逃亡

 深夜、ハヤブサになって部屋を出る。

 時間を忘れ、気がついた頃には日が昇り、私は人間として目を覚ます。

 公園の遊具の下、わずかに湿った砂利が少し痛い。太陽に手を翳せば逆光で黒い手のシルエットと、仄かに赤みを帯びたその縁が目に映る。

 毎夜毎夜、繰り返す。私だけの逃避行。翼を広げ、どこまでも遠くへ、まだ見ぬどこかへ翔ていく。帰ろうとも、帰りたいとも思わなかった。あそこはもう、私の居場所ではない。


 自分の姿を自分の目に写すことは、相変わらずないのだが、私は想像する。

 この先、街を抜けて広い草原にでも出たのなら、私はどれほどの開放感に包まれるのだろう。

 逃げているはずなのに、楽しくて仕方がない。ハヤブサであるとき、私はすべてを忘れて自由になれる。

 昼は眠り、夜にはハヤブサ。それが心地良い。人間なんてやめてしまいたい。そう思いつつも、人間であるうちは人間以外の何者にもなれない。職もなく、あてもなく、徘徊するしかできない。不審者であることも自覚している。

 だから、そんな自分を誤魔化すように、木陰に蹲り、夜が来るまで眠った。


 ずいぶん遠くまで来た。もうここに私を追う者はいない。そう分かっていても――――私は更に遠くへ行かなければならない焦燥感に駆り立てられていた。


 ◇


 何がきっかけか、私は鬼ごっこをしていた。逃げた先、そこに住む子どもたちと。

 今は人間。年甲斐もなくはしゃぎ、駆け回り、そこでも私は逃げている。

 可笑しなもので私は常に逃げてばかりだ。だが、子どもとの時間は楽しい。大人である必要はなく、無邪気に転げ回っても咎められることもない。

 ――――――あぁ! 楽しい!

 夜になれば、その気持ちを引き継いだまま私は翔る。昼間には学校を終えた子どもたちと鬼ごっこをする。飽きることはなく、そんな日々が数日続いた。子どもたちは私のことを不思議に思いながらも、仲間に入れてくれる。私について深く詮索するようなことはない。楽しければ良いのだと、そんな風に生きている気がする。

 ――――たのしい。楽しい、……楽しい!

 あ、――――――――あれ?

 私、何から逃げているの?


「きゃははははっ! きゃははははっ!!」


 子どもたちの高い声が笑っている。


「まてー!」

「またないよー!!」

「「きゃはっ! きゃははははははっ――――――!」」


 あぁ、もう夕方だ。私はハヤブサ。夜になる前に、別れないと。


「ねぇねぇ、どこからきたのー?」


 舌足らずな言葉で小さな男の子が話しかけてくる。誰かの弟だろうか。まだ小学生ではなさそうだ。


「遠いところ、かなぁ」


 私が曖昧な答えを返すと、男の子は「えー?どれくらいとおいー?」と無邪気な笑顔で問う。


「ずぅっと、ずぅっと、遠いところ」

「まだあそびたいのになぁ」

「うーん…………じゃあ、最後にまた鬼ごっこしよう! みんな、おうちまで誰にも捕まらずに帰るんだよ!」

「たのしそう! あっ! きのうえとか、へいのうえは、すぐみつかっちゃうからだめだよ! すぐにつかまっちゃうよ!」

「えー、そう? かくれんぼじゃなくて鬼ごっこだから、逃げれば大丈夫だよー」

「だぁーめ! だっていつもさがしてるとき、たかいところだからね、すぐわかっちゃうんだよ! それに、ずるい!!!」

「あ、そっちが本音でしょー!」

「あははははっ!!」

「ほーらぁー! つかまえてみてー!」

「捕まる前に、おうちに帰れるかな――?」


 よし、捕まえに、行か、な、いと――――。


 違うよ。私は逃げないと。そうでないと、捕まってしまう。


「どうしたの?」

「ごめん、××××――――」

「え?」

「――――――………………」


 私の言葉が、言葉になる前に、突如現れた闇によって、私は人間であることを忘れた。雲が太陽を遮ったとき、冬の空は一瞬にして夜へと移り変わってしまう。とても冷めた空気が、私を包む。

 両手は羽に包まれ、視線がぐんと下がり、身体は重力を失ったと間違うほどに軽くなる。そして下がった視線が羽ばたきと共に浮上する。


 さようなら。

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