螭が月を呑む話

武江成緒

第一話 巨螭 ~おおみずち~




 夜の闇にまるく咲きほこる華のごとく、南の大洋わだの空のいただきに月は白くかがやいて。


 煌々こうこうたるそのかがやきは、暗い空とくらい海原のすべてを満たし尽くさんと響きわたる歌声のようで。


 静かにまたたく星々は、その歌声に包まれまどろむ天の赤子たちのよう。


 なかぞらには、おおおやの歌に吹かれて舞うがごとくに、無数の海月くらげおにどもがぐにゃりぐにゃりと群れてただよい。




 その下では、空から降りくるたえなる歌に拍手を送るかのように、暗い大洋が波に光をきらめかせて揺蕩たゆとうています。

 その銀と漆黒の縮面ちりめんのなかに点景を打つかのようにねるのは。

 大魚か、鯨か、海獣か。

 あるいはそれらすら喰らう、長大なるわだみずちか。




 わだみずちおおわだの底、月の光も届かぬような暗い域にまう生き物ですが、産まれてせいぜい百年足らずのわかみずちは、こんな静かな夜になれば、月の歌に誘われて海の面のすぐ近くまでその身を寄せることもあり。

 されどよわいいくももとせを積みかさね、鯨さえもひと呑みするほど長じたものなら、よほどの事でもない限り、島とも見まがうその巨体を海面おもてにあらわすことはなく。


 さらにとせを超える歳月をその鱗に刻みこみ、果てなきうみの底の底、まったき闇の満つる深淵ふちにとぐろを据えるおおみずちは、もはや光と言うものを忘れ去ったかのごとく巨きな身体をうなそこの泥にどこまでも横たえて。


 当然ながら、月の歌は無論のこと、日輪のおらび声すら、光を忘れたそのまなこに響くことはなく。

 永劫にり固まった漆黒のなか、水をかすかに揺らめかせながら四海に響く、彼ら自身の歌を吟じてその意をかよわせるのだそうです。




 人の耳にとらえられること決してなく。

 えびの髭をふるわせることさえないという歌は。


 黎明の東極ひがしの海から、黄昏を呑む西極にしの海。

 炎天かがやく南の海から、氷の閉ざす北の海まで。

 余すところなく響き渡り、おおみずちどもの意を伝えあうと言います。




 ―― るか。


 ―― 居る。




 今宵も、また。

 いえ、時すらささぬ深淵の奥で、おおみずちらの語らいが、万里のへだてを超えて始まったのでした。




 ―― なれはいまだ壮健か。

 ―― 齢とせにも及びおらぬへびゆえ、あの忌々いまいましきうみそうじょううからにでも喰われておらぬか案じたが。


 ―― ほざけ。

 ―― あのような腐泥どろぶくろどもなぞ、この牙にかけて噛みくだき、百里にわたって吐き散らして下したわ。




 果てなき虚空そらを、塵のようなながれぼしひらめいて飛ぶかのごとく、おおみずちどもの他愛もない一語一語が、闇の深淵を飛びかいます。


 ―― なれは近頃、牙とあぎとで食したものは何ぞあるか。

 ―― とせほど前、いさきりがにを呑んだのみよ。


 ―― 呑むと言うたら、あれは千年ちとせといくらか前の話であったか。海底うなそこにちと大きなふきやまが咲いておるのを見かけてな。あのあかとろけいわを呑み尽くしてやったものよ。

 ―― なれが呑み尽くせる小山ならば、われの口には一吸いにもならぬであろうな。

 ―― 抜かしたな。




 通いては絶え、絶えては不意にひらめこえ

 そこに新たな聲色こわいろが加わりました。


 ―― そう言えば。よろずの年をさかのぼる昔、月を呑もうとしたやからがおったそうな。

 ―― 月をだと。

 ―― そやつは月を呑んだのか。

 ―― 呑んだならば、いまごろ月は天に昇ってはおらぬだろうに。

 ―― いまだ月は昇っておるのか。前に月を目にしたのが如何ほど昔であったのか、おぼえておらぬ。


 飛びかうこえらは、少しばかり沸きたつ気配を帯びました。


 ―― ならば、我がいくとせぶりに、月を拝んでやろうではないか。そうしていまだ天に月が昇りおれば、我のあぎとで一呑みにしてやろう。

 ―― 本気まことか。

 ―― 狂戯たわけたことを。

 ―― 狂戯たわけなぞであるものか。本気まことの言よ。少しばかりくびを伸ばして月をばこの牙にとらえ、呑んでやろうではないか。




 そうして、しばし深淵はふたたび無限の黯黒と静寂のなかに沈んだかと思いきや。


 海ひとつぶんの水がまるごとき返るごとき激流が、千古に積もった泥を吹き飛ばし、海底うなそこに消えて滅んでひさしき都や船のを幾十となくし潰して。


 はるか上方のくう在るところ、その彼方にて歌をうたう月をめざして、きあがってゆきました。




《第一話 了》

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