それが夢なのか、私は今でも分からない。

　ただただ、とても幸せだった。

　たがそれは、一瞬の幸福だった。

　辛い現実も、面倒な人間関係も、責任、時間、重力でさえも――――すべてから解放される。

　それはそれは素晴らしい、けれども不思議な世界に私はいた。

　◇

　長らく勤めていた会社を退職して、しばらく経ったある日、私はハヤブサになった。

　人間関係のトラブル、体調不調が続く中での連日の残業。兄弟や友人はおらず両親とは死別。正真正銘の独り身には、仕事上の失敗を慰めてくれたり、成果を褒めてくれたりする人はいない。責任の押し付け合いに巻き込まれ、陰口を叩かれ、妬み嫉みの矛先になりながら過ごす職場は居心地が良いはずがなかった。

　思い出すだけで吐き気がする。

　そんなストレスの日々。

　死を覚悟した。

　――――――新たな職もないままの退職。現実から逃げている自覚はある。だからこそ、辛くて苦しくて仕方がない。自分はダメな人間なんだと、もう一人の自分が頭の中で囁いている。

　そして、あってないような貯金を切り崩しながらの生活が始まる矢先のことだった。焦燥と孤独が残されたワンルーム。

　ハヤブサとなった私は羽を伸ばした。

　何故、どうしてそうなったのかは、分からない。前触れもなく、突然のことだった。

　開かれた窓から飛び出し、自転車にも車にも似つかない、圧倒的なスピードで街を翔る。全身で風を受けるその心地は、アスレチックのターザンロープでかつて遊んだ記憶と酷似している。ジェットコースターとは違う。不意を突いて下ったり上ったりしない。遠心力に振り回されるような感覚もない。

　自分の意のままに街のあちらこちらを飛び回り、美しい景色を鳥瞰する。風の匂いも、冷たい空気も、全身を通して伝わってくる。

　そして、これまでに感じたことがないほどの自由を得た。

「――――っ！　……楽しい！　楽しい！！　楽しぃー！！！　子どもの頃に戻ったみたい」

　何の仕事をしていたか、どんな悩みを抱えていたか、そんなもの、とうに忘れてしまった。忘れてはいけないような書類の締め切りも、やりたくなくてもやらなければいけない仕事も、面倒くさい人間関係も、この世界には存在しない。ひとりだけど、独りではない。

　生きている。

　今、この場に必要なのは、たったそれだけ。

　私はその時、その瞬間、ただ純粋な一羽のハヤブサだったのだ。

　自分の姿は自分からは見えないし、鏡を持ち歩いているわけでもない。空を翔るのは決まって真夜中で、店の窓硝子に姿が反射して見えるようなことはなく、どこの店もシャッターが下ろされている。

　それでも私は、私が何者であるかを知っている。

　真っ暗な闇の中で瞬き輝く星を見つけたら、私はそこへ向かって真っ直ぐに飛び立つ。そして、自分が軽くなったような錯覚を受ける。

　街が深い眠りへと落ちるほど、静寂に包まれた温かな闇へ、星々の元へ向かっていく。

　その瞬間はハヤブサの「ハ」の字も、鳥の「と」の字も出てこないのが、何とも不思議なものだ。

　――――――――――あぁ、きこえる。

　夜更かしな小さな女の子が私を指さして、父親に話しかけている。

「みて〜、とりさんだよぉ」

　そう、私はハヤブサだ。憑依とは違う。私の意思はここにある。

　それに、日夜ハヤブサでいるわけではない。遠く離れた地から帰路を辿り、夜明けに伴い瞼を閉じる。そうすれば、次に目覚めた瞬間には私は人間で、真っ白なベッドの上に横たわっているのだ。

　日が沈んだ闇夜の中でのみ、変化（へんげ）する。

　唯一無二である特別感と、不可侵の自由を得て、どうしようもない幸福が込み上げる。

　――――――だが人間であるとき、私は絶望にも似た喪失感を覚えるのだった。