#33 「大晦日」
12月31日。大晦日。
世間一般が年末の喧騒に包まれる中、俺は静寂に包まれたキッチンの前に立っていた。
早朝。窓の外はまだ薄暗く吐く息が白く染まるほどの冷え込みだ。だがキッチンのコンロ周りだけは弱火で熱せられた鍋から立ち上る湯気によって温かな湿り気を帯びている。
「……よし」
俺は鍋の中を覗き込む。
透き通るような黄金色の液体。
前日から水に浸しておいた利尻昆布を火にかけ沸騰直前で取り出す。そこへ差し水をし温度を少し下げてから鰹節を投入する。
グラグラと煮立たせてはいけない。雑味が出るからだ。鰹節が鍋底に沈んでいくのを静かに見守る。頃合いを見計らって布を敷いたザルで静かに
ポタ、ポタとボウルに落ちる滴。
今日のメインイベントは年越しそば。
天音家では毎年恒例となっているが今年は少し勝手が違う。
ライブハウス『Remain』のスタッフたちを招いての忘年会を兼ねているからだ。
舌の肥えた大人たちを満足させるため俺は数日前から準備を進めていた。
「次は鴨肉だな」
冷蔵庫から取り出したのは合鴨のロース肉。
皮目に細かく包丁を入れ塩コショウを振る。
熱したフライパンに油を引かずに皮目から乗せる。
ジュウという音と共に脂が溶け出し香ばしい匂いが漂う。
皮目がきつね色になったところで取り出しジッパー付きの保存袋へ。
醤油、みりん、酒、そして先ほど引いた出汁を合わせた煮汁を注ぎ入れ空気を抜いて密閉する。
(ここからは温度管理との戦いだな)
「ふおお……いい匂い……」
背後から寝ぼけた声がした。
振り返るとボサボサの髪のまま目を擦っている義母が立っていた。
パジャマのズボンの裾を引きずっている。
「おはよう義母さん。こんな時間に珍しいね」
「んー……トイレ行こうと思ったらいい匂いに釣られた……これ絶対美味しいやつだ」
「まだ味見もしてないでしょ。二度寝してきていいよ。朝ごはんはまだ時間かかるから」
「はーい……楽しみにしてる……」
義母はフラフラと寝室へ戻っていった。
俺は苦笑しつつ作業に戻る。
長ネギは焼き目をつけて甘みを引き出す。
柚子の皮を薄く削ぎ香り付けの準備をする。
動画投稿を始めてからというもの生活リズムが整い、時間の使い方が上手くなった気がする。
(前世の頃はずいぶんと不規則な生活だったんだなあ)
俺は鍋の火加減を調整しながら窓を少し開ける。
空が白み始め、澄んだ空気がおいしく感じられた。
*****……
――天音家
大晦日の夜。
チャイムの音と共に賑やかな声が玄関から響いてきた。
「お邪魔します。ひい~寒かったー……って冷たっ!」
「いやーかなり冷え込んだっすね。あー、佳代さんの手あったかいっす~」
「……お邪魔します」
芦田さんが佳代さんの手を包み込み、カイロのようにしている。
佳代さんは「ちょっと~」と笑みをこぼしながらも嫌がってはいないようだった。
秋乃さんが二人の後ろからスッと綺麗な顔を覗き込ませ、俺の顔を見て薄く微笑んだ。美人の微笑みは万病に効く。
ライブハウス『Remain』の主要メンバー三名が到着した。
PAの
ドラム担当で元気印の
そして事務と動画編集見習いの
「どうぞー、いらっしゃい。おお、今日は一段と寒いですね。ささ、早く中へ」
俺が出迎えると三人はそれぞれ手土産を掲げた。
「これお酒とおつまみ。在処ちゃんにはジュースね」
「自分はスナック菓子山盛り買ってきたっす!」
「……私は、みかん」
三者三様の手土産を受け取り、リビングへ通す。
義母は既にこたつに入ってスタンバイしていた。
「みんな待ってたよー! さあさあ温まって!」
「店長、まだ始まってないのにもう顔赤くないっすか?」
「これはコタツの熱気のせいだから! まだ飲んでないから!」
義母の言い訳に全員が笑う。
気心の知れた仲間たちとの集まり。
俺はキッチンに戻り蕎麦を茹で始める。
大きな鍋でたっぷりの湯を沸かす。蕎麦は十割。香りが命だ。
湯の中で回転する麺を見つめながら箸でさばく。
茹で上がったら冷水で一気に締める。
温めておいた器に蕎麦を盛り熱々の鴨汁を張る。
低温調理した鴨肉をスライスして乗せ焼きネギと三つ葉をあしらう。
最後に柚子の皮をひとかけら。
完成だ。
「できましたよー。特製鴨そばです」
お盆に乗せて運ぶとリビングに歓声が上がった。
「うわぁ……! お店のみたい!」
「香りがやばいっす。出汁の香りで酒が飲めるっす」
「……美味しそう」
全員に行き渡ったのを確認し義母が音頭を取る。
「それじゃあ、今年一年お疲れ様でした! 乾杯!」
「「「かんぱーい!」」」
グラスが触れ合う軽快な音が響く。俺はオレンジジュースで乾杯だ。
そして全員が箸を手に取る。
「いただきます」
ズズッ、ズズズッ。
静寂を破る小気味よい音。
「んんーッ!!」
最初に声を上げたのは芦田さんだった。
「これヤバいっす! 出汁が! 出汁が身体に染み渡るっす!」
「本当ね……鴨の脂が溶け出して甘みがあるのに、柚子の香りでさっぱりしてる。無限に食べられそう」
佳代さんが上品に、しかし箸を止めることなく感想を述べる。
「……鴨が柔らかい。噛むと旨味が溢れる」
秋乃さんは目を閉じて味を噛み締めている。
そして義母は。
「ぷはーっ! やっぱり在処の蕎麦は世界一だよ! どうよみんな、うちの娘すごいでしょ!」
鼻高々に自慢している。作ったのは俺なのだが、なぜか義母がドヤ顔だ。
まあ喜んでもらえているなら何よりだ。
「出汁は朝から準備したので。鴨も低温調理でいい感じになったかなーと」
「低温調理……小学生の口から出る単語じゃないっすね」
「在処ちゃんはもう中身人生二周目くらいなんじゃないかしら」
佳代さんの冗談に俺は苦笑いで返す。
食事が一段落し、酒が進むにつれて話題は今年一年の振り返りへと移っていった。
「いやー、今年は本当に色々あったねえ」
義母が赤ら顔でしみじみと言う。
「一番の変化はやっぱり在処ちゃんの活動っすよね。登録者数爆伸びじゃないっすか」
「おかげさまでねー。在処のすごさがみんなに伝わってくれて嬉しいよ」
「自分も在処ちゃんのおかげでチャンネル登録者増えたんすよ! この前上げたドラムの叩いてみた動画、1万再生超えたっす!」
芦田さんがスマホの画面を見せてくる。
そこには彼女のチャンネルの管理画面が表示されていた。
「おお、すごい。サムネイルも分かりやすくなりましたね」
「でしょ! 在処ちゃんに教わった文字の入れ方とか配色とか意識してみたっす。そしたらコメントでも『見やすい』って言われて」
嬉しそうに語る芦田さん。
彼女は飲み込みが早い。俺が教えた基礎を元に自分なりのアレンジを加え始めている。
ドラムという楽器の特性上、音作りやカメラアングルが難しいのだが、試行錯誤しながらクオリティを上げているのが分かる。
「……私も」
静かに秋乃さんが口を開いた。
「ライブハウスのプロモーション動画、評判いい。出演バンドからも『カッコよく撮ってくれてありがとう』って言われた」
「秋乃ちゃんが編集したやつだよね。あれ本当にかっこよかったよ」
義母が大きく頷く。
秋乃さんは動画編集のセンスがある。
静と動の切り替え、音楽に合わせたカット割り。
俺が教えたテクニックを忠実に守りつつ彼女独自の美的感覚が反映されている。
以前はPCの操作すらおぼつかなかった彼女が今では立派なクリエイターだ。
「先生のおかげ」
秋乃さんが俺の頭を撫でる。……やはり万病に効く。
「きっかけを作っただけですよ。二人が努力した結果です」
「またまたー。在処ちゃんの教え方が上手いからっすよ。まじで教則本出せるレベルっす」
「そうねえ。私たち大人もいい刺激をもらってるわ」
佳代さんが優しい眼差しで俺を見る。
「Remainのお客さんも増えてるし、ネットでの知名度も上がってる。みんなのおかげで、いい方向に回ってるわね」
「だしょー! 私の見る目は間違ってなかった!」
義母がビール缶を掲げる。
自分が褒められたわけでもないのに、まるで自分のことのように喜んでいる。
そんな義母を見て、俺も自然と笑みがこぼれる。
(悪くないな)
今の俺は前世よりも間違いなく充実していると言っていいだろう。
色んな人に認められることで自己肯定感も上がり、やる気に満ち溢れている。
「来年はもっと忙しくなるかもね」
俺が言うと、義母がニカっと笑った。
「どんとこい! 在処も思う存分好きなことをやりなさいな」
「店長、通帳管理してるだけじゃないっすかー」
「失礼な! ちゃんとスケジュール管理も……たまにしてる、かも?」
「たまにじゃないすか!」
芦田さんのツッコミにどっと笑いが起きる。
テレビからは『ゆく年くる年』の厳かな鐘の音が聞こえ始めた。
除夜の鐘だ。
煩悩退散。
俺の中に煩悩があるとすれば、それは「もっと音楽をやりたい」「もっと多くの人に届けたい」という欲求だろうか。
だが、それは退散させるべきものではなく、原動力だ。
俺は器に残った最後の蕎麦を箸で掴んだ。
柚子の香りが鼻腔を抜け、出汁の旨味が喉を通っていく。
身体の芯まで温まるような、優しい味がした。
来年はどんな曲を作るのか。どんな動画を撮ろうか。
想像するだけで心臓のあたりから湧き上がる衝動を感じる。
「ふうー」
俺は空になった器を置き、両手を合わせた。
「ごちそうさまでした」
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