第38話 そういうのはなくなってほしくない

「〈川鼬鼠オットセル〉!──その手に持つものを捨てなさい!」


 トレヴァーから渡された拳銃を教卓前に立つ彼女に向けながら、彼女はそう叫んだ。


「サマンサ。……みなさん、この女性は総督の愛人、身も心も総督に捧げて彼の悪行になんの呵責も感じない邪教の信者のような存在です。私は彼女にこの計画を邪魔されたくありません。みんなで押さえ込んでくれますか?」


 子どもたちが一斉にサマンサを見て立ち上がった。気圧された彼女はそれでも〈川鼬鼠オットセル〉を見定め、その肩に向けて発砲した。その瞬間、〈川鼬鼠オットセル〉の表情がわずかに歪み、向こう側にある窓が割れた。弾がどこかをかすったらしい。


 最も驚いたのはサマンサだった。「殺傷力はない」とトレヴァーにいわれていたのに、当たりどころが悪ければ死ぬ威力だ。呆然としたまま子どもたちにうつ伏せで組み敷かれた。見ると、総督ヴァリは視聴覚室からいなくなっていた。


「本当に悪運だけはあるね。でも逃がしはしない」


 そういって〈川鼬鼠オットセル〉は胸ポケットの万年筆を取り出してノックした。すると、爆発音と大きな揺れが断続的に聞こえてきた。窓の外を見ると階下から煙が立ち上っている。


「〈川鼬鼠オットセル〉! あなたこの学校が大事なんじゃないの」


 そういったあとに母の言葉が思い出された。“大切なものを守るためにそれを壊そうとした”。〈川鼬鼠オットセル〉はその言葉には反応せず、子どもたちに指示して総督ヴァリを追った。


「みんな離して! 私も行かなきゃ……」


「行くって? あいつを助けるために? だとすればできない」


 ルスランが言った。子ども相手に睨みつけることもできないサマンサが「どうして」と歯噛みした。


「ルシュコヴァ先生はぼくたちの言うことを信じてくれた。ぼくたちが疑問に思っていることや不安に感じていることをはぐらかさないで聞いてくれた。“自由”だってそうだよ。だからぼくらはルシュコヴァ先生を信じてる。たとえ先生がテロリストでも、そうしてくれたのはルシュコヴァ先生だけだったから」


「!……っ」


 サマンサは張り詰めていた感情の糸がプツリと切れたように目から涙を零し始めた。子どもたちは戸惑い、わずかに押さえ込む力を緩めた。


「なんで泣くんだよ! お前が泣いてなんの意味があるんだよ! おれたちは」


「レヴ! 待って、この人の肩のとこ……」


 押さえ込まれた末に乱れた服が肩口をあらわにさせていた。そこから見える“Вари Сукаヴァリ・スーカ”の文字が子どもたちを明らかに動揺させた。


「どういうこと? ルシュコヴァ先生、この人は総督に身も心も捧げたっていってたよね」


「だったらこんな刺青、入れないよな」


 バツが悪そうに押さえ込んでいた子どもたちがひとり、またひとりと拘束を解いていく。体がどんどん軽くなっていくと、サマンサは呼吸をととのえ、涙を拭いて体勢を立て直し子どもたちに向き直った。


総督ヴァリのことはごめんなさい。彼のことを愛しているのは事実で、彼のことを知ったつもりで彼を支持していたのも事実。だけど、あなたたちの話を聞いて気づいた。そうじゃないんだと……。もっと目を向ければよかった。耳を傾けて声を聞けばよかった。あなたたちのことを、もっと早く知っておけばよかった。本当にごめんなさい」


 その言葉に子どもたちは沈黙した。その言葉の意味だけが通じていないかのように誰も彼もが目を見合せた。


 やがて、ルスランが答えた。


「……総督のことは大嫌い。でもお姉さんはちょっと見直した。この学校にだって総督のこと好きな子はいるよ。その子の話を聞いてるとムカつくことのが多いけど、いっしょに遊んでると楽しいこともある。そういうのはなくなってほしくないと思ってるから」


 サマンサは微笑み、小さくうなずいた。


「さあ、ここは危ないから、みんなで安全なところへ移動して。賢いあなたたちなら大丈夫」


「わかった。でも他のところに逃げ遅れた子がいないか手分けして探しながら逃げるよ。ありがとう」


 子どもたちが煙のない方へ向かうのを見届けると、サマンサも立ち上がり〈川鼬鼠オットセル〉を追った。

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