京都は、今はない平城京を思い出されるので、中国人に人気がある一つの理由だと聞いたことがあります。日本人にとっては、ここが本当の都という感じもあるのではないでしょうか?あれだけ、神社や寺が乱立する街は他にないですよね?
私の友人は東大博士課程でしたが、実家は京都の神社の神主の家だったそうで、神主さんの資格を持ってました。兄は、例の東海村の放射能事件の後始末で過労死、彼も若年生アルゼハイマーで40代で亡くなりました。出来の良かった息子二人が亡くなってしまったご両親の悲しみは想像もつきません。
作者からの返信
ありがとうございます。
そういえば岩手県平泉に観光したとき、中国人観光客がたくさんいました。
金色堂で昔の経典(お経)を彼らはスラスラと読んで、仲間同士で話し合っていました。
ああ、お経は中国語なんですから。
今の人でも読めるわけですね。
京都は昔の中国を想起させるものが多いのかもしれません
京都市に、今も残っているかどうかは不明ですが、建築物の高さ制限がありました。それを最初に破ったのは、現在の京都駅ビルでした。
街が観光地化すればするほど、ある意味、本当の意味での「歴史ある街並み」は破壊されていくように感じています。大きな寺社仏閣、有名な場所はある程度残っていますが、伝統的な「ウナギの寝床」と呼ばれる町屋はほとんどなくなりました。
街もある意味生き物であり、100万年でもあるので、やむを得ないところはありますが、残念です。
ただ、町を散策する中で、ちょっとした通りに、歴史が残っているのは感じられます。
ちなみに、JRおよび阪急京都線で30分ほどで京都に着く地域に住んでいた私たちの地域では、京都は「遠足」の場所でした。修学旅行は、小学生は広島、中学生は長野県でスキーでした。
作者からの返信
そういえば私が修学旅行の時は京都駅の駅舎は違ったような記憶が。調べたら1997に今の駅舎になったのですね
歴史的建造物が個人所有だと保存が厳しいかもしれません。京都は神社仏閣しか残らなかった、なんてことにならなければ良いのですが、大都市でもある以上は、保存が難しいかもしれませんね
修学旅行は、小学校=伊勢志摩。中学校=長野。高校=南九州でした。
作者からの返信
小学校は?
中学校は京都奈良
高校は無しでした
第13話 任天堂ゲームウォッチ・ポパイへの応援コメント
インベーダーゲームはまりました。結構投資をしていたつもりですが、先輩がプロの技を見せてくれて、参りました。
作者からの返信
私は下手だったのであまり投資はせず、傷が浅くすみました(笑)
失礼します。
刀傷の痕が残っているのは寺田屋だったか。ググってみるとあれもモノホンではないらしい??坂本龍馬 VS 桂小五郎の剣術試合もフィクションのようですし、司馬遼太郎御大から幕末ものにのめり込んだ身としてはいろいろ複雑ww
作者からの返信
フェイクですかぁ!!!
編集済
第36話 プラモデル=模型ブームへの応援コメント
失礼します。
ガキの頃1/100の連邦の某量産機を作ろうとして失敗、以来プラモデル全般には興味が行かなくなりました。その頃高校生だった兄貴が1/60のスカート付きMSを作りシンナー臭の中で色塗っていました。長い事やってると頭がクラクラするのだとかww
それ以降高校ン時からのおもちゃコレクターなダチの影響を受けてプラモ熱が再燃。ちょこちょこ作ったけど何年もせん内に止めました。熱しやすく冷めやすいww
ガンプラ以外やったことが無いので分かりませんが、お話を読んでいるとリアル系プラモのパーツはかなり細密に出来ている模様。ハマるのも納得。
作者からの返信
ガンダムのスケールは1/72、1/100、1/144でしたでしょうか。
実は造ってみたかったんですよね。
ガンダムの後にダグラム、ザブングルはかなりメカニックデザインが凝っていて、友達のジオラマを眺めていました。
艦船模型は奥深いですw
空母は飛行甲板の下の構造とか、まさに苦行で海自の護衛艦のアンテナとかもう大変ですw
戦車は塗装が難しく、ついにエアブラシとコンプレッサーと、拍動防止のエアタンクを挟んで空気圧のゲージを付けて…
完全にアホでずw
第36話 プラモデル=模型ブームへの応援コメント
私はガンダムが流行って頃には、米国でしたが、妹がハマってました。お台場に初代動くガンダムができた頃、中学生の娘を連れて、東京で、それが見える宿泊費が莫大なホテルに夫婦で泊まりに行ったのを、後で、妹にちくられて、母に呆れられていました。
私は、田宮の精巧なプラモデルが大好きでした。小学生の頃、叔父に買って貰ったホンダF1生沢徹モデルに始まり、自分の正月の小遣いで買ったフェラーリ312B 1/12スケールやホンダのナナハンとか、時間のかかる物を組み立てていたのが、後に自分の実験装置を作る時に役立ったと思っています。
母は自分の子供におもちゃを買った事がないと自負する人ですから、叔父達に買って貰ったり、小遣いをためて買っていました。お年玉の多くは、プラモデルになったと思います。そんな母ですが、息子にはガンダムなどのでかいおもちゃを平気で買ってやっていました。お陰で、日本から帰国する際に、スーツケースをもう一個買って帰った事もありました。それでも、入りきらないで郵送した物もありました。祖父祖母ってなんなんだと思いました(笑)。
作者からの返信
ああ、意外と模型愛好家はいるもので安心しました。
私はホントは平和主義者です。広島の式典にも参列した経験もあります。
でも、模型だけは好きです。旧ドイツのタミヤのティーガーIは、出来がよく10年以上部屋に飾ってます。
やはり日本製模型は精巧ですが、最近は中国製も出来がよく、1/200の戦艦ミズーリとか、1mを超えるような日本メーカーが手を出さないアホな模型を本当に商品化してきて欲しくてたまらないです。
巨大模型はロマンですね(笑)
第35話 新婚旅行はハワイ?への応援コメント
ハワイには行ったこと無いです。ハワイと聞けばワイキキでしょうが、アリゾナメモリアルなど、戦争の爪痕もあります。あと、HITACHIの定番のコマーシャルの、「この~木何の木、気になる木♪︎」の、大きな木もハワイにあるみたいです。
作者からの返信
わたしもハワイは行ったこと無いのです。
LAはあるのに。
日立の木はワイキキビーチ近くの公園にあるそうです
第33話 初めて飛行機に乗ったのはへの応援コメント
初めて、飛行機を利用したのは、慰安旅行で北海道に行きました。その後は、東京、福岡など、海外旅行はオーストラリアへ、夜の9:30関西空港発で、ブリスベン経由でシドニーへ。乗り物酔いも覚悟しましたが、ジャンボジェット機なら酔わなかったです。(飛行時間は8時間くらい)
作者からの返信
ぜひ、冬の荒天の新潟空港への着陸を経験してみてください
酔う、ではなくて絶叫マシンですね。
たぶん、いままで経験したジェットコースタ-やバンジージャンプより怖かったです。
最後に、阿賀野川の上をスレスレで飛ぶところとか、
着陸で風で煽られるとか、最後のブレーキで停止するまで、スリル満点です
第32話 誰だ、この曲を持ってきたヤツ、まあいいかへの応援コメント
オフコース、よく聴きました、「夏の日」「君が嘘をついた」「Yes-No」「たそがれ」等。
第31話 90年頃まで高層ビルはそんなになかった東京への応援コメント
サンシャイン60、横浜ランドマークタワーが日本一を目指してましたね、うちの家の近くの「阿倍野ハルカス」が日本一だったのですが、また東京に「ハルカス」を越えるビルがたったみたいです。
作者からの返信
東京の新しいところ、テナントが埋まらないみたいっすよ
第30話 月曜9時は銭湯から客が消える?への応援コメント
関東地方の銭湯に一度入りました、「こち亀」でも見たのですが。奥に湯船がありますね。うちら関西はど真ん中に湯船があります。
作者からの返信
なぜ真ん中に?w
編集済
第35話 新婚旅行はハワイ?への応援コメント
パンナムは、リビヤのカダフィ大佐にやられて、スコットランド上空で爆破された後潰れました。TWAは90年代に潰れました。
「兼高かおるの世界の旅」、幼い頃から見てました。
作者からの返信
アメリカのフラッグキャリアと言ったらパンナム。東部はTWAだった覚えがありますが、あっけない幕切れでしたね。
兼高かおるの世界の旅と野生の王国は良くみていました
第34話 8ビット機から16ビット機へへの応援コメント
妻の「片づけなさい!」圧力に負けて、古いPCはほとんど処分しましたが、初代iBook(PowerPCの時代)は残しています。それでも20年以上前の代物ですね。立ち上がるかどうか、不安です。
作者からの返信
ありがとうございます。私の家も同じです(笑)
ただメルカリ、ヤフオクで高く売れているので後悔しているものも…
第34話 8ビット機から16ビット機へへの応援コメント
私は、マッククラシックIIを持ってます。起動しませんが。
作者からの返信
私は、PC98ノートを持ってまして電源がACアダプタなので一番劣化しやすい部分が代わりがあってまだWin95が起動します。モデムはダイヤルアップ式のものが付いています。通信はメチャクチャ遅いです。メール送信しかできないですね
第33話 初めて飛行機に乗ったのはへの応援コメント
私は高校で留学するために初めて飛行機に乗りました。羽田からLAまで。747はまだ導入され始めた頃で、JALはDC8が主流でした。
作者からの返信
成田開港前ということは…
DC-8,10ありましたね。
LAまで給油なしだったのか私は記憶にないですが
ダグラスは懐かしいです
第32話 誰だ、この曲を持ってきたヤツ、まあいいかへの応援コメント
私も中学生の時、一度、夏休みに入った直後、全学年でキャンプへ行きました。キャンプ場への行きと帰りの両日に、我々が歩いと道で、ヒバゴンが目撃されたと言うニュースを家に帰ってかrし見ました。
作者からの返信
ヒバゴンとは!
私の行ったキャンプ場はクマは頻繁に出るようです
第32話 誰だ、この曲を持ってきたヤツ、まあいいかへの応援コメント
それは、ダメージが大きすぎると思います。
偶然の選曲だとしても、間が悪すぎますね。
オフコース、中学2,3年生なら、ぼちぼち目覚めてくる年齢だろうとは思います。
作者からの返信
またタイミングよいことに「君が嘘をついた」とか「さよなら」とかあるもので、最悪ですね…(笑)
編集済
第32話 誰だ、この曲を持ってきたヤツ、まあいいかへの応援コメント
失礼します。
それは何とも痛い経験でした。音楽の破壊力は半端ではない。
>歌詞を考えると、とても中学校のバス遠足で掛ける曲とは
大人になりたがる時代ですからちょうどいいのかも?
作者からの返信
「眠れぬ夜」ほどの強気はありません(w)
相手はイケメンw
第30話 月曜9時は銭湯から客が消える?への応援コメント
今はケロヨンの桶ってないんですか?!ガーン!
早稲田大学の近くにあった銭湯は、いつも通り過ぎるだけで入ったことがありませんでした。一度ぐらい入ってみたかったけど、近くに住んでいたわけじゃないので、ハードルが高かったです。
作者からの返信
ケロヨンはあるかもしれません(?)
早稲田大学近く早稲田通の銭湯は2~3回くらい利用したことがあります
第31話 90年頃まで高層ビルはそんなになかった東京への応援コメント
サンシャイン60, NEDOという昔の通産省の大型プロジェクトで何度か訪ねたことがあります。確かにでかい建物でした。敷地は昔の刑務所(悪名高き)の後だと聞きました。
作者からの返信
サンシャイン60には何が入っているのかよくわからない所が…(笑)
トヨタの展示場があったかな?という覚えがあります
ご指摘の通り戦争犯罪者を収容した巣鴨プリズン跡地ですね
第30話 月曜9時は銭湯から客が消える?への応援コメント
>「東京ラブストーリー」
二年前くらいに、ネットフリックスの米国版でやっていたので、妻が、1シーズンの半分くらい見ましたが、諦めました。その頃見たら、もっと興味が湧いたかも知りません。もう年なんで、初めてのお使いの方が年寄りには向いています(笑)。
作者からの返信
ありがとうございます。ネットフリックスでも放送されたのですか。
昔のドラマは俳優の肖像権や所属事務所の権利などで放送が難しいものが多いそうですね。
あのドラマは大学やバイト先の女の子と話をしていた時は、お互いに歩調を合わせるような話をしてましたが、
妹と話をすると「あの女むかつく」とかダイレクトに言われ、男性から見た面と女性から見る目が違うことを始めて気がついたもので、貴重な体験をしました
初めてのお使いは、「スタッフや親がカメラが監視しています」というようなテロップが入らないと外国ではヤバい感じがしますが…(笑)
第30話 月曜9時は銭湯から客が消える?への応援コメント
晁衡様、おはようございます😊
「時間ですよ」みたいな銭湯、昔は東京にいっぱいあったんですね。
昔ながらの銭湯には行ったことがないので、羨ましいです。
一度は入ってみたかった!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
まだあのタイプの銭湯は、まだあると思います。
私が知っていた銭湯はみなリニューアルしています。
本文に書いた銭湯とは別に、早稲田大学すぐ近くにあった銭湯にも行ったことがありますが、数年前に辞めたそうです。残念ですね。
編集済
第28話 「お茶大ばんざい」への応援コメント
全然話が違いますが、確か新潟にある亀田製菓の1970年代のCMで「ふるさとに帰る人を旅人とは言わない……だけど旅人のように心は故郷へ、今日も帰るよ。亀田のあられ、おせんべい」というのがあったと思います。
子供心にいい曲だな、と思ったのですが、YouTube か何かで聴く事はできないでしょうか?
作者からの返信
ご質問で調べてみましたが、かなり覚えている人はいるようですが、いかんせん古くて動画ではなかなか見つからなかったです。
新潟のローカルCMも見てみましたが…
なんとなく私も覚えがある感じですが
第27話 BMWは六本木のカローラへの応援コメント
懐かしいですね。
私は当時、日産が扱っていたVWサンタナ(5気筒)に乗っていました。
色々重い車でしたが、追突されてもびくともしなかったのが良かったです。
追突した車はサンタナのリアに潜り込んでフロントがグチャグチャになっていました。
ただ、小さな不具合は時々あって、日産のディーラーさんは整備に辟易していたようです。
第28話 「お茶大ばんざい」への応援コメント
早大で、1990~1994の間に全学ストで期末試験がお流れになったこと、初めて知りました。私も最初の学部生生活は1991~1995だったので、他人事とは思えません。
大阪大学も、掲示板の張り紙などがあり、低学年のころに、革マルのヘルメットをかぶった人たちがスクラムを組んで小走りに駆けていった、という記憶はありますが、「世の中の在り方を考える」という真摯さと、「暴力革命を支持する」というおかしさが共存しているところに違和感と、時代遅れ感を感じたのは事実です。
低学年の頃の浮かれたバブル時代、そして高学年時にバブルがはじけた就職氷河期を体感した世代としては、「学生運動の終焉」があの頃だろうなぁ、と思っています。
ほとんどの大学生は当時の「トレンディドラマ」に夢中で、「男女の恋愛」が「社会の在り方を考える」ことよりも重要なことだったのは確かだと思います。
作者からの返信
早稲田大学の全学ストは意外に知られていない話ですね。
アメリカのクリントン大統領が早稲田大学に訪問することが決まっていて、直前まで全学ストをやっていたと。
実際に教室から椅子、机を引っ張っりだしてバリケードを作るのです
かなり大規模で一部の活動家という感じではないですね
第27話 BMWは六本木のカローラへの応援コメント
我が家では、「免許は自分のお金で取ること」が金科玉条だったので、安価に取れる自動二輪は20歳で取りましたが、普通自動車免許は27歳でようやく取りました。学生時代が長く、仕事をし始めてからも職場が隣接していたこと、妻から「車はいらない。必要な時にタクシーやレンタカーを使う方がお金がかからない」という意見が出ていたので、自分の車を持つようになってから、まだ10年ちょっとです。
ベンツ190E、私は好きなのですが、今手に入れようと思うとずいぶんお金がかかるので、見合わせです。「走って、曲がって、止まって、家族みんなが載れて、荷物が積める」という条件を満たし、小回りの利く車、ということで車を選んでいます。
最近はスクータータイプのバイクも市民権を得ていますが、私がバイクに乗っていたころは、足でガチャガチャとギヤを変えていたので、車もMTが欲しい、と思っていますが、いいな、と思う車にMTがないことが多く、残念に思っています。
作者からの返信
メルセデス、BMW、アルファロメオと、コンソールやヘッドアップディスプレイは新潟県の日本精機が製造しているので街おこしの立場から「是非買ってください」というのが慣わしになっています(笑)
私は雪の峠道人家のない所を何十キロを走るという新潟の環境から完全電気自動車は選択肢にはないのですが、ガソリン発電機搭載の日産車が今の車です。年齢が高くなると判断能力が落ちるとして安全装置をというのも条件でした。結果ハッチバックでホントはエクストレイルが良かったのですが、今の車は気に入ってます。
新潟で医師が選ぶ車は四輪駆動のアウディが一番多いようですね。VWとシャーシが同じものが多いようですが
原付バイクは変速機がなくスロットルだけで最高時速まで加速してくれるので便利でした。ギア付きバイクはクラッチとブレーキを間違って痛い目に遭ったので、やっぱり歳が行ったら原付バイクかなあ
第26話 少年ジャンプは定番への応援コメント
「こち亀」初期(~60巻前後くらい)が一番面白かったですね。虫垂炎の術後にそれは、反則だと思います。という私も高校生のころ、虫垂炎術後の弟のお見舞いでギャグを連発し、弟がとうとう怒り出してしまったことを覚えています(悪い兄です)。
個人的には、あの時代のジャンプは、一つの「黄金期」だったと思います。
作者からの返信
私も昭和時代のこち亀が好きです。東京の下町の様子がそのままです。
秋葉原に米兵が電化製品を買いにきたりする場面があったり、懐かしい東京の姿が書いてあります
第27話 BMWは六本木のカローラへの応援コメント
私の弟も、広島へ戻ってからは、ずっとVWです。
作者からの返信
私はホントはVWが好きなのですが、妻が維持費というので、VWを新潟で扱っているディーラーがダイハツを扱っているので、ディーラーとのつながりでダイハツを妻用に買っています。
私は妻が昔から関係あった日産に乗っています
第26話 少年ジャンプは定番への応援コメント
失礼します。
ガキの頃故兄貴が時折買っていた影響でショーヨンから自分で買って読み始めました。奇妙な冒険が始まる前ぐらいからなので連載陣もまさに黄金期!
家には兄貴どもしかいなかったためか少女漫画読むのは少し抵抗がありました。繊細過ぎる線が受け付けないというか。
にしても手術後にこち亀はキツいww回によっては大人になって読んでも抱腹絶倒ものがあるし。
作者からの返信
あの時代のジャンプは本当に黄金期でしたね。
ドクター・マシリトが編集長の時代です
たしか、こち亀で開腹した入院患者に両さんが落語を聴かせるという場面がありました。オヤジはわざとやったのかとw
第26話 少年ジャンプは定番への応援コメント
ジャンプコミックは、こち亀でした。その前は、ドクタースランプもジャンプでしたね。読まなかったですが、鬼滅の刃も・・・!
作者からの返信
私は1990年前までなので、最近はよくわからないですね。大学の時にマガジンを読んでた時があります。たしか「カメレオン」を読みたかったので
第20話 そして横道へへの応援コメント
ジュリアナに行ったのは92年くらいで、その時はすでに「変な人(わかります? この「変」の意味)」が多くて、つれてってくれた人が「前はこんなじゃなかった」って言ってた気がするんですが、記憶違いですかね……? もしかしてマハラジャだったのかな……でもマハラジャのが後だったような……。じゃあ、いつ行ったんだろ……自分が怖い。
作者からの返信
マハラジャの全盛期はちょっと前だと思います。
92年はジュリアナかな?
芝浦の方ですよね
ちょっと後に神楽坂のツィンスターとかありますが、こっちでパラパラを踊っていたとか?
第13話 任天堂ゲームウォッチ・ポパイへの応援コメント
晁衡さんって同年代な気がするんですけど、世界が全然違うの。すごく不思議。
作者からの返信
うーん、多分同年代のような気がします。
世界が違うってなんでしょ?w
第24話 原付バイクの思い出への応援コメント
小学校高学年の時、母のホンダカブで運転を学びました。田舎で、無免許でも捕まらなかったので。高校生になって単車の免許を取り、ヤマハのRDで通ってました。そぼ頃は、バイクの免許に大型とかの区別はない時期で、大きなバイクで事故に巻き込まれた同級生や友人が3人もなくなりました。
弟は、東京に住んでいる間、車を買うと駐車場代だけで物凄い費用がかかるので、バイクを2台に原付一台所有してました。今は故郷に母と住んでますが、原付は家に二台あります。軽トラも2台あります。弟、弟の妻と母の3人が車一台づつに軽トラ二台の家族ですが、田舎では珍しくないですね。
作者からの返信
私が免許を取る時は、中型限定を取りそして限定解除を取る時代でした。
イナカでは原付バイクは必需品でどの家にもあったと思います。
まだヘルメット不要でした。
私のイナカは耕運機トレーラー(小型特殊)がデフォルトで、その後に軽トラックを買ったようです。軽トラは便利ですが、2人乗りなので、別に軽自動車を持ってます
第13話 任天堂ゲームウォッチ・ポパイへの応援コメント
懐かしいです。
ドンキーコングは2面クリアするのがやっとでした。
それ以上の景色は見れませんでした。子供は凄いな、と思いました。
作者からの返信
私もああいうゲームはすぐやられました。
アクションゲームは苦手のようです
第23話 懐かしの江戸川橋への応援コメント
江戸川橋、見たこと無いです、浅草に行ったときに、両国橋を見たくらいです、あと、勝鬨橋も1回観ました。
作者からの返信
江戸川橋は橋らしいものはあるのですが、地下鉄の駅の名前です。
浅草や隅田川と方向も違い、皇居の北西側です
第23話 懐かしの江戸川橋への応援コメント
江戸川橋、10年ほど前に銭湯巡りをしているときに何度か訪れました。その時訪れた銭湯はもうなくなってしまいました。早稲田近くの印刷所も、毎月一度ミニコミ誌の印刷でお世話になっていた時期があります。
作者からの返信
ありがとうございます。あのあたりはたくさん小さな印刷所がありましたね。銭湯もなくなり、早稲田通の書店もだいぶなくなりました
残念です
編集済
第22話 懐かしの京王の電車への応援コメント
渋谷から二子玉川までの玉川線が路面電車で、三軒茶屋で分岐する形、そうだったんですね、知りませんでした。京王線の調布から先の京王相模原線が開通するまでは、多摩川を船で渡っていたそうです。
私鉄ではのんびりした感じの京王井の頭線が一番好きです。車両の前面にパステルカラー(ピンク、水色、黄緑)の色がついていました。
明治大学があるので、明大前ですね(^_^;)
校歌が流れています。
作者からの返信
私が学生になるころ、中央大学が移転した記憶があり、あと帝京大学とか、成城学園までバスがあったり、文京地区ですよね。
昔の井の頭線はステンレスにパステルカラーのお面でした。
クリーム色にマルーンのラインが入った車両から、7000系あたりからステンレスになってきた感じです。
京王線も路面電車時代があり、地下になった新宿から笹塚まで線路跡がまだ残っています。
小田急は私が学生の時は地上を走っていましたが、今は地下鉄ですね
第22話 懐かしの京王の電車への応援コメント
前にも書きましたが、弟が下高井戸駅の近くに住んでいました。甲州街道(?)の高速に面したアパートでした。防音が良いと自慢してました。渋谷まで路面電車に乗ったこともありました。
作者からの返信
甲州街道で間違いないと思います。
下高井戸から直通の路面電車はかなり前でしょうか?
私が大学生の頃は、新玉川線になっていて、地下鉄でした。
調べたら1977年頃に頃に路面電車から新玉川線になったようで記憶が定かでなかったです。路面電車直通は1970年代でしょうか
第21話 学生アルバイトへの応援コメント
一度、塾講師のアルバイトをしましたが、時給は忘れてしまいました。そんなに高くはなかったです。1000円するか、しないかぐらいだったと思います。
私は自宅から通学、地元はあまりお金持ちではない地域、近所の人たちのネットワークはしっかりしている所だったので、母から何度か「ロハ」の家庭教師をお願いされたことがありました。いろいろとお世話になっているお宅だったので、「まぁ、しょうがないか」と思いながら、もちろん生徒も顔見知りなので、教材費などは持ち出しで勉強を教えていました。いわゆる、「近所のお兄ちゃん」が勉強を教えてくれる、という状態です。
母が、「ロハ」の家庭教師をぶっこんでくるおかげで、自分自身のアルバイト時間が削れてしまい、貧乏学生でした。主な収入源は、長期休みに継父の職場で、継父たちと「引っ越し」のアルバイトをしたり、お歳暮の時期に「宅急便」の配送基地で、荷物を航空用コンテナに積み替える、などの「ガテン系」の仕事で稼いでいました(もともとヤサ男だったはずなのですが?)。「贅肉を給料に変えるぞ!」と自分に言い聞かせて働いていたことを覚えています。
それも今となっては良い経験だったと思っています。
作者からの返信
ありがとうございます。
私の住んでいた調布市神代地区の南側には成城の住宅地があり芸能人野球選手も住む田園調布と双璧の日本一のお金持ち地域でした。
そういう人は京王線に東大生がいるので募集するワケですが、家庭教師もソレなりの人を雇うので私の入る余地はありません(苦笑)
この出版社の仕事が気に入ったので、学生時代はずっとそれで、他は大学入試の監視員をやったくらいです。
大学入試はたくさん監視員が必要なので、ほぼ動員でした
第21話 学生アルバイトへの応援コメント
アルダス・ページメーカー、懐かしいです。大学の書類(日本大学にはありすぎました)を作成するのに使ってました。プロ並みの使い方ではなかったのですが、書類地獄日本では助かりました。
作者からの返信
ありがとうございます。
覚えている方がいらっしゃって嬉しいです。
もう知っている人も少ない。かなり高額なソフトウェアでした。
現在はマニュアルに特化したアドビ・フレームメーカーやインデザインに変わっていますが、私は論文にフレームメーカーを使いました。
目次、索引機能など論文を書くのに便利でした
第20話 そして横道へへの応援コメント
実は、私は学部から米国でした。博士を取得して少しの間大手コンピュータ会社の基礎研で経験を積んだ後に、日本の国立大学へ赴任しました。バブル崩壊後でした。そこで、経験した事を日記/エッセイとかして書いています。日本の大学については、米国と異なる事が多く、まさにカルチャーショックでした。日本では卒論があるというのにとても驚きました。米国では、ほぼありません。この卒論の時、国立と私立に差が出ます。早稲田大学で物理の教授をしていた友人が、新任で、助手もいない時に、卒論の学生が10人以上いると言ってました。国立、特に旧帝大だと、卒論の為に配属される学生は4〜5人、その頃は、臨時で定員が増していたので、6〜7人でした。国立では、教授と助教授の他に助手が1人、中には2人もいた研究室も多かったです。そして、院生も多く、教授が直接指導するのではなく、先輩とスタッフ達が研究の指導をする為、卒論研究で物凄く鍛えられるのでした。早稲田の友人は、そいういう研究体制は無理なので、院に進む希望のある学生にだけ、実験させて、就職希望の学生は、文献をまとめる様な卒論になってしまったと言っていました。その後、助手を雇い、院生の数も増えた、実験をする卒論数を増やしたが、国立、特に旧帝大レベルのケアができないと嘆いていました。国立では、入学後、3年間遊んでいた学生を、就職前に叩き直すという設定でした。だからと言って、私立出のエンジニアが優れていないかというわけでもなかったと思います。会社には会社の人材を磨く制度がありましたし。
日本の国立大学は、この卒論で、社会に出る前の学生を鍛えているのだと実感しました。あのバブルの始まりは、そんな理工系(公立も私立も含めて)の卒業生達が頑張って作った日本製品が売れすぎて起こったと、私は認識しています。その金を泡にしたのが、(特に大蔵省の)文系と、工学部の教授達は思っていました。日本の経済学者がノーベル賞候補にもなっていないのを見れば、良くわかると言ってました。そして、大蔵省は、経済学部ではなく、法学部出身者が幅を効かせる省庁って、どうなのかと、私は思ってました。
米国ではこれが逆転して、私立の方が定員が低いので、個人的な対応をしてくれます。それでも、卒論はないですが。
作者からの返信
私は国立も私立も経験しているので、指導教官の状況はその通りだと思います。
日本だと、私立と国立の学費の差はそれほどありません。
アメリカの私立工科大は、日本の私立医学部と大して変わらない学費になります(ただアメリカは奨学金制度で実質減免になるようですが)
日本のエンジニアは圧倒的に国立出身が多いと思いますが、私の高校の同級生で私立工学部から某T大准教授、今は別の国立大教授になった人もいるので入り口は様々、本人の努力次第というところです。
大蔵省財務省が法律系というのはワケがあり、旧国家一種試験、採用が法学部有利になっており、私の時代は「東大法学部にあらずんば人にあらず」というのがキャリアの世界でした。今年の大蔵省の採用、京大1人であとは全員東大って感じです。
その国家一種試験の成績上位から大蔵(財務省)、自治(現総務省)と採用されたのです。経済系は経産省など採用される省庁が限られていました。
東大は官僚予備校だったのです。
経済でなく、経理というのが大蔵省ですね。
現在はそういう状況になく、嵐の櫻井君のお父さんは慶應ですが、もと郵政なので時代は変わったと思いました。私の時代、自治省優位の時代から隔世の感があります
第20話 そして横道へへの応援コメント
バブルの真っ最中は、「私立文系」が人気だったように記憶しています。「国公立理系」なんて、「ダサい」の代名詞、みたいな時代に高校生活を過ごし、「国公立理系」に進みました。今のように「理系」の人々が大切にされる時代が来るとは、隔世の感があります。
親からは「自宅から通える国公立大学」という無言の圧力を受けながら、何とかうまく乗り切りました。
貧乏で忙しい大学生だったので、「遊び」にお金を使うことはとんとありませんでした。そのころはバイク屋さんをしていた伯父から、「走らなくなった3台のJOGから、使えるパーツを調達して一台にまとめた、3万円のJOG」を相棒に、通学したり、ウロウロしたりしていました。
華やかでお金に余裕のある学生生活、うらやましかったです。
作者からの返信
え、それは意外です。
どちらかといえば、学校で一番頭の良い群は「国立理系」でした。
文系でも「国立文系」が一番手で、私立文系は「数学が出来ない」とか散々な言われようでした。
センター入試が始まった前後なので、私立でもセンター参加大学が少なく、私立文系は数学の入試を行わない大学がほとんどだったと覚えています。
ですので、今でも国立理系の人は尊敬しています。
私の時代は第二次ベビーブーマーで受験者人口が急増したので、
例えば、早稲田大学の文系の問題は、東大文科一類よりも難易度が高いという状況になりました。ですので、文系科目に自信がなくて数学が出来れば「東大文一」となるのですが、実際には早稲田政経の友人に聞いたら「ほんとは東大志望」という生徒が半数くらいいたそうです。
私も、親の金銭管理は厳しく「学問の金は出すけど、遊ぶ金は出さない」という感じだったので、華やかな学生生活ではなかったです。
アルバイトで稼いだお金で、ささやかにコンパや友達と飲むのが精一杯で、奨学金を足して、「月を越す金を持てない」状態でした。
第11話 短い運命だった「邦文(漢字)タイプライター」への応援コメント
邦文タイプライターは難しそうですね。
友人がタイピストとして活躍していたのを、大いに尊敬しました。
英文タイプライターは学校で必要だからと、無理を言って買ってもらいました。
打つのに指に力がいるので、私はすぐ練習が嫌いになり、親に無駄金を使わせることになりました。
ワープロに触った時、なんて軽いタッチと驚きました。
画面が赤だったような、目に悪いんじゃないかと思った記憶があるのですが・・
作者からの返信
邦文タイプは扱いが大変でした。一文字一文字打つのに時間がかかり、そのころから簡単なワープロが出てきたためあっという間に廃れたと思います。
ワープロ、たしかにオレンジのような画面はあったような?
主に液晶だったのを覚えていますが……
第9話 ガリ版印刷と青焼きコピーへの応援コメント
ガリ版印刷、懐かしいです。
私も鉄筆を使ってガリガリ書いた覚えがあります。
同じところを何度も失敗して、ついに穴を開けてしまったこともありました。
子供にガリ版印刷、鉄筆、わら半紙などと言っても何のこと?と言われます。
今の何でも印刷できて、しかもカラーで綺麗で、とまるで嘘みたいな時代でした。
建築や土木などの図面は、確かに青い色をしていましたね。
ものごとを青写真から始めるという言い方をしますが、ここからきたのでしょうか、とふと思いました。
作者からの返信
小学校の漢字のかきとり、算数の問題はわら半紙にガリ版だった記憶があります。
青焼きはうす水色でしたね。
第8話 東京の市内局番4ケタになるへの応援コメント
我が家はずっと東京です。
近所の酒屋さんからもらった壁掛け用の温度計が、今でも使われています。
宣伝用に配ったものなのか、酒屋の名前と電話番号が書かれてあります。
ずいぶんと昔にもらったものらしく、よく見ると電話番号が3桁です。
今は頭に3がつき4桁です。
そういえば50年以上も前、学生時代にお世話になった下宿のお宅の電話番号を、いまだに覚えていますが、〇98-6〇28。当然3桁ですよね、懐かしいです。
第19話 秋葉原の思い出(ソフトを買って帰るという苦行)・その3への応援コメント
私の院生の時代(80年代)は、PCの出た後でも、多くの研究者達は、DEC社のメインフレームを使って大規模な計算をしてました。そのOSの取説が、大きなバインダー20〜30冊分くらいあったと思います。知り合いの化学の博士課程にいた学生は、博士論文を書き終えないで、ダラダラしていたら、このDECのOSに強いという理由で、コンピューターの管理職になってしまいました。あの取説は、必要になり、時々読んでましたが、読んでいると腹が立ってしまう様な面倒な書き方でした。
作者からの返信
マニュアルは当時重たかったですよね。
LOTUS1-2-3の関数の説明も冊子でしたし。
オフィススイートはワープロからいろいろ付いてきて、結局、見るのは関数とかその程度
でも、そのマニュアルを作製する出版社にいたので、「こんなの読まない」とは言えませんが…
第18話 秋葉原の思い出(1990年代初め)・その2への応援コメント
私は小学校~中学校時代は、「I/O」と、「マイコン」を購読していました。時にベーシックマガジンを買ったりしていたことを覚えています。ベーシックマガジンは「ベーマガ」と略していました。
高校3年生の時、理系だった私は化学の勉強で周期表を暗記していましたが、「アルカリ土類金属」と呼ばれる原子(ベリリウム(Be)、マグネシウム(Mg)、カルシウム(Ca)、ストロンチウム(Sr)、バリウム(Ba)、ラジウム(Ra))の語呂合わせで、「ベーマガ、(印刷が)かすれて、バラバラ」と覚えていました。我ながらよくできたごろだと一人悦に入っていたことを覚えています。
作者からの返信
ありがとうございます。電波新聞社の「マイコン」は分厚い電話帳みたいな雑誌で半分くらいが広告でした。その広告欄で秋葉原のショップの値段の相場を見ていました。
「I/O」は現在も発刊されていて、ラズベリーパイの工作など記事があるようです。息子も手をだしているので、この雑誌は親子二代ですね。
「子供の科学」はあまり興味がなかったようですが……
元素の周期表、それはよく思いつきましたね。水平リーベ以降は表で覚えていたような記憶があります
第17話 秋葉原の思い出(1990年前後)その1への応援コメント
その頃、弟が京王・井の頭線の下高井戸駅近くに住んでいました。
その頃の秋葉原の一番の印象は、違法ソフトが詰まったCDを売っている路上販売でした。呼び子みたいなのに案内されて、裏の通りへ行くという商法でした。
前回のメッセージへの返信にあった入門書のお仕事についてですが、米国から帰国して遭遇した日本の入門書の数と出来の良さには本当に驚きました。フォートランでずっと計算とシミュレーションをやっていたのですが、マックと相性が悪かったので、Cでも学んで見ようかと思っていました。The C Programming Languageを英語で読み終えていたのですが、日本語の入門書を購入して学んでいきました。コンパイラー付きで、英語のオリジナルなんかに比べられないくらい学び易い本でした。
作者からの返信
ありがとうございます。
裏ソフトありましたね。でもインチキくさくて手を出しませんでしたが。
Mac用のC言語 プログラミング用の「Think C」を覚えている人が少ないのです。1990年頃のMacのユーザー自体が多くなく、さらにC言語でプログラミングをする人口も限られていたと思います(だいたい出版業、デザイン、音楽だったと思います)。日本語のwikipediaの解説はありません。英語のみです。
ソースコードを綺麗に本にレイアウトするのは苦労しました。
変な場所で改行したりできないわけですから。
ただ、それでも「分かりにくい」という苦情がくるのですけど…
第17話 秋葉原の思い出(1990年前後)その1への応援コメント
当方は関西人なので、日本橋のでんでんタウンに時々出かけていました。80年代~90年代初頭までは、純粋に「電器店街」でしたね。今の有り様が想像できませんでした、というか、今の秋葉原や日本橋を見て、あの頃の有り様を創造することもできません、というのが正しそうです。
FM-NEW7は高校生のころには使わなくなり、大学の卒論は研究室のPC9801で、一太郎を使って作成、5インチフロッピーに保存しました。大学院時代に、親友からLC525(CPUは68LC030)を4万円で譲ってもらい、それから医学部卒業までMac使いになりました。
PCでCDの音楽を聴くことができる、というのも、私にとっては驚きでした。数年前まではFM音源もなく、ビープ音をマシン語でコントロールしてメロディーを作る、とか、3オクターブ、3和音のサウンドボードが当たり前だったので、技術の進歩に大変驚いたことを覚えています。
作者からの返信
私は学生時代は、ヒマさえあれば、渋谷→秋葉原→渋谷→秋葉原でした。
まれに(神田神保町)
本文で書いたとおり、地下鉄代120円→140円というそのくらいの時代でしたので、気軽に出かけられる町でした。
私は仕事はMac、プライベートはPC-98互換機という世の中の人とは逆転した生活でした。
ただ、Macを使うと音楽とかグラフィック、そしてアイディアとか、やはりアメリカという国は何歩も進んでいる国だと思い知ったことが大きかったです。
職場の社長のMacのエラーのビープ音にイタズラで「ちびまる子ちゃん」の声を仕込んで怒られたことあります(笑)
「ぴーひゃら、ぴーひゃら」とちびまる子ちゃんの声でエラー音が出て「誰だこれをやったヤツは!」と
第16話 ゲームソフト隆盛期への応援コメント
XEVIUS、初めて見たときは、そのグラフィックの3次元感と、未来感に驚愕したことを覚えています。私の中では、インベーダー/パックマン時代と一線を画すゲームだと思ったことを覚えています。
SE/30、スタイルが良かったですね。あの筐体に、今のチップセットで魔改造を施すことができれば、今でも使いたい筐体です。シムシティも面白かったですね。シムシティ2000がゲームとしては一番だったと思っています。
90年代中頃だったと思いますが、Macのゲームで脳外科手術のシミュレーションゲームがあったことを覚えています。名前を忘れてしまって検索のしようもないのですが、私が医学生になる前に遊んでいたので、患者さんがことごとく亡くなっていきました。
アダルト系のゲーム、うまい具合に男性のツボを突いてきて、「もうちょっと、もうちょっと」となってしまいましたね。
作者からの返信
>90年代中頃だったと思いますが、Macのゲームで脳外科手術のシミュレーションゲーム
あ、それやったことあります。たしか慶應の理工の子がもっていました
ずばり「Surgeon」じゃなかったですか?
私はすぐに失敗していましたが、彼は上手だった覚えがあります。
第17話 秋葉原の思い出(1990年前後)その1への応援コメント
ウー!、秋葉原行ったこと無いです。悲惨な事件があったことぐらいしか。大阪で日本橋に当たる場所でしょう。でんでんタウン!
作者からの返信
大阪では「にっぽんばし」ですよね。
そういう感じです。
今の秋葉原は昔の電気街の面影はほとんど無くなりましたが、裏通りにはまだ電機屋さんがたくさんあります。
第15話 つくば科学万博の思い出への応援コメント
私もpostー大阪万博世代なので、「万博」と言えば「つくば万博」です。関西では、神戸市が作った人工島「ポートアイランド」で「ポートピア81」もそのころにありました。どちらも行けなかったのはとても残念です。特に、関西からつくば、遠かったです。
PC-100 覚えています。「マウス」が何をするものなのか、当時は全然イメージがつかなかったことを覚えています。コマンド入力が主流の時代に「マウス」、アンマッチですね。当時初代Macintoshが出たころだと思いますが、MacならGUIなので、マウスが必須です。そういうことが後になって分かりました。
作者からの返信
あ、思い出しました。
ポートピアありましたね!
「ポートピア~」という歌はゴダイゴでしたっけ。なぜか覚えています。
GUIは1985年当時は構想としてあったと思いますが、PC-100はまだ時代と機能的には早かったわけですね。
ネズミのキャラクターで「マウス付き」という広告を覚えています。
第16話 ゲームソフト隆盛期への応援コメント
失礼します。
信長の野望、後作ですがゲームを貸し借りしていたダチ同士でやりました。ダチの一人が「竹中半兵衛に裏切られた」と言ってたので逆に忠誠度を上げまくると勝手に進軍してくれる始末ww
興味を持って読んだ小説では笹沢佐保氏の著作が面白かった。
ゲーセンでアダルト、普通に置いてたけど人前でやるには勇気が足りなかったww
作者からの返信
ああ、竹中半兵衛ということは後のバージョンですね。
一番最初は織田信長と武田信玄しか選択できず、全国版では全国の武将が選択出来るようになりました。
蝦夷地の蠣崎はどうやって勝てと!いう設定で北海道の人は残念でしたね
北条や上杉は人気ありました
アダルトコーナーは平気のへの字で入っていきましたw
第16話 ゲームソフト隆盛期への応援コメント
マッキントッシュSE/30
これとマッキントッシュIIシリーズで博士論文書きました。いまでも古いクラシック持ってますが、起動しません。
作者からの返信
ありがとうございます
SE/30はSEの上位機種
MacIIが当時90年最初は一般的で、私が出版社で使っていたのもこの三つです。
私はレイアウトや簡単なイラストを作成したのでMacIIを使うことが多かったです。
円高になって安くなった覚えがあります
私はThinkCの解説本とか作りました
第15話 つくば科学万博の思い出への応援コメント
つくば市には多くの国立公園研究所がありますが、私がよく行ったのは、産総研(AIST、産業技術総合研究所)とNIMS(物質・材料研究機構)です。
https://www.city.tsukuba.lg.jp/soshikikarasagasu/seisakuinnovationbusmartcitysenryakuka/gyomuannai/2/2/1001878.html
AISTは昔は電総研と言われて、80年代後半から90年代初期までは、莫大な研究費を誇っていました。
作者からの返信
みんなつくば万博の会場跡地ですね
ソ連館は残っているのを、さっきwikiで知りました
第15話 つくば科学万博の思い出への応援コメント
つくば万博行けなかったです。行った万博は、大阪国際花と緑の博覧会、愛地球博、海と島の博覧会・広島、天王寺博。70年生まれなので、大阪万博行けなかったです。
作者からの返信
大阪万博、沖縄海洋博は私が生まれた頃で行けない時期で、他は遠くということで行けませんでした。
つくば万博しか行ったことが無いかも?
第14話 分解、それは男子の浪漫への応援コメント
1990年代に、現役を終えた、🎥ビデオカメラ(マックロード、ムービー)を分解しました、CCD等を取り出した記憶があります。
作者からの返信
この頃の機器は電子化が進んで、仕組みがすぐに分からなくなってきますよね😱
第14話 分解、それは男子の浪漫への応援コメント
うわ~私もガキの頃よくやりました。
もっともPCではなく動かなくなった置時計ぐらいですが。中で秒針の抜けたヤツを直して親に誉められて有頂天でしたww
昔は禁忌だったPC分解なんて今では日常茶飯事、HDDの交換やメモリ増設にPCI接続なんていちいち業者にやってもらったらお金がどんどん吹き飛びますから。その代わりハードの相性が合わず失敗するリスクも付き物ですがww
作者からの返信
パーツが壊れたり、陳腐化したり、不具合だったらネットオークションで中古を探して交換できるんですから、この点は良い世の中になりましたね
第13話 任天堂ゲームウォッチ・ポパイへの応援コメント
ゲームウォッチの「ポパイ」なら、ワイドスクリーンですね。すこしバージョンアップしたものだと思います。最初に出たのは、「ジャッジ」、「ボール」、「ファイア」と何かもう一つだったと記憶しています。
マリオが最初に出たのはおっしゃる通り、「ドンキーコング」だと私も記憶しています。
昭和50年代のゲームセンターは、まだのどかな時代で、小学生が小銭を持って行っても遊べる空間でした。「ハイパーオリンピック」も覚えています。100m走など、走るときは左右のボタンを交互に押す(叩く)ことが必要で、そのリズムが速いほど、ランナーが速く走りました。なのでいろいろな裏技があり、「弾力のあるプラスティック物差しを使って走る方法」や、エレキギターの速弾きのように、「コインでボタンのところを左右に高速でこする」、なんてことをする人もいました。ゲーム機のボタン回り、金属むき出しになっていたことを覚えています。
作者からの返信
覚えていらっしゃいましたか!
ポパイまでの記憶があまりなく、アニメキャラクターはこれが最初だったと思います。
ハイパーオリンピックは、ゲームセンターがコイン禁止にしましたね。懐かしいです
第13話 任天堂ゲームウォッチ・ポパイへの応援コメント
スーパーマリオ、スパルタンX等やってました。今はスィッチでゼルダの伝説に挑戦したものの、10分でゲームオーバー😭💦
作者からの返信
それは多分、ファミリーコンピュータ以降でしょうか?
第11話 短い運命だった「邦文(漢字)タイプライター」への応援コメント
タイプライター、実は見たこと無いです。ワープロ使ってました。
作者からの返信
英文用のオリベッティのタイプライターは、インテリア小物でたまに見かけますね
第10話 「ちょっと、これ焼いてきて」「はぁ?」への応援コメント
あっ!そう言えば、勤務先の印刷会社も、「版を焼く」と言ってました。今はCTPですが。
作者からの返信
私が出版社にいた頃はCTPはまだ発達しておらず、ライノトロンで版下を出力する方式でした。
CTPなら焼くですよね
オフセットなら刷るですけと
第5話 写ルンです?からAPSカメラへへの応援コメント
写るんです、よく使いました。パノラマなんかも有りました。今は、ビデオカメラにデジカメ機能がついて、写真も撮れます。
作者からの返信
写ルンです、は結構ピンボケで苦労しました!
第2話 レコードからテープへへの応援コメント
レーザーディスク💿️、今は、1枚残っています「名探偵コナン、時計仕掛けの摩天楼」を・・・!
作者からの返信
私が見たレーザーディスクは「ポセイドン・アドベンチャー」でした。
古いということがわかります(笑)
編集済
第12話 タイガー計算機、計算尺、電卓……8ビットパソコンへの応援コメント
亡父が工業高校卒なので、自宅に計算尺がありました。が、使い方を聞いたことがなかったので、私が使うことはありませんでした。
電卓の発展形のポケットPC、確か当時での一番人気はCASIOのPB-100(のちに110が出た)だったと記憶しています。シャープやNECも電卓発展型のPCを出していましたが、かなり高価(10万円台後半だった気が)で、PB-100は1~2万円程度だったと記憶しています。
安い理由はメモリにあります。PB100は「バイト」ではなく、「ステップ」と呼んでいましたが、ノーマルでは544ステップ(=544バイト)、拡張メモリが1024ステップ(=1Kバイト)で、トータルでも1.6Kバイトでした。
ベーシックマガジンにも、PB-100用のゲームは掲載されていたことを覚えています。愛用していたのですが、壊れたのか記憶は定かではありませんが、今は手元にありません。簡単にプログラムを組んで仕事をさせたいときに「PBがあればなぁ」と時々思います。
小学5年生の時に「ゲームセンターあらし」で有名なすがや みつる先生の「こんにちはマイコン」という本でBASICを覚えて以来、しばらくPCにはまっていました。小さなプログラムですが、ハンドアセンブルでマシン語で書いたりしていました(Z-80でも、6809でも)。
手回し式の機械式計算機は見たことがありませんが、幼稚園くらいのころのレジスターは電動式回転式計算機でした。「ガチャガチャガチャ…チーン!」と計算していたのを覚えています。
懐かしいです。
追記
調べてみました。NEC、シャープとも、4~5万円台で当初は発売していたようです。PB-100が出た後で、シャープからは廉価版で1万円台のものが発売されたようです。
もう少し性能の良い「ハンドヘルドPC」は10万円を超えていたようです。
「記憶」っていい加減なものですね。大変失礼いたしました。
作者からの返信
ありがとうございます。
私は計算尺は原理を習っただけで実際には使いませんでした。
私のプログラム出来る計算機は1万円前後のような感じでしたのでメーカーは記憶違いでしょうか?
ちょっと前に検診の医療機関がBMIを計算するのに使っていて、懐かしいと同時に今もあるのでは、と思いました。べき乗から複雑な関数も可能なので便利だったのです。
機械式レジは、たしか高価だったのでちょっと大きなお店で、駄菓子やさんとか、タバコ屋のお婆さんはそろばんで計算してました。
私が就職したてのころ、計算機で計算した結果を、算盤で検算する上司がいて驚愕した覚えが…
第12話 タイガー計算機、計算尺、電卓……8ビットパソコンへの応援コメント
IBMが、タイプライターの会社からコンピューターの会社へと発展していく間に、ホレリス式パンチカードを読み込む装置で業界を牛耳っていた時代がありました。ナチスがユダヤ人の記録を管理する為にも使われたそうでした。
計算尺は、私が1977年に米国の大学一年生になった時、上級生は未だ計算尺を胸ポケットに入れてキャンパスを歩き回っていました。工学部のオタクの印でした。私は念の為という感じです教えられるました。そして、一年後、フォートランのコースをパンチカードを使って受けました。この大学で、パンチカードを使って教えられた最後のコースでした。その後は、Decwriterに取って変わりました。
https://www.flickr.com/photos/92983281@N04/28558352701
期末試験の後、学生が捨てた大量のパンチカードが工学部キャンパスに散らばっているのも見なくなりました(笑)。
作者からの返信
ありがとうございます。パンチカードの話は後で記事にしょうかと
旧日本海軍は弾道計算を機械式計算機や関数早見表(冊子にあらかじめ計算結果されたものが記載されている)
を使っていたようですね。
戦線から機械式計算機は使われ昭和40年代まで使われました。
エニアックは弾道計算の為に開発されましたね
マイクロチップは、日本の計算機メーカーのビジコンがインテルに派遣した島正利が4004を設計するまで登場せずそれまでの電卓は、たくさんのトランジスタや:ICが詰まっていました。
子供の時、高額な電卓をコッソリと分解して中をみた覚えがあります(笑)
編集済
第12話 タイガー計算機、計算尺、電卓……8ビットパソコンへの応援コメント
懐かしい話に釣られてまた失礼致します。
パソコン、私はMSX所持者でした。小3の時に「家庭計算機」を買ってもらうハズが電機屋の陰謀により購入を勧められましたww
プログラムの保存は上位機種手に入れるまではテープを使ってました。ベーマガも懐かしいですがよく購入していた雑誌は某FAN。一画面プログラムがサクサク打てたので重宝していました。
ちなみに当時クラスにいたMSX所持者は頭のデキがハンパではなく、小3で「プロック崩し(ボールが上に行けば行くほどバーが狭くなるルール付き)」を自作するツワモノもいました。
PS.
>ベーマガは、なんと回し読みしてました(笑)
それは思いつかなかった!皆、家庭計算機でしたのでww
作者からの返信
ベーマガは、なんと回し読みしてました(笑)
だって、私はシャープ、友達はNEC、東芝とかみんなメーカーが違うんですもの
なぜか私だけスピンアウトして文系になりましたが、あとのみんなは大学の教授とか、親方日の丸の通信会社とかで偉くなってます
第11話 短い運命だった「邦文(漢字)タイプライター」への応援コメント
邦文タイプライターは就職直後、職場で初めて使いました。文字を掴んで紙に打ち付けるのが楽しかったです。
作者からの返信
えええええ・・・・
みなさんお若いというか・・
私、中学校生の時の記憶が・・・・・w
第11話 短い運命だった「邦文(漢字)タイプライター」への応援コメント
90年代初頭に帰国して働き始めた私が苦労したことの一つが日本語で文章を作成することでした。私はマック派だったので、日本でもマックを使っていました。98とか全く訳がわからなかったので、触りもしなかったです。DOSは少しコマンドを知ってました。本当に日本語変換には苦労しました。
作者からの返信
私は出版社でDTPでマックをずっと使っていて「バクダン(システムエラー)」で何度も作業原稿が吹っ飛んで、マックは触りたくもない(笑)
SE30で90-93頃ですか?
スマホはiPhoneは使いたくないし、アップル、マック嫌いなので、息子にはXperiaを与えました(笑)
日本語はずっと一太郎派、ATOKです
編集済
第11話 短い運命だった「邦文(漢字)タイプライター」への応援コメント
漢文タイプライター、話には聞いたことがありますが、実物は見たことがありません。
中学生くらいになると、当時の8ビットPCに「漢字ROM」をつけると、漢字が出せるようになりました。そこからPC用のワードプロセッサーが始まったように記憶しています。
当時はPC用品、何もかも高価で、漢字ROMは4万円くらい?フロッピーディスク(8インチ、5インチ)ドライブは30万くらいで、別途DISK-BASICが必要、どっとインパクトプリンタも30万円くらいしたように記憶しています。とてもじゃないが手が出ません。何とか父にねだって、FM-NEW7(富士通のFM-7後継機)、カラーディスプレイ、データレコーダー(カセットテープにデータ保存)を買ってもらった記憶があります。20万くらいしたでしょうか?
高い買い物をさせた、と思いますが、父もPCでマージャンをしていたので、その分罪悪感は軽減しました。
感熱リボンのワープロは大学生のころだったように記憶しています。数年でPC-9801の一太郎にとってかわられたように記憶しています。
ポケベルと同じように、ハードウェアとしてのワープロも活躍期間は短かったように思います。
ドットインパクト式プリンタは、今でも時々、複写用の用紙印字用に使われているのを見かけたり、感熱紙そのものはコンビニなどのレシートに使われていて、今でも現役だなぁ、と思います。
作者からの返信
ありがとうございます。FM-7でしたか!
私はシャープX1でした。データレコーダーが内蔵されていてベーシックコマンドで簡単に制御出来るので、コレにしました。
私はゲームで、私の父親はマージャンゲームをしていたのも同じですね。
本体が12万円くらいで、シャープだったのでディスプレイはテレビも映るものだったのでよかったです。
BASICの勉強になりましたが、一番役にたったのは、タイピングの練習になったことでした。懐かしいです。
後で記事にします
第10話 「ちょっと、これ焼いてきて」「はぁ?」への応援コメント
設計図のことを青写真と呼んでいて、別に建設が関係なくても、大まかなプラン(計画)を青写真と呼んでいたような気がします。
作者からの返信
それです。
青写真とは、青焼きコピー機で出力される複写が由来ですね
第10話 「ちょっと、これ焼いてきて」「はぁ?」への応援コメント
今も私たち世代に残っているといえば「巻き戻し」ですよね。若い人たちがそれをなんて言っているのかわかりませんが、カセットテープ、ビデオテープ時代の私たちには、おそらく共通認識では、と思っています。今では、「巻き戻し」ていませんものね(笑)。
「SOS」、モールス信号で特徴的なのでよく使われていますが、"Save Our Ship"が語源だ、なんて話もまことしやかに聞こえてきます。私自身は”Save Our Ship”説はある意味こじつけで、あの特徴的な信号が一番の理由だろうと思っています。
民放で、番組と番組の間に、短いニュースが流れますが、今では短い音楽(ジングル)とともに始まりますが、子供のころ、どの放送局か覚えていませんが、そのスポットニュース、「トトト、ツーツーツー、トトト」と、SOSのモールス信号がジングルになっていた記憶が残っています。
作者からの返信
ありがとうございます。今回は省略しましたが
カメラの「ストロボを焚く」
電気ライトの前は、マグネシウムを燃やして光源にしていた名残ですね
第9話 ガリ版印刷と青焼きコピーへの応援コメント
私は昭和50年代に小学校を過ごしましたが、印刷物は「ガリ版」ではなかったです。専用の用紙に「鉛筆」で文字を書いていました。
「わら半紙」は、私たちのところでは「ザラ半紙」と呼んでいました。ざらざらしていたからなのでしょう。
青焼きコピーは、私の記憶では小学校に上がる前から使っていたように記憶しています。父が、地域の自治会長をしていた関係で、市からの書類や図面を、「青焼きコピー機」のある会社にお願いしてコピー機を使わせてもらい、焼いていたこと、私が父にくっついて行ったので、その様子を断片的ですが覚えています。
この辺りの話は、1970年代にも絡んできますね。懐かしいです。
作者からの返信
ありがとうございます。
鉛筆で原稿用紙なら、リソグラフですね。
これは大量印刷を低コストで出来るので、現在でも現役です。
あとで書こうと思います
第9話 ガリ版印刷と青焼きコピーへの応援コメント
私が高校生の頃は小さな町に印刷屋がありました。町役場や小さな会社の報告書、時には学校の印刷物等を地元で印刷して製本していたのだと思います。一度、見学に行きましたが、よく覚えていません。グーテンベルク式の印刷機を使っていたと思いますが、活字の金具がたくさんあって、多くの女性が、その金具を並べていたのだけを覚えています。
作者からの返信
ホントに多数印刷するようなものは、たしかに活版印刷の業者に印刷を依頼していましたね。
もうほとんどないのではないでしょうか。
DTPは私が大学生のころから始まり、その黎明期に出版社にいました
第9話 ガリ版印刷と青焼きコピーへの応援コメント
ガリ版印刷懐かしー!機械を扱った事はなかったけど小学校の時はほとんどコレでした。わら半紙も学年末テスト以外は多様していました。
コピー機が文房具屋にてサービス始めた頃はまだ店主任せで1枚30~40円だったような?そこから一気にコンビニでセルフサービスになったのは劇的な速さでした。
作者からの返信
ありがとうございます
一枚一枚、版を作るので、文字を間違えると全部パーになるんです。修正液で直せるものはいいのですが、丸々一行抜けてるとかは書き直し。
ロウ紙をクシャクシャにして、クソーと言ってゴミ箱に叩きつけていました(笑)
でも、紙を大事に使えと先生から怒られて…
第8話 東京の市内局番4ケタになるへの応援コメント
都市圏に住んでいるのでわからないのですが、昔は市外局番5桁、という地域が多かったように思います。今はそういうところはどうなっているのでしょうか?
私の育った市は、同じ市内に2つの市外局番がありました。市そのものが小さなもの(周辺は30万人の市で囲まれているのに、私の市は8万人)で、市の郵便局ができたのも、警察署ができたのも小学生の頃でした。おそらく電話もそのような形で、市内のこの地域は「○○市」に近いからこの市外局番、別の地域は「△△市」に近いからこの市外局番、となっていたのだと思います。私の妻は市立中学の同級生ですが、別々の市外局番なので、電話代がお高めになっていました。
今でも状況は変わらず、市役所は二つの市外局番を持っています。
作者からの返信
私は近くの例しか知らないで申し訳ないのですが、東京都調布市は0424、吉祥寺などの武蔵野市三鷹市は0422など各市ごとに市街局番があるイメージが強くて、調布市で03になるような地区(調布市仙川地区の一部)は例外だったような覚えがあります
新潟県に来ると中心都市があって、長岡市とその周辺は0258、柏崎市とその周辺は0257など市郡で分かりやすい形です
市外局番5ケタ(市内局番一ケタ)があったというのは、郡部(西蒲原郡巻町)とかそういうイメージです。あとはかなり古い昭和40年代くらいまでだったか?ラーメン屋さんの古いドンブリで見るような感じです。
私の祖父の町は同じ市内局番内なら市内局番無しで電話を掛けられた時代がありました。
新潟市は、旧新津市(新潟市秋葉区)が中蒲原郡の中心都市で0250のままで、025への統合がかなり困難だと聞いています
第8話 東京の市内局番4ケタになるへの応援コメント
当方も市外局番三桁です。
作者からの返信
なぜだか魚沼のあたりも025の三桁になりましたが、新潟市内の025からは、市街局番省略で掛けられないのです。
不思議です。
長岡市や上越市などは市街局番4桁で、中核市クラスは4桁という逆転現象が起こっていますね
第7話 自家用車の話のつづき(カローラかスプリンターか)への応援コメント
懐かしい車名です。
そう言えば還暦を過ぎて免許を取った実母はカローラに乗っていました。
お付き合いをしていた頃夫はスプリンターでした。
いろいろ思い出させてもらいました。
ありがとうございました。
作者からの返信
有名な漫画、アニメの「イニシャルD」は「86トレノ」と言われますが「スプリンター」であることはなかなか知られてませんね
第7話 自家用車の話のつづき(カローラかスプリンターか)への応援コメント
私の子供のころの記憶に、「カローラ」の名前はあるのですが、「パブリカ」の名前はありません。「パブリカ」は、もっと昔の車名だと思っていました。
我が実家の車歴は、CVCCエンジンシビック→三菱ミニカ550cc→スバルドミンゴでした。ドミンゴ、ボタンを押せば4駆にもなって、1000ccなのに7人も乗れる、というなかなかの車でしたが、我が家の個体は購入当初からエンジンの不具合が続き、我が家でのスバルの評価は手厳しいものでした。18歳で免許を取っていれば、ギリギリドミンゴに間に合ったのですが、我が家には「免許は自分のお金で取る」というルールがあり、運転すること叶わず、でした。
実父が亡くなり、継父と生活するようになりましたが、継父はホンダ党で、そのあとはストリート(ホンダの軽1Box)→トゥデイ→キャパ→…と続いていきます。バイクの免許は自動車免許取得より安いので、先に中型二輪免許を取り、家族で移動するときは私はバイク、その他のメンバーは車で、という事になっていました。
トゥデイを乗っているころに実家を離れました。医学部生の時にようやく自動車免許を取り、実家で継父に横に乗ってもらって、キャパで運転の練習をしていました(普通免許取得後)。1代限りの車でしたが、キャパ、悪くない車だったと思います。
今の我が家の車、ソリオにも通じるところがあるように思います。
作者からの返信
ありがとうございます。
我が家はそんなものですが、新潟のじいさんの、軽トラの営農サンバーや、レックス、レオーネなど愛好者がたくさんで、どちらかと言えば、スバルは寒冷地向けの感じです。
新潟の役所は、スバルがかなり多く他県の人は驚きます。雪道の走破性ですね
第7話 自家用車の話のつづき(カローラかスプリンターか)への応援コメント
夫の家は親会社に出入りする都合上からか、ずっと日産の車でした。
私は車のことは分かりませんが、ブルーバードとかスカGとか乗っていました。
田舎娘の私は学生時代に乗せてもらった時、どの車かは知りませんが、グーンと加速する時に、なんだか気持ち悪い感じがしてイヤだなと感じました。
結婚後は仕事と関係なく、シビックやパジェロなどいろいろ。
でも何と言っても夫が一番好きなのは、日産のトラックでした。
会社がなくなってもトラックは大切にして、私はその助手席が大好きな場所でした。
免許返納で廃車にした時は、少し元気がなくかわいそうでした。いい思い出です。
作者からの返信
東京はやっぱり日産という感じですよね。神奈川に工場があり、関連企業も多いのです
第7話 自家用車の話のつづき(カローラかスプリンターか)への応援コメント
私の母の暴走は、中古のカローラレビン、多分一代目、からは時まりました。このクラスと年代の車では珍しいエアコンが付いてました。
作者からの返信
ウチはエアコンは大蔵大臣から却下されたようです
80年代ですね
第6話 自家用車の話への応援コメント
それぞれこだわりがあるのですね。
私の初車はスズキの真っ赤なアルトでした。
そう言えば好きだったなと思い出しました。
作者からの返信
私の妹がスズキのセルボモードでした。
後でフロンテの後継機種だと知りました
第6話 自家用車の話への応援コメント
途中から読んでしまったようで読み返しにいかないと。
第6話 自家用車の話への応援コメント
スズキフロンテ、懐かしいです。懐かしいですが、申し訳ないことに「かっこいい」と思ったことはありません。2ストロークだったとは知りませんでした。子供のころ、たくさん走っていたことを覚えています。
我が家は、おそらく父は免許を持っていたのだろうと思いますが、病気で入退院を繰り返しており、おそらく失効したのだと思っています。昭和50年代前半は、母が教習所に通っていたことを覚えています。私も小学校1年生くらいだったので、一緒に教習所に行き、教習生が「自己練習」をするために地下に置かれていた「運転席」のシミュレーター(ハンドル、クラッチ、ブレーキ、アクセル、コラムシフトがついていた)で遊んでいました。
我が家に初めて来たのは、CVCCエンジンを積んだ初代シビックでした。
ガソリンのシール、無鉛、有鉛と、「高速有鉛」のシール、覚えています。いつの間にかなくなりましたね。
懐かしいことを思い出しました。
作者からの返信
ありがとうございます。
我が家のフロンテは、水色だったか、スポーツタイプのクーペだったような気がします?
小さいながらよく覚えていて、ああいうドライブ感覚の車はもう無いですね
第3話 そういえば、アメリカのドラマをよく見てましたへの応援コメント
「大草原の小さな家」「奥様は魔女」などよく見ていました。
確かにアメリカのコメディ、観客の笑い声が入っていますね。
作者からの返信
「アーノルド坊やは人気者」で時々、猛烈なバカ笑いの声が入っていて、謎でした(笑)
ドリフ大爆笑以来、そういうものは見ないですね
第1話 レコードの記録への応援コメント
我が家にも小さい時には家具調のラジオと一体化したレコードプレーヤーがありました。
世界の映画コレクションのレコードは今でも家にあります。
懐かしいなぁ。
私が、初めて買ったレコードは、トワエモアの「誰もいない海」です。
第4話 タバコの記憶への応援コメント
バージニアスリム、懐かしいです。お姉様方が吸ってました。ぐぐってみたら、今はバージニア・エスって言うそうで…なんか違和感があります。
自分ではメンソールであろうとなかろうとタバコは結局おいしく思えなくて吸いませんでしたが、お酒はフライングしました(今や時効…笑)
作者からの返信
メンソールは女性向けで軽めのタバコだったのです。だから私に合っていたのかも?
第6話 自家用車の話への応援コメント
広島県出身で、父の従妹がマツダの社員と結婚していたので、我が家はマツダが多かったです。マツダは常に経済危機に陥っていた様にも思います。そうなると、ボーナスなしとか、出ても、それでマツダ車を買えとか無茶苦茶でした。この父の従妹夫妻はルーチェ2台所有していた時期が長ったです。そう言う事情で、私の母が初めて買った新車はロータリーエンジンのサバンナでした。4ドアで5速。せっかちな母は、普通の田舎道を100km/hを超えた速度で走ってました。
作者からの返信
我が家はあまりこだわりがなかったようです。
今は私はダイハツ(新潟ではゴルフ、アウディと同じディーラーでゴルフからダイハツになりました)
妻はなぜか日産一筋です。家族が日産に勤めていたようです。私より走り屋かもしれません
第38話 MDウォークマンとはなんぞや?への応援コメント
息子がMDをたくさん持ってましたが、米国ではあまり普及しておらず、一年して帰国した時に全部くれました。米国では、音楽用ではないのですが、記録媒体としてはZip Diskが流行っていました。それが死んだ後でも、Zipでバックアップする分析装置が残っていて、数年前まで、Zip Diskを使っていました。実は3、5インチのフロッピーがいまだに必要な装置も研究所にあります(笑)。
作者からの返信
あ、zipありましたね。日本ではあまり普及はせず、その頃は役所がMOを指定するようになっていたので