熾火

しょうじ

熾火

Ep.1.0.1

暖かく穏やかな秋の夜が続いていた。仕事の疲れが取れず、時間と身体を持て余していた谷中昌行は、もうこのまま起きてしまおうかと考え始めていた。深夜というより、もはや早朝と言うべき時間帯だが、外はまだ暗く、夜は明けて切ってはいなかった。その時、小さくドアを叩く音が聞こえた。こんな時間まで起きて片づけをしているのかとドアを開けると、そこに立っていたのは父の義和だった。


「朝早くにすまないね。明日までに今月分の返済があるんだよ。悪いが、十万円ほど用立ててはくれないだろうか」


先代から続いているタニナカベーカリーの店舗兼住居を谷中義和が新築したのはもう十年以上も前のことだ。その返済が滞りつつあったことを昌行は知っていたものの、義和に頭を下げられることまでは、全く予想はしていなかった。


「そうか。こんな時間まで起きてるんだ。明るくなったら銀行で下ろしてくるよ」


昌行が伝えたのはそれだけだった。思いがけない父の言葉だったが、昌行は努めて平静を装うようにしていた。それはタニナカベーカリーの実情を知らずにいたからだった。いや、むしろ知ろうとも関わろうともしてはいなかったことがその理由であろう。


タニナカベーカリーは、山手線に接続する私鉄沿線の小さな商店街にあった。谷中義和と峰子の夫妻は、先代から続くこの店を手堅く経営してきたが、バブル経済の時代にあって、大きな賭けに打って出た。バブル経済のピークは既に過ぎていたものの、ちょうどその時期に借地権の更新が重なった。また、店舗も老朽化していたために、併せて増改築も行うことを決めたのだ。


初めのうちは小さな計画に過ぎなかった。しかし、昌行には知らされないうちに計画は膨れ上がってしまった。金融機関の支店長クラスが日参し、「ぜひ当行に資金をお任せください」と頭を下げていると聞き及んだ昌行は、数十年にわたって地道な商売を続けていた父母を頼もしく、そして誇らしく感じるようになっていた。そうしているうちに、増改築の計画は、猫の額ほどの土地の上に五階建てのビルを建てるにまでなっていたのだった。


しかし、この熱に浮かれた時代は長くは続くはずもなかった。あたかも季節が移ろうかのように、バブルははじけ、やがて不景気と呼ばれる時期が訪れた。元々道幅が狭い上、後継者難に悩まされていたこの商店街が受けたダメージは深刻だった。そのダメージは、当然のようにタニナカベーカリーにも及んでいたのだった。


幼い頃からタニナカベーカリーの三代目と目されていたものの、次第にそれを毛嫌いするようになっていた昌行は、四年制大学に進学すると、ふいに大学院への進学を志すようになっていた。それには、大学にまでやってもらって、両親と同じ仕事をするのは申し訳ないという気持ちも働いていたかもしれない。二浪してなお進学を果たせなかった昌行は、母校の近くに借りていたアパートを引き払って、家族たちと暮らすようになって就職もした。幸いなことに、転職した後の三年ほどの間、仕事は順調だった。それ故にか、昌行は家族たちの事情には疎かったのだ。今さら返済に協力してほしいと言われたところで、自分に何ができるというのか。こう考えた後、十万円を用立てるために銀行に寄ってから出社しようと決め込んで、もうひと眠りすることにしたのだった。

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