付かないが、突然抜けたりする心配は無さそうだ。
慎重な様子がおかしかったのか、男はくすくすと笑って優雅に足を組み直した。
エリックが言う通りであれば、それは邪悪で最悪の───
「さて、どうだろうな?」
「!」
思考に割り込まれる感覚にラルフは顔をしかめる。
この感覚にも覚えがあった。同じ声でこちらの苦悩苦悶を楽しむ、
「あの幻聴はお前か?」
「
まあ、いささか遅すぎるがな」
◆◆◆◆◆
「そうだな、
椅子から立ち上がったシュランゲはそう言って、ラルフの背後の空間へと歩き出す。
(着いて来いということか?)
眉をしかめ、ラルフは思考する。
だが、現在自分がどこに居るのかも分からない以上、着いていくしかないだろう。そう決めてシュランゲの後を追うことにした。
それから5分ほど歩いただろうか。この不確かな床では足音が鳴らない。後ろを振り返るとシュランゲが座っていた椅子はもう見えなくなっていた。
問。
「シュランゲ、お前の本当の名はラルフだろう」
応。
「おそらくな。俺の覚えている限り、俺はその名で呼ばれた記憶は無い。だからラルフはお前の名前でいい」
問。
「どこへ向かっている?」
応。
「お前に見せたいモノがある。」
問。
「…ここはどこだ?」
応。
「…ふむ。呼び名は考えたことが無かったな。
そうだな、希望の檻とでも呼ぶか」
シュランゲは振り返らない。
揺れる自分と同じ髪質の真っ黒な髪と、仕立ての良い黒いコートの背中、それから黒のスラックスと黒の革靴。
この真っ白な空間ではあまりに浮いて見える。
歩きながら自らの持ち物を調べたが、ろくなものは無かった。どこか懐かしさを感じる服はエリックとマキラと初めて会った世界で、マキラの死後に王になった時の服だ。
伝統的な礼服だが、護身用のナイフは身につけていない。
ジャケットを脱いで床に放る。数歩歩いて振り返ると、そこにはもうジャケットは無い。
いつかは自分もあんな風に消えるのか。そう考え、ラルフは小さく舌打ちをした。
「シュランゲ、どのぐらいここに居るんだ?」
「お前が産まれた時だ。切り離されたあの瞬間から、俺はここに居てお前の目から世界を見ていた」
足を止めず振り返ったシュランゲが自身の目を指し示す。光さえ飲むような漆黒の瞳、そしてそれを覆う瞼が楽しそうに細められる。
「お前が何を考え、何を愛し何を憎んでいたか。お前が『ラルフ』と呼ぶ連中の人生を俺は見てきた」
ラルフは少しだけ唇を噛んだ。『ラルフ』、記憶が戻る前の自分ではない自分。記憶さえ戻らなければ奪われることの無かった彼らの生。
「あまり気にするな。本来あれらは舞台上どころか控室にさえ居なかった者たちだ。
俺たちは本来なら新たな生と共に記憶を得るからな」
「彼らを、あれなどと呼ぶな」
その言葉にシュランゲは少しだけ微笑み、それからまたラルフへ背を向けた。
疲労も無く、飢えも乾きも無くただただ二人は歩みを進める。
「どこまで行くんだ?」
「さてな。俺も暇つぶしに随分と歩いた。まあ、『次』までにはたどり着くだろうよ」
それから何日か、はたまた何年か二人はひたすらに歩いた。
シュランゲ曰く、端にたどり着いたことは無いと言う。ただただ真っ白な空間では得られる情報など無く、時々シュランゲと短い会話をする程度だ。
「たいていの人類はこんな空間には耐えられない。それに、死んだと思い込んでいるから目を開けもしないんだよ」
ふいのシュランゲの言葉の意味は、その後すぐに分かった。
◆◆◆◆◆
初めはシュランゲの背中越しに小さな点が見える程度だった。横並びになって歩くと、それが近づくごとにそれが人の形をしていると理解した。
進めば進むほどはっきりとしたシルエットが見えるようになり、ふとラルフはその人物たちを知っていることに気づく。
「エミーリア…?」
シュランゲを置き去りに駆け寄る。
スカーレットの赤い髪、美しい顔立ちと身にまとう聖騎士の鎧。目を閉じ、眠っているかのような女性はどう見ても、かつてマキラを殺し、ラルフが心を殺したエミーリアその人だった。
「ヒルドルフ、ケイト、ゲンジロウ、ザシャ…アース神父殿…」
『ラルフ』のかつての友が、かつて愛した人、親類、利害関係者、そしてラルフがツェツィーリアとの戦いに巻き込んだ神父が。
仰向けで両の手を体の上で組み、並べられた彼らはラルフの知る姿のまま、そこにあった。おそるおそる触れれば体温があり、ほんのかすかに呼吸しているようにも見える。
「なぜ、彼らがここにいる。」
シュランゲに問うと小さく肩をすくめてため息をつく。
「お前は聞いてばかりだな」
「たが、ここに居るのはお前だけだ。ならお前に聞く他無い。」
「そこを話すには色々と前置きがいる。
はぁ、……少し、面倒になった。3日ほど待て。あと100年ほどはどうせ暇なんだ」
◆◆◆◆◆
止める間もなくシュランゲは歩き出す。
後を追うか一瞬惑ったが、ラルフは待つことを決めエミーリアの傍らに腰を下ろした。
上を見上げても下を見下ろしてもただただこの空間は白い。これほどまでに白く明るいのに、影は目を凝らさなければ見えないほどに薄い。
(黒を、嫌っているかのようだな)
病的なまでに漂白された空間は、かなり居心地が悪い。
随分と常人から感覚が離れたが、まだ人生が1度きりだと思っていたあの頃でも、ここは苦手に感じたようにラルフは思う。
エミーリアの手を取り、手首から脈を取る。
少しゆっくりだが、一定の間隔で小さく指に伝わる鼓動を数える。時計はもちろん飢えや乾き眠気すら感じないため、これで大まかな時間を測ることにした。
(こんな空間に、シュランゲはずっと居たのか。)
マキラとエリックと共に居たあの頃から、おそらくはラルフが死んでいる間もずっと。
ラルフの目を通して世界を見て、ラルフが死ねばこの白に取り残される。動かない死体のような人間たちと共に。
エリックの言うように醜悪な人間だとすれば、これがシュランゲに与えられた罰なのだろうかとラルフは考える。
(与えられた…?)
「…誰がシュランゲに罰を与えた?」
ラルフが見渡す限り、ここに神は居ない。
死ぬその瞬間にこの空間を垣間見たことも、天国へも地獄へも連れて行かれた事はない。
「そもそも、なぜ俺は今になってここに来た?」
眉をひそめ、考える。
何百何千と死を繰り返したが、ここに来たことは一度も無かった。
指先にか細い鼓動を感じる。
それだけを頼りに、ラルフはその場に留まり続けた。
◆◆◆◆◆
「5時間早い」
「誤差だ」
戻ってきたシュランゲは、悪びれる様子も挨拶も無くラルフの前に立った。
「思考は終わったか?」
「まだだ。」
「だろうな」
答えが分かった質問。ラルフがわざと顔をしかめると、シュランゲは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「まあ、座れ」
シュランゲが白の空間に手を伸ばすと、その場にシルクのクロスがかかった机と、それに合わせた椅子が2脚現れた。
(会った時にあったモノもこうして出したのか)
どうやって、という所も気にはなったが、ラルフは疑問を一旦思考の外へと追い出した。仮に強力な武器などを出せたとしても、ここから出られないのだろう。
(出られるなら、おそらくこいつはすでに外へ出ている。)
向かい合って座るとまるで鏡を見ているようだとラルフは思う。服装は違えどそこに居るシュランゲはやはりラルフと全く同じ顔だ。
「俺はかつて、人類の敵として勇者と戦っていた」
そんな前置きの後、シュランゲは昔話を始めた。
◆◆◆◆◆◆
◆◆◆◆
───俺が俺の名前を知らなかったように、俺はあの勇者の名前なぞ知らなかった。
シュランゲの悦楽は破壊にあった。
───人類というのは素晴らしいものだ。取り返しのつかないたった一度きりの生で、その生に唯一無二の色を映す。
シュランゲはヒトの作るものが好きだった。多種多様で無限に広がる芸術や文化そのものが何より好きで、
それを壊すことをなによりも愛した。
───想いを繋ぎ、尊いものを積み重ね、過ちさえ糧に成長していく世界は、あまりに美しい。
そして、それが壊れるその瞬間、シュランゲの心はどうしようも無く昂ぶった。
未来へ繋ごうと文字を綴った本が。名を残そうと描かれた絵が。皆を守ろうと築かれた砦や家が。飢えないようにと開かれた畑が。
なにより、生きようと足掻きに足掻く人類が。
ほんの自らの気まぐれのままに壊され、彼らの努力は無へと帰していく。
従えた悪魔たちとそうして遊ぶことが、シュランゲの生きがいだった。
───だが、毎度邪魔が入る。
『なぜ君はいつも世界を傷つけるんだ』
『悪魔たちに帰るように言うんだ。今なら、命までは取らない』
『話をしよう。僕らは分かり合えるはずだ』
なにを馬鹿なことを。シュランゲはそれを笑い飛ばす。
世界は美しい。
───同意する。
人類は尊い。
───同意する。
悪は、あってはならないものだ。
───俺はアレを拒絶した。
その結果が、63280999回の正義の執行だ。
◆◆◆◆◆
「概ね、かつての俺は悪魔とほぼ同じだ。
どこで死んでも『向こう側』が俺のスタート地点であり、悪魔共は目覚めればそこに居た。
そこはお前との大きな違いになる。」
「…ツェツィーリアが瘴気に殺られた俺を見て驚いたのはそういう事か」
「そうだ。アイツからすれば、空気を吸って死ぬお前はさぞかし滑稽だったろうよ」
ツェツィーリアの名が出ると、シュランゲが楽しそうに目を細める。63280999回などとなれば、ツェツィーリアとシュランゲは本当に途方もない時間を過ごしていたことになる。
「なら、俺はなぜ」
「話を急かすな。」
そう言いながらもシュランゲは時間を引き伸ばすことなく話を続けた。
◆◆◆◆◆
63281000回となるはずだった執行。
突きつけられた刃をエリックはふいに下ろした。
悪魔は尽く殺され向こう側へ。残ったのは間違いなくシュランゲとエリックだけだった。
───いつもとの違いと言えば、俺は後10人の生き残りを殺せばあの世界の人類を滅ぼせた。
それはエリックと共に来た仲間の家族であり、エリックが責めに転じた時には残り30人。エリックたちはその僅かな人類のために数億近い悪魔の群れを抜けたのだ。
元は島国が多く造船の盛んな世界で。世界の殆どが海に覆われた水の世界だった。
『………………もうダメだ』
エリックは剣を捨てた。シュランゲは怪訝に思いながら、一つの可能性にたどり着く。
───このイタチごっこについに音を上げた。と、僅かながら考えた。
絶対的な正義を振りかざした勇者の死を、その死に顔を見てやるつもりだったんだがな。
俯き、微動だにしないエリックへとシュランゲは歩み寄る。特に害する気は無く、ただ死に顔を笑ってやるつもりだったのは確かだ。
『…………なんでなんでなんでなんで君はいつもいつもいつも悪いことばかりするんだ人類みんなで手を取れば悪魔だって受け入れられるのに愛を踏みにじるなんてなんでそんなひどいことが出来るんだどうして人を愛せないんだどうして希望だけを見て生きられないんだどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして』
───まあ事実。あの勇者の思い通りにならない者など居なかっただろうな。
ほぼ無制限の魔力を使って行使される魔法。毒も呪いも効かない体。決して諦めない芯。数多の加護と才能を持つ、それがあの勇者だ。
時折、本当に時折エリックの側につかない人類は存在したらしいが、ただ殺されるだけらしい。
同じ魂は二度と還らない。シュランゲはそう付け加えた。
目を見開きひたすらに『どうして』と繰り返すエリックに、シュランゲは何のためらいも無く魔法を放った。
何かをする、そう感じ取っての事だ。
だがその魔法の矢はエリックには届かず、彼を守る精霊に阻まれ、ぎょろりとエリックの目がシュランゲを捉える。
『もう、君はダメだ』
エリックがそう告げる。
瞬間勢い良く空へと伸ばした手に、巨大な魔法陣が描かれる。未だどの世界の人類も知らない言語と構成式で描かれた陣は強く光り輝いた。
世界中を飲み込みそうなほどに強い光はあっさりとシュランゲを包み、その体をバラバラに引き裂いた。
───俺が最後に見たのは、その白き光の奥で涙を流すあの勇者の顔だ。
◆◆◆◆◆
◆◆◆
「『代償』についてだが…」
それは、シュランゲとエリックが初めから持っている能力であり、特別な魔法のようなものらしい。
生贄を捧げて悪魔を呼ぶように、自らの何かを払いどんな奇跡も叶えることができる術。
「悪魔すらも干渉できない空間だ。似たものを作るだけならまだしも、今まで維持し続けられるほどとなれば代償を使ったに違いない」
「なにを?」
「さあな。実際のところ、あの勇者がどれだけのものを有しているかは奴しか…いや、奴さえ知らんだろうよ」
ラルフが閉口すると、シュランゲは無からカップとティーポットを取り出す。ポットを傾けるとカップには温かな紅茶が注がれた。
「………まずい」
一口舐めた程度たが、シュランゲはハンカチで口元を拭ってティーポットとカップを投げ捨てた。
割れる音もせずそれらが消えるが、ラルフは気づいてしまった事実に青ざめた顔でシュランゲを見る。
「…マキラは、エリックの魔法を代償に蘇った?」
◆◆◆◆◆
「ははははは!!!
シュランゲは手を叩きラルフに惜しみなく賞賛を送る。
頬を紅潮させ、心の底から邪悪に笑った。
「ああそうだそうだろうよ!!
ありとあらゆる聖なるモノでも呪物でも魔法でも物理でも殺せないあの化物!!
まさに人智に唾を吐き捨てた異物そのものだ!!」
椅子から立ち上がり、興奮気味に話すシュランゲをラルフはただ冷めた目で見上げていた。
この空間を創るために、エリックが代償に払ったのは長く殺し合ったシュランゲにすら分からない、どれだけ人類にとっては至宝でも、エリックには些細なモノなのだろう。
そんなエリックが、最強の勇者たる代名詞とも言える魔法を手放してマキラはドゥ=マキラと成った。
そこにどんな考えがあったにせよ、そうして産まれたあの化物は、
(あれは、人類にも悪魔にも、誰にも殺せないんじゃないか?)
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