さとりの巻
第9話
数年ぶりに訪れる海は静かだった。視界には空と海と砂浜の美しくも単調な色合いだけが広がっており、寄せては返す波の音は聞いている内に意識の内側に溶け込んで消える。五月の涼しい潮風が運ぶ海の匂いは香しかった。
「やっほーっ。海だーっ!」
言いながら瓜子が砂浜を走り回った。白い砂浜に小さな足跡を付けながらはしゃいで回ると、柔らかい砂に足を取られて正面から転んだ。
「ぐえっ。あははははっ、あはははははははっ」
すぐに起き上がって砂を落とすでもなく再びはしゃぎ始める。ここに来るまでに一時間を超える道程を歩き続けて来たというのに元気なものだった。
「じゃ。人魚さがそ」
「そうだね。でも、どうやって?」
「とりあえず海入らん? いるとしたら絶対海中でしょ」
「まだ五月なのにかい? 帰りも長いし風邪ひくんじゃないかな? 水着もないし……」
「裸で泳いで後で火に当たれば良いじゃん」
瓜子は懐から銀色のライターを取り出して言った。どうやらこの少女の最大の趣味は焚火であるらしく、絶えずこのライターを持ち歩いては火のつけられそうなものを探していた。
「……今日は泳ぐのはやめておかない? 必要に駆られてやむを得ずっていうのはともかく、無暗に裸になるのは良くないと思うし。また夏になったら水着持って来よう」
「ええでもそれじゃ来た意味なくない?」
「ここは確かにぼくが人魚に助けられた海だ。それを確認しに来られただけでも意味があるよ。それにこうやって砂浜で黄昏るのも楽しいじゃないか」
「えーっ。つまんないのぉ」
瓜子は唇を尖らせて言ったが、すぐに「まあいいや」と笑顔を取り戻した。
「じゃ。そこらの砂浜散歩しよっか」
「うん」
海岸は異様な程に広かった。人工物がまるで設置されていない為どこまで歩けど殺風景で、単調な景色が延々と無限に続いて行くかのような錯覚に見舞われた。
やがて、そんな水平線までの何もない海の様子の中に、異物が出現した。それは小さな島だった。何もない海の中でそれがどのくらいの距離にあるのかは分かりづらかったが、木々に覆われた小山のようなものがあるのが見て取れた。
「あそこにね。海神様が住んでるの」
瓜子が島を指さしながら言った。
「海神様?」
「そ。海の神って書いてワタヅミ。アタマが二つあるすごく立派な龍で、体長は百メートルを超えてるんだって。嵐を起こしたり、山を消し飛ばしたりする力を持っているんだよ」
「何それ? そんなとんでもない怪物が、本当にいるの?」
「いるんだもんね。このあたりの妖怪の親玉で、村の守り神様なんだ。川に住む河童はもちろん、ずっと山奥に住む鬼の一族だって、海神様には適わないんだよ」
河童の存在を目の当たりにしたばかりの桃太にすら、その龍の話は半信半疑だった。本当にそんな龍がいるなら拝んでみたかった。
「皆海神様を尊敬してる。でもね、わたしはあんまり好きじゃないんだ」
「どうして?」
「海神様はね、毎年のお正月に、村に生贄を要求して来るの。その年生まれた赤ん坊の中から一人をね」
それを聞いて、桃太は目を見開いた。顔面に冷水を浴びせかけられたような衝撃だった。
「何それ? どうしてそんなことを?」
「海神様は山奥に住んでる鬼の一族から、村を守ってくれているんだよ。年に一人の生贄は、その見返りって訳」
おとぎ話を聞いているような気分だった。桃太の感覚では人という生き物は基本的に地上における無敵の支配者であり、人間同士で戦争をすることはあっても、鬼などと言う他の生き物に脅かされたり支配されたりすることはないはずだった。
しかし時代の発展に取り残されたこの地図の端っこの村では、妖怪の脅威に怯えるあまり毎年の生贄を龍に捧げると言う、悲惨極まりない状況が続いているようだった。都会育ちの桃太にとって、それは想像もできない世界だった。
「だから十二月の決められた日になると、その年に赤ん坊が生まれた一家が村長の家に集まって、そこで抽選をするんだ。今のこの村だと一年に生まれる子供は十人や十五人だから、結構怖いくらいの確率だよね」
「そんなことがずっと続いてるの?」
「そ。百年以上に渡ってずーっとね」
「……そんなことがこの先も続いて行くとは、ぼくは思えないな」
桃太はつい声を落として言った。瓜子は「ん?」と桃太の表情を大きな瞳で覗き込んだ。いつもは無邪気で天真爛漫なばかりのその澄んだ瞳に、何か怪しい光が宿ったように感じた。それは知性の色をしていた。
「それってどういうこと? 聞かしてくれる?」
「いやだって……。そんな危険な抽選がある村で子供を産みたい人なんていないじゃないか。住める場所や働き口が限られた昔と違ってさ、今は高度経済成長の時代なんだよ? この村で生まれ育った人でも、どうにか山を越えて街の方へ行けば、仕事を見付けるのはそう難しくない。となると能力のある若者ほど村を離れたがるはずだし、そうすると遠からず村は滅んで……」
「とっくにそうなってない方がおかしいって、お父さん、いつも言ってるんだ」
憂いを帯びた表情で、瓜子は言った。
「時代遅れだって。人間がそんな風に妖怪にへつらう時代はもう終わったはずだって。人間がちゃんとその力を発揮すれば妖怪なんてどうとでもなって、都会に妖怪がいないのはその所為だって。なのにこの村の人達だけが無力なまんまで取り残されてて、そんな哀れな状態は絶対に何とかしないといけないし、何とかできなかったらこの村は滅ぶだけだって。お父さんはずっとそう言ってる」
「……そうなんだ」
「桃太は賢いね。大人と同じくらい村の現実がちゃんと見えてる。学校の皆はこの村が滅ぶなんて誰も思ってない。わたし達が実感できるくらいには、人口だって減り続けてるのにさ。東西に二つあった学校が一つに併合になって、校舎が狭いって文句言ってる癖に、いつかその一つも無くなるってことに誰も気づいていないんだよ」
「……子供にそんなことを想像しろって言う方が無理なんじゃないかな?」
「桃太は想像できてるじゃん」
「そうだけど……。でも具体的にどうすれば良いのかまでは、ぼくにもさっぱり」
「それは大人だってそうだと思うよ。わたしも全然分かんないし」
「この村に生まれて来たことが、嫌になったことはある?」
そう聞くと瓜子はあっさりと首を横に振った。
「ないよ。そんなこと考えても意味ないじゃん。この村に生まれたのが、わたしなんだから」
正しいことを言っている。桃太はそう思った。
砂浜は広く隅から隅まで往復するのに小一時間を要した。その間二人は小学生らしく他愛のない会話や戯れ繰り返し、最後には砂山を一つ拵えてから帰宅することにした。
有意義な時間だったと桃太は実感した。桃太にとっての瓜子という人物は、忠義を尽くすべき命の恩人であるということが第一だったが、それと同時に、これまでに出会って来た中で最も魅力的な少女でもあった。二人きりで並んで歩いたり遊んだりするのは好ましく、勉強浸けの毎日における確かな喜びだった。こればかりは都会の暮らしにもないものだった。
そんな楽しい帰り道も終盤に差し掛かった頃だった。
「あ。さとりがいる」
山の麓を歩く時一匹の猿のような生き物が背中を向けて木に登っているのが見えた。すると瓜子は自分の両目に手をやって視界を封じ込めた。
「桃太も目ぇ塞いで」
「え、なんで?」
「さとりがいるから。目ぇあったら付きまとわれるから」
それを聞き終えた桃太がアクションを起こす前に、『さとり』と呼ばれた猿のような生き物は、桃太の方へと向けて振り向いた。
それは一目に異様な生き物だった。
その体格や大きさ自体には通常の猿と大きな違いはない。良く見るニホンザルと比べると毛は長く色は淡く、尾が長く猿の体長を上回る程だったが、それでも通常の生き物の範疇に入るものだった。しかしそれが異形たる所以は顔にあり、なんとその猿には口が二つあった。
顎が二つ重なっているかのように、犬歯の見える通常の口腔の下に、結ばれた唇がもう一つあった。唇は極端に薄く色は黒ずんでいた。
さとりは桃太と目が合うと木から飛び降り、凄まじい勢いで四本足で走り寄って来た。そして歓喜の声をあげながら桃太の股下をくぐり、背後に回った。
「きゃーきゃっきゃっきゃ! きゃっきゃっきゃ!」
その声はやけに耳障りだった。すぐに止まなかったら眩暈がしそうな程だった。
「ああ……。取り憑かれちゃった」
瓜子が顔から手を話しながら、同情と気遣いを感じさせる目で桃太の方を見た。
「あのね桃太。先に言っとくけど、わたし、さとりから何を聞いても全部聞こえないことにするし、忘れるからね」
「何を言って……」
「できるだけ心を空っぽにするんだよ。そして真っすぐ家に帰って部屋でずっと目を閉じてるの。肉体的な害はないからその心配はしないでね。すぐにお父さんを呼んで来るから。つらいと思うけど、必ず何とかしてあげるから。どうか気を強く持って」
瓜子の表情は深刻であり桃太は己に迫った危機を認識した。どうやら自分はこの口の二つあるさとりという猿に『憑かれ』てしまったようだ。だがそれが自分にどのような害を齎すのか皆目見当がつかなかった。
その時だった。
「『コワい、コワい!』」
背後でさとりが口を開いた。しかも開かれたのは二つある口の下側にある、先ほどまでは閉じられていた方の口だった。
「『コワい、コワい、気持ちが悪い。この猿は本当に醜い。僕はどんな酷い目に合うんだろう。コワい、コワい』」
「え……。ちょっと待ってこれって……」
「『どうして僕が思ったことを? もしかしてこの猿は心を読むのか? なんてことだ。気味が悪い。まずい。コワい。まずいまずいまずい』」
「さとりの上の口は普通に鳴いたり食べたりする口だけど、下の口は取り付いた人の心の中身をそのまま喋るんだ」
瓜子がそう言って顔を顰めた。
「だからさとりの前では誰も嘘を吐けないんだ。さとりの下のお口は正直だよ。思ってること全部暴露されちゃう」
「そんな……だったら」
「『瓜子に色んな秘密を知られてしまうぞ。まずいぞ、まずいぞ』」
桃太は自分の心の中を空っぽにすることを試みた。しかし何も考えないというのはある意味では最大の精神力を要する所業であり、十二歳の桃田がそれを可能とするのは無理があった。
「『バレたくないことばかりだぞ。さっき砂山の中で瓜子と手が触れてドキリとしたことはバレたくないぞ。ずっと瓜子のことを可愛いと思ってることもバレたくないぞ』」
「や、やめろよさとり! どうしてそんな悪趣味なことを……」
「『川原で見た瓜子の裸をずっと忘れられないこともバレたくないぞ。いけないと思っていても、あの姿を思い出す度に悶々としていることなんて絶対にバレちゃいけない。それどころか昨日なんか布団の中で裸を思い出しながら自分のちんち気絶してやるぅ!』」
桃太は近くにあった岩に走り寄って自分の眉間を叩きつけた。それが気絶を目的としたものなのか自殺を目的としたものなのか、おそらく傍目には区別がつかないだろう勢いだった。もしかしたら桃太自身さえその二つの区別はついていなかった。
あっけなく、そして狙い通りに、桃太はその場で意識を失った。
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