第6話

 三十分ぐらい待っていたけど師匠からの連絡はないし、メッセージを送っても電話しても出なかった。隣から鍵を開ける音がして、慌ててアパートを出る。学校で蓄積されたもやもやの上に更に師匠の不在が乗っかってきて、私の気持ちはぐちゃぐちゃだった。足を引きずるようにして家に帰っていると、コンビニの前で杏沙乃に会った。今まで合わなかったのが不思議なぐらい、杏沙乃と師匠の家は近い。

「あ、菜連ちゃんじゃん。まだ制服なの塾の帰りだから? 私はコンビニにアイス買いに来たんだ」

 杏沙乃はグレーのTシャツに中学の時のハーフパンツを来ていた。私は師匠の家に行く時はいつも制服を着るように言われているから、着替えずにいる。

「塾は行ってない。師匠のところに行ったんだけど、いなかったから帰るところ」

 うわっ、杏沙乃が目を大きく見開いた。水っぽい感じが強調されて嫌だ。見ないために目をつぶると、抱きしめられた。杏沙乃は体温が高いのかほかほかとしていて、三秒ぐらい立つとじわっと汗が噴き出てきた。一瞬背中に手が回されてギュッときつく抱きしめられる。私は棒立ちになったまま、杏沙乃が離れていくのを待った。

「久しぶりに喋ってるの聞いたー。なんか声変わった? 低くない?」

「声はもともとこんな感じだから、変わってないよ。学校ではなんか変なこと言わないように、喋らないようにしてる」

 全然喋らないもんね。徹底してるね! 杏沙乃は何度も大きく頷いていた。

「ずっと首ばっかり振ってるから、声出なくなっちゃったのかと思ったよ」

 杏沙乃が横倒しになっていたアイスを真っ直ぐにした。この暑さだともうすっかり柔らかくなっている。覚えてる? 菜連ちゃん修学旅行でどうしても京都のどっかのお寺に行きたいからって、班の全員説得して行ってたよね。あの時から私、菜連ちゃんの並々ならぬ強いこだわりすごいなってずっと思ってたんだ。

 言われてみればそうだったかもしれないぐらいの微かな記憶だった。昔は自分のやりたいことをそのまま人にぶつけていた。

「よく覚えてるね」

「うん、なんか覚えてる。すっごい強烈だった。修学旅行とかって楽しみだけど、一緒に回る子とか、美味しいところに行くことを楽しみにしてる人がほとんどだったから、みんなが知ってるお寺を回る感じだったじゃん。でも菜連ちゃんはそのお寺行きたいから、ルートとかも全部考えて一人ずつにプレゼンしてて、気合が違うなと思ったの」

 修学旅行の記憶に引きずられるようにして、杏沙乃のことも思い出した。小学生の頃は遊んでいる時に楽しい? と訊く子だった。何度も何度も、みん菜が頷いても五分後ぐらいにはもう一回訊いてきた。毎日懲りずに話しかけてきたのは、彼女の性格のせいなのかもしれない。

「あ、じゃあ無視されてた質問も今なら答えてもらえるってことだよね。師匠って誰? 吠えるってなに?」

 屈託のない笑顔を見ると、心が痛んだ。そんなに気になってたのかと驚きながら、質問に答える。その間も師匠がいなかったことに対しての不安が霧のように立ち込めていて、言葉はあちこちに飛んだ。ふと目が合うと、明らかに興味を失っていて、なんだか笑えて来た。

「私の言ってること分かった?」

「話がとっ散らかってて全然分かんない。すごい喋るなーと思って聞いてた。掃除のおばさん家で、ストレス溜めてるから叫ぶってことしか理解できなかったよ」

 唾を飲んで喉を潤してみても、微かに痛む。腹式呼吸をすっかり忘れていた。私が黙ってるのを傷づいたと捉えたみたいで、杏沙乃が慌てて付け足した。

「いや、だから喋らない方がいいってことじゃないよ? やっぱり話した方がいいと思う。首振られたって分からないものは分からないし」

 はっきり言われると拗ねる箇所もなくて、私はふーんとやる気のない返事をした。今の自分のやり方を変えようとは思わなかった。

「おばさん居なかったんでしょ。私と一緒にやる?」

 杏沙乃がいたずらっ子のような笑みを浮かべた。

「いや、近所迷惑だからいいよ」

 大通りに面している場所とはいえ、交通量はそこまで多くない。今叫んだら確実にどこかのベランダから人が出てきて怒られる。ノリ悪いなぁと杏沙乃は不満げだったけど、310号室の人にすでにうるさいと言われているから、私は頑なに首を縦に振らなかった。

「菜連ちゃんっぽいけどね。ゴーイングマイウェイって感じ」

 でも嫌われてる訳じゃなくてよかった。杏沙乃が髪をくるくるとまとめてお団子にした。おくれ毛が首にべったりと張り付いている。制服のシャツが腕にくっついていて、気持ち悪かった。


 コンビニの手前の駐車場に車が入ってきた。二人で慌てて駐輪スペースまで移動する。自転車でこのコンビニに来る人は少ない。何故だか分からないけど、夜はいつも空いていた。

「指先をさ、切っちゃいたいと思うことってある?」

 杏沙乃の爪は綺麗に整っていて、ピンクのネイルがぷっくりと爪を覆っていた。指先をつまんでも何も起こらないだろう健康的な指先だ。

「ないよ。私ネイルとか結構好きだし。指先が使えなくなったら絶対めんどいじゃん。そこは菜連ちゃんと私全然違うとこだね」

「共通点って逆になくない? 似てるところ全然ないと思う」

「うそ、似てるよ。話よく飛ぶところとか、言い方がなんかアレ……誤解を産みやすいところとか」

 納得したのが顔に出ていたらしく、杏沙乃は苦笑いした。

「自覚あるんだ」

「まぁね。全然直らないけど」

 杏沙乃の視線がレジ袋に注がれた。お菓子やジャーキを持って帰っても仕方がないので、全部あげてしまった。杏沙乃の買ったアイスはドロドロに溶けていたけど、冷凍して食べるよと言って、帰っていった。

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