第29話 偶像
矢崎さんは二十代の頃、A子という女性アイドルを推していた。
「推しているというよりは神を崇拝してるのに近い感じでしたね」
そのアイドルA子は歌もダンスも他のアイドルに比べてレベルが高く、そのパフォーマンス力は圧倒的だった。
顔の造形の美しさ、スタイルとメイク、ファッションのセンスの良さ。そのどれもが憧れだった。出来るだけ自分の姿をA子に近づけるためにA子が使っている物と同じ化粧品を使い、A子が好んで着ているブランドの服を買って身に纏った。
行けるライブにはすべて行った。矢崎さんは東京に住んでいたが、都内近郊だけでなく、北は北海道から沖縄まで全国津々浦々にライブを見るため足を運んだ。
握手会やツーショット写真が撮れるイベントにも何百枚とCDを買い参加した。
部屋はAのグッズで埋め尽くされていた。
それらの莫大な費用をまかなうため、性風俗店で働いた。
A子が発した言葉すべてに影響を受けた。それはまさに神託だった。
「A子みたいな女の子になりたい。私はA子になる。それが私の人生の目的だと思っていました。A子が人生の指標だったんです。A子が親孝行したいって言ったから私も親孝行しなくちゃと思って両親に温泉旅行プレゼントしましたよ」
しかしそんな日々は突然終わりを告げた。
A子が所属していたアイドルグループを解雇され、芸能界を引退するという知らせが、ある日飛び込んできたのだ。
禁止されていた男性との交際が発覚し、その懲罰だった。
「A子はアイドルとして隙のない完璧な存在だって信じきっていたから、そんな事で辞めることになるなんて心底がっかりしましたね」
今までA子に捧げてきた時間とお金は、どぶに捨ててきたかのように無駄な事だったと思えて仕方なかった。
さらに人生の指標とまで思っていた深い想いと信頼が裏切られたことに対するやり場のない怒りに苛まれた。
矢崎さんの失望はやがて、A子に対する憎しみに変わった。
矢崎さんは怒りの矛先を自室のテーブルの上に置いたA子のブロマイド写真に向けた。
キラキラとした衣装を来て全力の笑顔をカメラに向けるA子の顔に、矢崎さんはシャープペンシルの先端を突き刺した。
何度も何度も、思い切り力を込めて突き刺した。
やがて写真に映るA子の顔には小さな穴がたくさんあいた。
刺して、刺して、刺して、刺して、刺し続けて数十回目に異変が起きた。
シャープペンシルの先端がA子の顔に刺さった瞬間、ブロマイド写真から何かが勢いよく吹き出して矢崎さんの顔を濡らした。
矢崎さんは濡れた頬に手をやって、吹き出してきた何かを拭った。
見ると矢崎さんの指先は真っ赤に染まっていた。
矢崎さんはすぐさま部屋にある鏡で自分の顔を確認した。
矢崎さんの顔は血まみれだった。
写真から吹き出してきたのは血だった。
矢崎さんは悲鳴を上げると、顔にかかった血を洗い流すために風呂場へと急いだ。
風呂場の扉を開けると髪の長い女の後ろ姿があった。
一人暮らしの矢崎さんに同居人はいない。
矢崎さんの足がすくむ。
髪の長い女が振り返った。
そこにいたのはA子だった。顔にあいたいくつもの小さな穴から赤い液体を垂れ流すA子だった。
A子はにっこりと微笑むと口を開いた。
「私だってにーんげーん」
投げやりにそれだけ言うとA子はズルズルと風呂場の排水溝に吸い込まれて姿を消した。
矢崎さんは這いつくばって排水溝に顔を近づけると泣きながら、「ごめんなさいごめんなさい」と何時間も繰り返し、気づいたら翌日の朝になっていた。
「A子があの時伝えたかったこと今では少し分かるから、今はそんなにのめり込んでないですし、アイドルとのほどよい距離感が掴めてきたと思います」
そう言いながら、矢崎さんは鞄につけた新しい推しの顔が印刷された缶バッジを撫でながらそう言って微笑んだ。
A子のグッズは大事に取っておいているそうだ。
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