第38話 風通しのいい頭
ハルオのオリジナル魔法――「《風陣・零式──蒼牙(そうが)》」。
前世でこじらせた中二病が、魔法学園に来て二週間後にふたたび目を覚まし、
その後さらに二週間で彼を“開化”させた。
魔力のコツを理解して以来、ハルオの発想は留まるところを知らなかった。
ただし、魔法名と効果や威力に相関性はない。
ただかっこいい――それだけが命名の理由だった。
《風陣・零式──蒼牙》は、対象の周囲を魔力の結界で閉じ込め、
その内部の空気を排出して真空状態を作り出す。
真空化できる範囲は敵を中心に半径五メートル――グレートウルフを包み込むには十分だった。
致命的な欠点は、発動に時間を要すること。
さらに、敵に悟られずに空気を抜き取るという、繊細かつ危険な工程を伴う。
しかしハルオは、風魔法を乱流として散布し、風圧と魔力の流れで異変を覆い隠すことで克服していた。
砂煙が消え、音も消える。
風も、葉擦れの音も、何もかもが――途絶える。
グレートウルフが低く唸る。だがそれもすぐに掠れ、途切れた。
呼吸が奪われたのだ。
音も気配も存在しない、完全な“無音領域”。
(……これで動きを封じる。あとは――)
ハルオの掌が震えた。
魔力の消耗が激しく、意識が遠のいていく。
それでも、構わなかった。
「真空……理論上は、空気も熱も伝わらない。つまり――雷も封じられる。」
自分の声が届かない。
《風陣・零式──蒼牙》は、まさに“世界から空気と音を奪う魔法”だった。
そして、結界内では術者自身も呼吸を失う。
酸素が存在しない――真空の恐ろしさはただそれだけでない。
(……ここまで考えてなかったな)
思考が鈍り、視界が白む。鼓膜が圧に耐えきれず痛む。
血中の酸素が急速に減り、体の奥が焼けるように熱を持つ。
ハルオとグレートウルフが真空に晒された時間――わずか五秒。
だが、そのわずかな時間でも内部に取り残されたハルオとグレートウルフへの真空の影響は致命的だった。
わずか数秒で体内の圧力が外気との差に耐えきれず、血中に無数の気泡が生まれる。
肺は膨張し、呼吸のたびに胸郭が痙攣した。
体液が体温で沸騰し始め、皮膚の下で膨張する。
筋肉が震え、毛並みが逆立つ――まるで生物が“生きたまま沸騰”していくようだった。
蒼い火花が散る。だが空気がないため、雷は伝導できずに途切れる。
グレートウルフの体を覆っていた電撃は、炎のように消滅した。
その青い瞳がわずかに見開かれ、息苦しげに震える。
酸素を失い、体が硬直しながらも――そこには確かに、“恐れ”の色が宿っていた。
(もう無理か……!)
ハルオは右腕に魔力を集中させる。
短剣に風の刃が重なり、まるで光の槍のように伸びる。
「――《風牙・終式(フィニス)》!!」
空気のない空間で、ただ閃光だけが走った。
次の瞬間、結界が破れ、真空の刃がグレートウルフに向けて一気に流れ込み暴走する。
森が叫び声をあげるように揺れた。
吹き飛ばされたグレートウルフの巨体が地に叩きつけられる。
同じく、ハルオも膝から崩れ落ちた。
「……はぁっ…っ、ごほっ……やっ…た……」
視界がにじむ。
今のはほとんど自爆技だ。立ち上がろうとしても、足が言うことを聞かない。
魔力も気力も、もう残っていない。
グレートウルフは倒れ伏していた。
だが、わずかに胸が上下している。
その瞳だけが、まだ獲物を追うようにハルオを捉えている。
「……まだ生きてんのかよ」
呼吸すら苦しい中、舌打ちにもならない呻きが漏れる。
その時。
遠くの木立を揺らして声が届いた。
「――ハルオ! どこだ! 返事しろ!」
クレインだ。
焦りと必死さが混ざった声。
土の感触を背中に受けたまま、ハルオはかすかに笑った。
「無事…なら……それでいい……」
ゆっくりと瞼が落ちる。
戦いの余韻だけが、耳の奥で遠く響いていた。
そう呟き、意識が静かに闇に沈んでいった。
――どれほどの時間が経ったのか。
土の匂いと、冷たい風の感触が戻ってきたとき、ハルオはゆっくりと瞼を開いた。
ぼやけた視界の先に、木々の影と誰かの顔があった。
「……おい、やっと起きたか!」
クレインだった。
顔には泥がつき、息も荒い。それでも安堵の笑みを浮かべている。
「どれくらい……気を失ってた?」
「一時間くらいだ。マジで死んだかと思ったぞ!」
ハルオはゆっくりと体を起こし、周囲を見渡した。
森はひどく荒れていた。
木々は裂け、地面には風が削り取ったような円形の跡――まるで大地がえぐり取られたような跡が広がっている。
その中心に、まだグレートウルフがいた。
巨大な体を横たえ、静かに息をしてこちらを見つめている。
「……やっぱり手加減してたんだな。いや遊ばれてたのか?」
ハルオは小さく呟いた。
クレインが喉を鳴らした。
「いや、どっちが手加減してたのか微妙だけどな……お前のあの魔法、森ひとつ吹っ飛ばす勢いだったぞ」
「理屈は合ってた。でも……あれはまだ完成じゃない」
ハルオの声は穏やかだった。
「空気を抜いた時点で、俺も呼吸できない。あれじゃ使えない」
クレインはため息をつく。
「お前さ、命懸けで“研究”してんじゃねぇよ……」
ふと、グレートウルフが身じろぎした。
二人が構える前に、グレートウルフはゆっくりと頭を上げた。
その青い瞳が、まっすぐハルオを見つめる。
(……敵意はない?)
風が通り抜ける。
グレートウルフは一度、低く鳴いた。白
次の瞬間、銀白の毛並みが光に溶けるように消えていった。
残ったのは、淡く輝く蒼い毛束ひとつ。
クレインが呆然とつぶやく。
「……これ、グレートウルフの……しかも上位種!」
ハルオはそれを拾い上げ、魔法の袋に入れた。
「昇級ポイント、確定だな。しかも、上位種だ」
「ははっ……やったな」
ハルオは立ち上がり、深呼吸をした。
森の空気が、やけに澄んでいる。
「帰ろう。あとは報告だ」
クレインが頷く。
「……なぁハルオ」
「ん?」
「お前、いったい何者なんだ?」
ハルオは少しだけ笑って、空を見上げた。
「ただの冒険者あがりの学園生だよ。ちょっと“風通しのいい”頭してるだけさ」
そして二人は、夕焼けの森をあとにした。
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