第45話 人々の思考の中心に常に総督が鎮座している
次に目が覚めた時、サマンサは部屋が違うことに気づいた。一般的な住宅の居室のようでカーテンが閉じられ日差しをさえぎっていた。
かすかな日差しの明るさに照らされた部屋の中は、どこもかしこも総督の顔を切り出したポスターやカレンダー、そして雑誌の表紙があった。しかもその全てにナイフで切り刻んだり鋲で刺したり、赤いペンで塗りつぶされた跡がある。異様な部屋に息をのんだ彼女だったが、サイドテーブルの写真を見て納得がいった。ここはトレヴァーの部屋だった。
体を起き上がらせた。背中や腹に感じていた痛みは和らいでいた。咳も出てこない。若干の熱と体のだるさは残っているものの、丁重に介抱されていることがわかった。
「起きたか」
部屋に入ってきたトレヴァーの手にあるトレーには錠剤と水差しがあった。かたわらの椅子に腰かけた彼がコップに水を注ぐ。
「礼はあとでエディに言えよ。医者とはいえ完全に専門外の弾の摘出に肺の縫合なんてしたもんだから死んだように眠ってる。──抗生剤だ。飲め」
コップと錠剤を手渡され一気に飲み下したサマンサは、そこでようやく喉がからからに渇いていたことを知った。
「〈
「いなかったよ。しばらくは表に出てこられないだろう。あいつはやり過ぎた」
そういってトレヴァーはサマンサのわずかな視線を追い、壁一面に貼られた総督の肖像に目を向けた。
「気色悪いだろ。お前の部屋も大概だが」
サマンサはすぐには答えなかったが、やがて静かに告げた。
「今となってはよくわかる」
それは愛憎というべきだろう。言葉には出さなかったが2人の内心には同じ言葉が浮かんでいた。一方は死を覚悟するほど愛し、一方もやはり死を覚悟するほど憎んでいる。ただしその対象はただ1人同じ人間に向けられている。
「まるでビッグ・ブラザーだな」
「ビッグ・ブラザー?」
「ジョージ・オーウェルという作家が1948年に発表した独裁国家を描いた小説だ。ビッグ・ブラザーという一党独裁の党首が国家を支配している。街中のそこかしこに『ビッグ・ブラザーがあなたを見ている』ってポスターが貼ってあるんだ。お前の家や、この部屋みたいにな。しかもあろうことか、貼り出された全てに監視装置付きだ。狂ってるよな」
自嘲気味にいうトレヴァーに対しサマンサは思った。愛であろうが憎悪であろうがまるで世界の中心に、いや人々の思考の中心に常に総督が鎮座しているかのように錯覚する今の体制は間違いなく異常だ。その錯覚が見せるものはただただ明日の死への恐怖、あるいは人間として感じうる最大限の屈辱だろう。“隠し持っているものを見透かされそうな感じがする”とのリューダの言葉もふとサマンサの脳裏に浮かんだ。
「今から大事なことをいくつか話す。まずは最後まで聞いてくれ」
トレヴァーはマクシムが得た情報をなるべくその通りに話した。エディの直感、〈
「お前はそのリストの話を総督からされたことはあるか」
「聞いたことない。でも〈
「取引ってなんだ?」
疑問を呈するトレヴァーにサマンサはいう。
「敬愛する人がそのリストに含まれていて、母はそれを阻止するために〈
「お前も反体制派との関わりは多いだろう。なにかしら手を打たれる可能性があるな」
「私には人質に取られるような……」
そこまでいってリューダの姿が浮かんだ。ガサ入れされたのは、それが理由だった可能性もないわけではない。
「あるいは、お前自身が狙われるかだ」
トレヴァーの言葉にサマンサは答える。
「意識を失う直前に総督も言っていた。母親によく似ているって。〈
「サム」
その声はサマンサの声を鋭くさえぎるものだった。トレヴァーの表情は怒りと哀れみが混じった奇妙なものだった。サマンサは怪訝に「急に黙らないで。どうしたの」という。
「お前、会食のあと総督に暴力を振るわれただろ」
サマンサは目を逸らし、トレヴァーはその姿を逸らさず見ていた。
「本当に会食で会ったのが初めてなんだな」
「そうだって言ってる」
「そうか。……」
その不可解な態度にサマンサはあからさまな隠し事を感じた。
「総督にも言われた。“君の記憶の中にしかないものを、君だけが思い通りにできるとでも思ってるのか”って。どうして私が知らない私のことを私以外の人が知ってるの。お母さんもお父さんもそうだった、大事なことは何ひとつ教えてくれないまま去っていった」
だんだん声が小さくなっていくサマンサの声を聞いて、トレヴァーは奥歯を噛んだ。可能性でしかないとはいえあのことを話してしまえば動揺は隠せないだろう。それに、彼女の態度を見るに総督が実の父親かもしれないなどとは夢にも思っていない。だからそれを伝えてしまうのは、それが仮に嘘だろうと真だろうと不誠実極まりない態度だった。
「トレヴァーは私を解放したあとにこう言った。“知っててやった訳じゃない? 知ろうとしなかっただけだろうが”って。でも人から聞くしかないことを誰も教えてくれなかったら、どうやって知ったらいい。しかもそれが自分のことだったら? 私が知らない母のことは〈
トレヴァーはそこで初めてサマンサの不安な表情を見た。しかし、教えるべきではないことは重々承知していた。このことは〈
「まだお前には教えられないんだ」
「……ああそう」
サマンサは目を細め吐き捨てるように言いベッドから這い出ると、傍らのコートをぞんざいに羽織り、荷物を引っ掴んで玄関のほうへと歩いていった。
「おい、まだ傷が」
「こんなのどうってことない。ついてこないで」
「お前も狙われるかもしれないんだぞ」
「狙われてるからなに? あなたいつから私のボディーガードになったの。拷問して、首を絞めて殺そうとして、邪険にしてきたはずなのに手のひら返して今度は“狙われてる”って? 死んだ娘の二の舞になるのが怖いの? そんなの余計なお世話」
鋭くあしらったサマンサに、トレヴァーが間髪入れず怒鳴った。
「──ああそうだよ! お前が心配だよ。お前が殺されるのが怖い。総督も体制擁護派も娘の仇みたいに思うのが当たり前だったのに、今となっちゃお前にだけは死んでほしくないと思ってる。見苦しいだろ! なんて無様で呆れた醜態だ!」
そういってうなだれるトレヴァーに、サマンサは虚をつかれた顔で固まった。
「いったん距離を置いて、落ち着いたらまた連絡する。背後には、気をつけるから」
「ああわかった。気をつけてほしい」
去り際、うなだれたままのトレヴァーに一度だけ振り返った。彼は写真を手に取って肩を震わせていた。その気持ちだけは本当なのだと、サマンサはその姿を見届けると部屋を出ていった。
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