第二話 大洋渡り ~おおわだわたり~ 其之一




 それに最初に気づいたものは。

 夜闇のうみのただ中を、月が煌々と降らせる歌に濡れながら静々とあゆむ一隻の船。

 その甲板かっぱの下の船底、さきちかくに設けられた、狭く暗いいつき部屋べやのなかにす、若い潮司うしおのつかさでした。




 けどもゆけどもあおい空とあおい海しか見えぬ、果てなきおおわだ

 しるべといえば夜の星しか見当たらず、よるべなき波の旅路に嵐のひづめがひとたびかかれば、あぶくと消えるほかはなし。

 そんな青い奈落のみちのなかにて、潮霊しおつちたちのりごとを聴き、にぎしおを寄せ、あらしおを伏してまつって祈りしずめる。

 そんなつとめをになう者が潮司うしおのつかさ、と呼ばれます。


 されどもその重きせめは、並大抵のものではなく。

 旅のあいだは、酒やなまぐさを口にせぬのは無論のこと、髪をくしけずることもせず、体にゆあみすることもなく、ただ一心に念じて念じ、また念じ重ねるあまりに酷なその務め。


 この潮司うしおのつかさも、若きゆえにひげの見苦しさはさほどではないものの、そのおもては白くめて、両のまなこはただのしわの二筋としか見えぬほどに、固く、かたく閉じられています。


 その眼が、かっと見開かれました。


 しばし焦点も定まらぬまま闇を彷徨さまよっていて瞳は、きっ、と前方を見据えると。

 震える右手は傍らにころがっていた鐘木しゅもくをにぎると、顔の横にさがっていたかねを、二度、激しく打ちました。




 三回目を打とうかと鐘木が迷っているうちに、どたどたという足音がいつき部屋べやへと踏みおりてまいりました。


「何事だ」


 水夫かこどもを取りまとめる務めがようやく一息ついた、そこに呼びつけ食らったおやは、怒りすら籠めた剣幕でもって潮司うしおのつかさに迫りました。


「前方に、さわりが浮かんでまいります」

「障りだと」


 おやの声には驚きやおそれよりも、苛立ちとあざけりとがよどんでいました。

 その脳裏には、甲板かっぱの下へともぐる前、このいつき部屋べやに入る前に目にした海の姿がうかんでおりました。

 嵐の気配はおろか大波すらもない、月の歌に静まる海のありさまが。


「ただちに船を引き返させて、先に泊まったけいしまの港へ寄るのがよろしいかと」

「船を返せと?」


 いまやおやの声のなかにはあからさまに怒りがたぎっておりました。




 どすどす、と、甲板かっぱを踏み抜かんばかりの足音をたて、おやは船上へ戻りました。


 おおわだわたりのおおぶねにふさわしい巨木のごとき帆柱どもが、森閑と立っています。

 その天辺てっぺんにもうけられたはりだいの若い水夫かこが「如何いかがされました」とかけてきた声を、おやはあえて無視しながら、さきへと目を向けました。


 月の歌が朗々とひびく夜空には雲ひとつないのが、たやすく見て取れ。

 その歌に聞き入るように、海のおもては銀の小波をゆらせています。

 潮司うしおのつかさの訴えたようなさわりなど、影すらも感じらせません。


―― いまさら船を返せだと。


 きしむほどに、おやは奥歯を噛みしめました。




 これまた甲板かっぱの下にある船倉ふなぐらには、大洋の南のかなたのえん國にて買いつけた珍品貴宝がひしめいています。


 南方の陽光と豪雨のはぐくむ密林にむ、二十尺もの巨体をもつにしきへびの皮。

 同じ重さの黄金こがねを積んであがなったくろはじかみの実。

 南国に生ず椰子やしの実からしぼった油をたたえた壺が何十と。

 おなじく数多あまたの壺の群れ。こちらは 種々くさぐさの薬、とりわけぐすりの原料となるささらいしの粉がぎっしり。

 えん國の奥地にそびえる火噴ひふきの峰にすまうといわれるねずみの毛皮。

 そして、それらすべての値をたばねてもまだ及ばぬ、火噴きの峰のさらに彼方にあるという黄金の森にしか棲まぬと伝えられるえんちょうの羽。


 いずれも内地うちつくにへ持ち帰れば、計り知れぬ金銀と、うんじょうびとのごしょうをもって報いられる品々です。

 けれどそれゆえに、船旅に遅れあらば、その褒賞もと損なわれる懸念なしではありません。


―― 嵐にうて船を出すのが半月も遅れ、ここ数日は風にめぐまれず、旅路はかなり遅れておる。

―― この上、今すぐに船を返せだと。

―― 影も匂いもありはせぬさわりとやらを避けるためにか。




 あの若い潮司うしおのつかさは、鉦を二度、打ちました。

 一度なら水夫かこの誰かが、二度ならおやである自分が、三度ならばふながしらが直々に、いつき部屋べやへと参ることになっています。


―― しかしながら、船を返すとなるならば、どのみちかしらに話を通さぬわけにはゆかぬ。


 ふながしらに話を通す面倒を、ていよくなすり付けられたような気分になって、おやはふたたび、ぎりりと奥歯を噛みしめました。

 ふながしら潮司うしおのつかさつとめに重きを置いています。

 さわりの影もかたちもなくとも、船を返せとの訴えも、おそらく聞き入れることでしょう。

 けれども、その手間、さらなる旅の遅れについて苛立ちもみせず怒りもせぬということはあり得ぬと、たやすく予想がつきました。


―― その責めをぶつけられるのはわしとなる。

―― この一月ひとつき、休む間もなく眠ることもろくになく、精いっぱい、しかしてこまかに水夫かこどもをまとめ、旅の遅れを取り戻さんと心を砕いてきたというのに、どうしてさらに難題を負わせられねばならぬのか。




 怪しいほどに穏やかな海。

 潮と風とはゆるやかに、されど確かに船を北へと運んでおり。

 水夫どもは、帆柱のうえの見張り一人を残したうえで、しばし休めと言いつけたばかり。

 普段とは打って変わって静まりかえった船のうえ、舞うものはただ、月の光。

 背後から誘うように投げかけられるその妖しの歌に抱かれて、どれだけぼうとたたずんでいたことでしょう。


 おやを我に返らせたのは、帆柱のうえから叫ぶ声でした。


おやさま、行く手になにか、大きなものがうねっております」

「なんだと」




《第二話 了》

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