第37話


 一瞬、時間が止まったかと思った。呼吸も、心臓も、瞬きも。全部止まった。

 だって何気なく振り向いたら、その先にいるはずがない人が立っているから。

 彼がいるだけで、今私は現実にいるのか、それとも夢の世界に彷徨っているのか疑問を抱いた。

 現実にいると仮定すれば、私の目の前にいるのはなんだろう。

 幻か? それとも妖精の悪戯なのか?


 瞬きをした。そして何回もそれを繰り返した。目の前にいる存在を見つめながら、一歩、二歩下がる。

 花壇が私の身動きを阻んだ。

 彼もただあそこに佇むだけ。視線を私に向けながら、静かに佇むだけ。

 互いにそれ以上の動きもなく、早朝のような静寂が場を支配する。


「……旦那様?」


 私は私を疑い始めた。だからなのか、問いが自然と口からこぼれ落ちた。


「……ああ」


 その短い返事は私がまだ正気であることを証明した。


 一番思い出したくて、忘れたくない声。

 懐かしい声。低くて抑揚があまりないのに、暖かい声。

 長い間耳にしないせいで記憶の中から薄れた音色。それを実感すればするほど泣きたくなる程悲しむ夜はどれほどあったのか。

 こんなにはっきりと思い出せた日は今までなかったのだもの。


 驚愕で力を失った足を動かした。少しずつ、彼との距離を縮める。今でもまだ状況を呑み込めない自分がいるが、体が勝手に彼に吸い込まれた。

 いつもの距離から、彼を見上げる。この角度に懐かしさが滲みでる。

 長い前髪の隙間から蜂蜜色が見え隠れしている。


「何で、ここに?」


 他にも聞きたいことが沢山ある。

 何故彼が生きているのか。今までどこにいたのか。今まで元気にしていたのか。

 無限にあるのに、結局その中から一番強く感じたのがこんな可愛げもない問いだった。


「……どうしても、確認したいことがある」


 彼は私の頬に伝う髪を耳にかける。

 掠めた指がとても暖かくて、懐かしい。


「君が、笑顔でいるのかを」


 彼の言葉はあの日の記憶を優しく呼び起こした。

 ……どうやら、心配性なのはお姉様だけではなかったようだ。

 そう思うと、頬が緩む。


 視線を左下に逸らし、今まで心の奥に鎮座している想いを口にした。


「時々、貴方とお姉様を呪ったことがあります」


 彼に隠し事をしたくはなくて、素直に懺悔する。

 彼も、姉も、二人共私に「幸せになって欲しい」と願った。この四年間を経て、一見崇高な祈りに聞こえるそれが、同時に呪いでもあるとわかった。


 だって、現実はとても辛い。嫌なことが沢山起きている。どんなに足掻いても、報われないことも沢山ある。

 眠れない夜もあった。まともに起きられない朝も幾度も幾度も経験した。昼間は人の死の心積もりをしなければいけなかった。


 それで、どうやって幸せになれるのだろうか?

 なのに、大切な二人の願いは私が幸せであることなんだ。

 このままじゃ、彼らの願いを叶えられない自分でとても辛い。呼吸を止めたいほど悔しい。

 いっそ、彼らのことを嫌いになれたらどれくらい楽になれるのか。そうすれば罪悪感を抱かず生きていけるのかな?

 理不尽で身勝手なことだと分かっているが、そう思った瞬間は確かにある。


 これも、嘘も偽りもない、私の本心の一つだ。


「ですが……」


 真実は、それだけではない。


「旦那様が戦争に向かった後、城下町に行く機会が増えました。そこで戦争に怯えながらも強かに生きている皆様を目の当たりにしました」


 北部に視線を向けて、応援している人達もいた。嘆く人も多々いるが、町が暗い雰囲気に負けないように活気づける人達だっている。売り物を救援物資に変え、北部にいる軍を支えるために送る人達もいた。

 距離があるゆえの余裕かもしれない。

 だけど、いつ何が起きるのかはわからない状態でもあった。あの頃、城下町にフルメニアに不信感を抱く方々が起こした騒動だって何回も起きた。


 その状況の中でも、皆は失ったものを追悼をし、そして再び笑顔で立ち上がった。

 「北で命を張っている同胞がいる」、「俺たちまで落ち込んでいたら、ルナードの思惑通りになるのではないか」、等々。声を上げながら強かに生きている。

 それを見て「負けてたまるか」、そんな声が聞こえた気がする。


 彼らの姿を見て、私は実感した。


「民がこうやって強く生活できたのは旦那様が、ゼベラン軍の皆様が守ってくださり、勇気を与えてくれたからです。そして、フルメニアも、私も例外ではありません。旦那様方に守られた、数えきれないほどある命の中の一つです」


 語れば、心が温まる。その温もりは笑顔に変わった。


「ならば、元気で毎日を送らないと、身を張ってくださった皆様を侮辱してしまいますし、正真正銘の恩知らずになってしまいます」


 少し見づらかったが、どうやら彼が瞠目したみたい。

 久しぶりに見たそれが、何故かとてもおかしく感じて、ふふっと小さな笑い声をあげた。


「毎日が大変なのは、大変ですが……それでも、私は幸せですよ?」


 彼がいなくても確かにそう感じる。

 皆がいて、家族がいて。どこに行っても彼の存在が感じられて。

 だって、この国の平和は彼が、彼らが生きた証なんだから。

 壊れても、大切なものが残る。彼がそう私に教えたように。


 だから、彼が行方不明、生存の確率が壊滅的であると告げられた時に私は絶望をしなかった。その穴に落ちる暇なんてなかった。不幸に、溺れる暇なんてなかった。

 彼が、命と引き換えに守ってくれた。笑顔で人生を歩まないと、一生彼に恩返しできなくなってしまう。

 そうやって、私は決心した。幸せになろう、と。


 何よりも、そんな彼が誇らしい。

 なら、誇らしい彼に見合う妻になるために色々努力しないと。最初は現実逃避のために始めた活動かもしれないが、それが徐々に私の本心となった。

 例え、国を愛する貴方の一番目になれなくても、二番目になれなくても、そんなの関係ない。国に一途な貴方を想えること自体は私にとっての幸福だ。


 完全に理解できなくても、少しずつ、部分部分を受け入れる。

 彼が「妖精姫」な私も、「ただのシエラ」な私を受け入れたように。

 その二つは一つで、私を作り上げた大事な欠片なんだから。


「……そうか」


 彼は長い息を吐きながら、天に向いた。

 今、彼はどう思っているのだろうか。その短い言葉に安堵も含まれれば、どれほどよかったのか。そう思うだけで心が春の朝のように明るくなった。


 ……。

 ……実は、もう一つ、真実を隠している。それを彼に言うべきか言わないべきか、今すごく悩んでいる。言えば、迷惑になるかもしれない。だって、これは完全に私の我が儘なんだから。


 だけど、長い間彼と時間を過ごしていないからなのか、すっかり忘れた。

 彼は、ルカ・ロートネジュであることを。

 ルカ・ロートネジュはいつも、私にとって予想外な行動をとる男だ。


「そうか」


 今まで見たことのない、はっきりとした彼の笑顔。

 それが引き金となり、私は思いっきり彼の懐に飛び込んだ。

 そして、迷わず彼の背中に手を回した。


「でも」


 ああ、今私の顔は絶対赤いだろう。熱い、とても熱いだもの。

 心臓も煩いくらい音を立てる。


「もし、我が儘言ってもいいのなら」


 声がかすれる。呆られたらどうしよう。その時はソフィやカレンに慰めて貰えればいいんだね。


「貴方が傍にいるともっと幸せということも、事実なんですから」


 こうやって、彼の笑顔が見られるだけで、いっぱいだった胸から幸せが溢れそうになるくらいに。

 ぎゅっと彼を抱きしめる腕に力を入れた。


「帰ってきてくれて、ありがとうございます」


 目から溢れる涙を隠すために、彼の胸に顔をぐりぐりと埋める。

 驚きをへて、寂しさをへて、ようやく、喜びに追いついた。


 そして、彼が私の抱擁に応えてくれた。

 近く、もっと近くに。彼の心臓の音が届くまで私を強く抱きしめてくれた。

 生きてる。彼はまだ生きてるんだ。この事実は奇跡であることを自覚している。これからいつ別れが訪れてもおかしくないかもしれないが、彼は確かに、今、生きてるんだ。


 それでいい。

 それでいいの。充分すぎる程に。


「……俺も」


 耳に心地よい低音が響く。


「王都を目指す旅で、ゼベランをこの目で確認した。俺たちは、ちゃんと国を守ったと実感した。その事実に充分すぎる程に満足した」


 私の背中に回された手が、私の頬に移る。

 手袋越しではない掌って、こんなに暖かいなんて、全く知らなかった。

 彼は泣いている私に優しく微笑む。


「だが、その中に君がちゃんと笑顔で過ごしているとわかると、より満たされた」


 その言葉に涙と共に笑顔がこぼれる。


「シエラ」

「はい」

「ただいま」

「お帰りなさい、旦那様」


 私たちは再び抱き合った。今回はそこには余分な力が入らなかった。


(ああ、今日も幸せだな)


 お互いの幸せを共有し合い、それを優しく包み込むように抱き合った。

 青いリュゼラナの甘い香りに包まれながら。






―― 完 ――


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