第45話
花蓮の言葉の後、刑事とおつるはゆっくりと井上から距離を取った。
「待ってくださいよ、ちゃんと説明してください」
井上はおろおろとしていたが、その表所はどこか歪なものである。
怯えた人間は、相手を値踏みする目を向けるようなことはしない。
「私が疑問を持ったのは、井上さんに矢沢さんの凶器を持っていた手を説明した時でした。
私は矢沢さんが右利きだと思っていましたから、その時ようやく違和感に気が付いたのです。
そして、あなたが左手について言及しなかったことについても」
井上は静かに話を聞いている。
「今まで選択肢にもなかった井上さんが、私の中で浮上してきました。
利き手については、気が付かなかったで説明が済むでしょう。
しかし、この事務所は矢沢さんの真正面に、しかも最近引っ越してきている。
いくら何でも出来すぎていると思いませんか」
刑事は、何も話さずに花蓮の話を聞いていた。
まるで一言も聞き逃さんとしているかのようである。
「しかし、井上さんには事件発生直後に事務所にいたという強固なアリバイがあります。
そこでいったん私の思考は止まりました。
私は殺人現場についての考えを先に進めたんです」
花蓮は時計を確認する。
「今回の事件で最も問題になったのは、鍵のかかった部屋、窓が開いているとはいえ二階に部屋があることで出来上がった実質的な密室です。
このことについては、実は最初からある程度目星がついていたんです。
犯人は、実際に出入りに鍵を使わなかったんですよ」
この発言に、刑事が呆れたような顔を浮かべた。
「じゃあ、犯人は幽霊だってのかよ」
「実際はもっと単純な話です。
犯人はベッドの下に隠れていたんです」
沈黙が部屋に降りた。
「綾女は、血まみれの矢沢さんを助けるべくすぐさま医者を呼びに行きました。
当然、部屋の中を詳しく観察する余裕などありません。
犯人は綾女が去った後で、部屋の外に出ればよかったんです」
あまりにも単純な、トリックと呼んでしまうのは過剰にも感じる種明かしである。
「実際、ホテルの従業員に尋ねてみたんです。
そしたらビンゴでした、事件発生時の時間帯に井上さんらしき人を目撃したフロアの給仕が居ましたよ。
あの騒ぎの中、妙に落ち着いてホテルから出て行った人が居たって」
「……この部屋に来るのが遅かったのは、そのことを聞き込みしていたからか」
刑事はこれでようやく溜飲が下がったようだった。
しかし、井上は未だに余裕を感じる振る舞いで花蓮の言葉を否定する。
「見間違えでしょう、事件発生時刻の直前に私が事務所にいた事はここにいるおつるが目撃済みですよ」
震えるおつるは、自分の親しいものが見せる隠された一面に息を飲んだ。
「おつるちゃん、大丈夫だからね。
事件発生時刻は午後三時、その時井上さんはどんな様子だった?」
花蓮が優しく語りかけると、おつるは意を決したように話し出した。
「……三時になるちょっと前、団長は『書類仕事があるから、誰も部屋に通さないように』と私に言いつけて、部屋に戻っていきました。
それから私も劇の練習で外に出たので、団長がその後どうしていたのかは見ていないんです」
「ありがとう。
これで、事件の瞬間のあなたのアリバイは無くなったのではありませんか?」
井上は笑った。
「待ってくださいよ。
さっきの話と合わせると、事件直前まで事務所にいた私は事件の時刻に部屋の中にいて、それで何食わぬ顔で部屋から出て行ったって言うんですか?
それじゃあ説明が足りない、部屋の中にどうやって移動するんです。
そもそも、直前まで事務所にいたんじゃ、この建物から降りてホテルの2階に行くまででも普通に5分以上かかっちゃいますよ」
最後の謎は、どうやって犯人が部屋に入ったのか。
「答えがそろそろやって来ますよ」
時刻は午後4時59分。
「窓を覗いてください」
花蓮以外の3人が窓の外を覗き込むと、蒸気バスが煙を巻き上げてゆっくりとやって来る。
窓のすぐ下に、バスの屋根が通過していく。
狭い路地で向かい合ったホテルと事務所の窓が一辺に結ばれる。
「……バスの屋根を足場にして、ホテルの二階に乗り移ったのか」
刑事が苦虫を噛み潰したような顔で唸った。
全てのパーツを揃え、花蓮は井上へ最後通牒を突き付ける。
「井上さん、あなたの事件当日の行動を説明しましょう。
あなたは、矢沢さんが毎日窓を開けて過ごすこと、この高さの屋根を持つバスが1時間ごとに通過することを知った。
アリバイを作るために、あなたは作戦結構直前までおつるちゃんと会話した後、作戦を決行した。
屋根伝いに矢沢さんの部屋に乗り込み、かみそりで矢沢さんを殺害、その左手にかみそりを握らせて自殺を偽装したんです。
……ここからは私の想像ですけど、井上さんの当初の予定では、帰りもバスを踏み台にして帰るつもりだったのではないでしょうか。
しかし、そこで想定外の人物、綾女が訪ねてきてしまった。
それがなければ、あなたのアリバイは完璧に近いものでしたでしょうね」
井上は完全に表情を失っていた。
「最後に、これは質問なんですけど……。
井上さん、矢沢さんが公演で部屋を離れている間に、部屋の中に忍び込む練習ってしてました?」
バスに乗っていた時に響いた謎の音こそが、花蓮を答えに導いたものである。
沈黙が、雄弁に答えを示していた。
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