がしゃどくろの巻
第17話
自室で勉強をしていたある放課後のことである。台所から母親の呼び声が桃太の耳朶に響いた。
「お父さんに忘れ物の書類を持って行ってあげて!」
その日は本来休診日だったが、特別な患者が来るということで父は職場に行っていた。桃太は鉛筆を置くと薄い鞄に入った書類を持って、自宅と併設された父の職場……村唯一の病院の方へと歩いて行った。
老朽化した病院の廊下は壁も床も天井も白かったが、それが清潔感に結び付くことはなく、あちこちに染みやひび割れがありどこかもの悲しさがあった。普段ならまばらにすれ違う看護士達も、その日は一人たりとも見かけることはなかった。
そうやって父のいる診察室に向かう……その最中だった。
この村の村長の一人息子である天野輝彦が、背後に長身の女性を従えて歩いて来た。
桃太は目を剥いてその場で立ち竦んだ。その視線は輝彦の背後にいる女性に向けられていた。その女性は『長身の』と言っても実際のそのサイズは人間離れしており、百八十センチ程ありそうな輝彦と比べても、アタマ二つ分は大きかった。
女性の肌は白く鼻は高く、艶のある黒髪をおかっぱにしていた。とてつもない美人であることは疑いようはなかったが、その鼻先より上には白い包帯が巻かれ、美貌の上半分は覆い隠されていた。さらにその頭上には室内だというのに背の高い黒い帽子が被せられていた。二メートルをゆうに上回る長身も相まって、その帽子の先端は病院の天井を掠める程だった。
「桃太くん?」
輝彦は立ち止まる桃太に声をかけて来た。桃太ははっとして会釈をして「ど、どうも」と返事をした。
「お父さんに会いに行く途中なのかな?」
「え……ええ。そうです」
「そうか。あの……」
輝彦は女性の方を一瞥し、桃太の方に困ったような視線をやった。桃太はどうにか女性から目を反らそうとした。まじまじと見るのは失礼だと思ったし、それに輝彦の態度はなんともその女性に触れて欲しくなさそうだ。
「大きいでしょう? わたし」
意外にも、女性の方から桃太へと声をかけて来た。
桃太はなんと返事をして良いか分からなかったが、否定するのもおかしいと思ったし、またとうてい否定しきれることではなかった為、「はい」と正直に返事をした。
「驚かせてごめんなさいね。でも、どうかわたしを見たことは、あなたの胸にしまっておいて欲しいのです」
「……ど、どうして……」
「わたしは今背がとても大きくなる病気にかかっています。そして、そのことを誰にも知られたくありません」
「そうなんですか……」
「子供に秘密を作らせてしまって、申し訳ないと思っています。しかし、賢そうなあなたなら、きっと約束を守ってくれると信じています。どうかわたしのことを誰にも他言しないと、約束してくださいませんか?」
そう言って、女性は頬を持ち上げて優し気に笑った。包帯に覆われたその瞳を見ることは叶わないが、しかし桃太はそれがとてつもなく美しい笑みだと分かった。
「分かりました。約束します」
「そう。では、指切りをしましょう」
女性は人を刺し殺せそうな程鋭く細く長い小指を桃太の方へと差し出した。
桃太はその半分ほどの長さしかない指先で、それに応じる。細長いその指はとてもすべらかだった。
「ありがとう。それじゃあね」
そう言って微笑みを残し、女性は輝彦と共にその場を去って行く。
桃太の心臓は高鳴っていた。
自宅へと戻る。母親からの「お疲れ様」の声に頷いて自室へと戻ろうとすると、背後から。
「何か変なものを見なかった?」
と声を掛けられる。
「別に、何も」
桃太は目を反らす。
「どうしたの? 母さん」
「ちょっと気になることがあって。あの人、最近ちょっと変でしょう? 休みの日に少しだけ病院に行って誰かを診ていたり、因さんのお父さんと何か怪しげな売り買いをしていたり……」
「売り買い?」
「地下室でこそこそ何か話していたり……おかしなことを考えてないと良いのだけれど」
そう言って、母は一つため息を吐いた。
「ごめんね。あなたに話すようなことじゃなかったわ」
「良いんだよ、母さん。それじゃあ、部屋に戻るね」
階段を上る桃太の背後から、母のため息がもう一つ聞こえて来た。
翌日。
近所の本屋を訪れた桃太は、専門書のコーナーで日焼けして痛んだ医学書を発見し、そのページをぱらぱらとめくった。
医学書と言っても専門性の高いものではなく、家庭用として一通りの病気について簡素な記述が行われている類の図書である。桃太はその中から『巨人症』のページを発見し熟読したが、女性が目元を隠していた包帯や頭に被っていた帽子について、何らかの合理性を見出せる記述は見当たらなかった。
「何読んでんの?」
そう尋ねたのは、桃太をこの本屋に案内した瓜子だった。
「家庭の医学? 桃太なんか病気してんの?」
「ううん。違うよ」
桃太はさりげなさを装って本を閉じた。それを見て取った瓜子は間髪言わずにこう尋ねる。
「言いたくないこと?」
小さな所作一つでそれを看破した瓜子の勘の鋭さに、桃太は思わず舌を巻く。そして桃太は潔くそれを認めた。
「実はそうなんだ。ごめんね」
「いいよ。ふうん」
桃太が図書を棚に戻すと、瓜子は漫画本のコーナーを物欲しそうな表情で見上げている千雪に声をかける。
「行こう千雪」
「あ、うん」
千雪はそう言って、桃太と共に瓜子に続いて本屋を出た。
あの出来事から数日経ったが、千雪は問題なく綾香達のグループに戻れたようだった。と言ってもそれは瓜子達の口裏合わせが上手く行ったというよりは、綾香が意図してそれを深く詮索しなかったのが原因と言えるかもしれない。
そこにどういう力学が働いたのかは女子社会に疎い桃太には良く分からない。
ともかく千雪は綾香達のグループで下っ端として過ごす傍ら、放課後にはちょくちょく瓜子や桃太とも遊ぶようになった。その挙動は半ば公然としていたが、綾香がそれを咎める気はないようだった。
そんな三人で過ごす放課後にも桃太は馴れ、愛着を感じるようになっていた。その日も駄菓子屋を経由して川原へ向かい、水切りなどをして夕方まで遊んだ。
その帰りの道すがらのことだった。
中学生らしき大柄な集団が向かい側から歩いて来た。それは瓜子達の方に視線をやると剣呑な気配をそこに浮かべさせた。
桃太は本能的に彼らを警戒した。瓜子は彼らを一瞥したが、あえて気にしない様子だった。千雪は特に何も考えていない様子で、自分が意外と水泳が得意なことや、夏になると水着を一つ買って貰えることを桃太に話し続けていた。
引き返すか道を変えることも考えたが、両者の距離は既に数メートルというところまで来ていた。なるだけ相手を刺激せず、穏便にすれ違うのが一番だと言えた。瓜子もそうするつもりらしく、澄ました表情で中学生達の方へ向けて歩いて行った。
「おい」
中学生の内の一人、男子が瓜子に声をかけた。
「なんか言うことないのかよ?」
「なぁに?」
瓜子は無垢な表情で中学生の方を見た。
「あなた誰だっけ?」
中学生の拳が瓜子の顔面を捉えた。
一瞬の出来事だった。地面に尻餅を着く瓜子の前に出て、桃太は思わず怒声を発した。
「何をするんだ!」
「おまえはすっこんでろ! お坊ちゃんが!」
そう言った一人の男子中学生を先頭に、ぞろぞろと瓜子の元へと殺到していく。
「お、おい。何をする気だ? やめろ。酷いことをするようならすぐ警察に通報して……」
「警察? この村の警察がそいつの為に何をするっていうんだよ!」
中学生達はけらけらと笑った。
「何も知らねぇんだな、坊ちゃん。しかしこの女も女だよ。そんな何も知らない二枚目を誑かすなんてな」
見れば千雪はその場を脱兎の如く逃げ出していた。助けを呼んで来てくれるのではないかという希望が頭をかすめたが、彼女の性格からしてそれは期待薄のような気もした。
「立て。因瓜子。おまえは俺を忘れたかもしれないが、俺はおまえを絶対に忘れない。俺の母親が死んだのはおまえの所為だ」
「……そうなんだ。それはごめんね」
瓜子は痣を作った顔で、淡々とした口調で謝罪を述べた。
「悪かったよ。何回だって謝る。でもさ、いきなり殴るのは流石にナシじゃないかな?」
「うるせぇ!」
「やめろ!」
腕を振りかぶった男子中学生に、桃太は飛び掛かって押し倒した。身長は向こうの方が五センチ程高く、体重は十キロ以上向こうが上だったが、過去の鍛えがものを言った。どうにか封じ込めることに成功する。
しかし多勢に無勢だった。一人の男子を抑え込んだ桃太の横っ面を、別の男子が思うさま引っ叩く。鼓膜が破けるかと思うほどの衝撃と共に、桃太はその場を転がって抑えていた男子を解放してしまう。
解放された男子は桃太の方を一睨みすると、その場を立ち上がって瓜子の方に歩いて行った。
「やめろっ」
「じっとしてろよぼっちゃん。俺はどうしても、俺の顔を忘れてやがったこいつのことが我慢ならない」
「だからって……女の子一人を相手に寄って集って。それでもあなた達は日本男子か!」
「古いんだよこのガキ! 何が日本男子だ! 何も知らない癖にでしゃばんな!」
人数で優る相手に勝ち目がないことを悟りつつも、それでも桃太は最後まで抵抗を続けようとした。自分が決して勇猛果敢なタイプではないことを桃太は知り抜いていたが、それでもこの局面で逃げ出す程の腑抜けにはなりたくなかった。
しかし。
「助けを呼んで来て、桃太」
瓜子はそう言って道路の方を指さした。
「戦ったって勝ち目ないよ。大声で叫んだらきっと誰か来てくれる。早くして」
そう言われ桃太は一瞬だけ逡巡した。瓜子が桃太の身を案じてその提案をしたことは明らかだった。助けを呼びに行かせるという名目で自分を巻き込ませないよう逃がそうとしているのだ。
しかし瓜子の提案自体はもっともだった。暴力で解決する状況でないのに、それを認めずに勝ち目のない戦いを続けるのは間違いなく愚かだった。それと同じ愚かしさで過去に日本は戦争に負け滅びかけたのだと、桃太は父から聞かされたことがあった。
「分かった」
桃太はそう言って身を翻し、広い道路に出て大人と言う大人に声をかけた。
「すいませんっ! 助けてください! 女の子がリンチされそうになっているんです!」
何人かはその声に応じて駆け寄ってくれたが、しかし中学生に締め上げられている瓜子を見て首を横に振った。
「ありゃ放っとけ」
「何で!」
「何でって……絞められてるのは鬼っ娘の瓜子じゃないか。あんなのは放っておいたら良い。良い薬だよ」
そう冷たく言って通り過ぎてしまう大人たちに、桃太は失望と絶望を感じた。そんな時だった。
「やめないか!」
一人の大人が中学生達の間に割って入り、鋭い声で一括した。
見ればそこにいたのは村長の一人息子である天野輝彦だった。普段の穏やかな物腰とは打って変わり、鋭く言い放つその様子には威厳のようなものが感じられる。
その声に、中学生達は思わずと言った様子で動きを止めた。そして虐げられていた瓜子の肩を掴んで背後に庇うと、輝彦は再度中学生達を見回して一人ずつの顔をじっと見つめた。
「やめないか」
今度は静かな、しかし重みのある声でそう告げた。
「て、輝彦さん? でも……この女は俺の母さんを」
「ああ。それは悲しい事件だった。今思い出しても、胸が痛くなるようだ」
そう言って、輝彦は優しい瞳で中学生を見下ろした。
「だが彼女は咎めを受けた。無論、裁きが終わった後も償いは続く。周囲からの風評や冷ややかな扱いに耐えることも、もしかしたらその一部なのかもしれない。だがだとしても、それは君がその拳を汚して良い理由にはならない」
「でも……」
「苦しいのは分かる。だが君のやり方は間違っている。相手が誰であろうとも、寄って集って女の子を一人いじめる君を見て、天国のお母さんは喜ぶだろうか?」
その言葉に納得したからというよりは、輝彦の表情や態度から真摯さを感じ取った様子で、中学生は苦汁を舐めるように「分かりました」と呟いた。そして仲間を引き攣れ、その場を立ち去って行く。
その場には、顔に数か所の痣を作った瓜子と輝彦、そして何もできず棒立ちしている桃太が残された。
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