第10話 星の下での約束

「うん、火曜。夕方頃だね」


身体に直接振動してくる低い声に起こされる。ベッドに寝転んだままで、ヒューゴがだれかと電話中だ。


「そう。さすが話が早いねケイ」


ああ、たしか諒子さんの彼氏の名前だな。


「リョウによろしく言っといて。何も持ってこなくていいから。じゃ」


ヒューゴは腕を伸ばして携帯を窓際においた。


「もっと喋っててよ。声が伝わって気持ちいいから」


おれが起きていることに気がついて無かったらしく、ヒューゴは一瞬固まって、「寝てろ」とぶっきらぼうに言う。でも少し照れた様子でそっとこめかみにキスをしてくれる。


「今日も晴れてるよ。泳ぎに行くかい?」


ヒューゴは寝転んだままでおれを胸に抱き寄せた。リクエスト通り、少し喋ってくれるようだ。


「そうだなぁ。行くとしたら川がいいかな、涼しそうだし。どこか知ってる?」


「ああ。子供の頃、毎年のように父がキャンプに連れて行ってくれた場所がある。小さな滝があって、いつも僕らしかいなくて、当時はとても涼しかったな。夜になると焚き火をして……。スモア、聞いたことがあるかもしれない。マシュマロを焼いてね、チョコレートと一緒にクラッカーで挟むんだ。父がホットサンドメーカーで焼いてくれるんだけど、それがとても重くて僕には持てなかった。

一度、父も僕もサンオイルを塗り忘れたことがある。2人とも大火傷しちゃってね。真っ赤になって服も着れないほど。帰宅したの時の母の叫び声がいまだに耳に残ってるよ。懐かしいな」


楽しそうな情景がありありと思い浮かんだ。

緑の木立に、きらめく水面に、滝から生み出される涼しく澄んだ空気……スモアか、食べてみたいな。それに、焚き火の爆ぜる音や川音を聞きながらヒューゴとゆっくりできたら……


「うちに寄ってよ。水着とか、取りに行かなきゃ」


「無理に出掛けなくてもいいんだよ?暑いからね」


おれの声に眠気を感じ取ったのか、ヒューゴが気を遣ってくれる。


「いや、おまえと自然の中でのんびりできたらって、考えてただけ」


「そうだな……1泊か2泊してもいいと思わないか?道具が足りなければ道中で買えばいい。うん。泳いで、ちょっと良い肉でBBQして、焚き火を見ながら酒を飲んで……」


おれは飛び起きた。なんて名案だヒューゴ。

「行くぞ!」


どうせ野営するんだからと、おれたちは最低限の身支度と、とにかく思いつく物をかき集めて駐車場へ降りた。


「ああっ、車のこと忘れてた」


駐車場全体に熱風が籠もっている。


「ロードバイクで行くより1000倍マシだろ。この車にも1つくらい夏のキャンプの思い出を残してやってくれ」


「本当に最後だぞ、夏に出掛けるのは」


そうヒューゴの車に言い聞かせ、熱湯のような車内で煮えながらおれのマンションへ向かう。

水着やら手持ちのソロキャンプ用のギアを適当に集め、残りは街道沿いにあるアウトドアショップで調達だ。

「夏なんて蚊帳とマットさえあればどうにでもなる」と野営大国スウェーデンからきた男に言われるが、地面が熱いことを考えて外国製の大きいコットを2つ購入する。


小物や消耗品を雑多にカートに入れていると、「あ、これだ」とヒューゴが調理器具コーナーで立ち止まり、周りの同じような商品より一回りほど大きいホットサンドメーカーを手に取った。

柄が長く、手持ち部分が木でできている。全く同じ、懐かしいな、と呟きながら眺めている。


どれどれ、とおれが手を出すと、ひょいと乗せてくれたが、衝撃に「うお」と声がでてしまう。腕が床に向かって下りるほどずっしり重い。


「……ここまで重いとは。焚き火の上でこれをホールドするのは辛い」


「もし僕がこれを扱えれば、透にかっこいいと思ってもらえるかもしれない」


「そうかもな。『ダディ』って呼んでやろうか?」


男らしさと言えば、と何気なく思いついてそう言うと、グッ、とヒューゴが喉を鳴らしてピタリと止まった。


「なに?」


「透君ねえ、外でそういうこと言わないの」


「なんでだよ」


「……後で説明する」


そう言うとヒューゴは鉄の塊のようなホットサンドメーカーをおれの手から取り上げて、ちょうど同じ場所に置いてあったジャンボマシュマロも一緒にカートへ追加した。


レジで会計をしながら店員さんに場所について尋ねると、ヒューゴが記憶している場所は、穴場として一部のソロキャンパーに知られている程度だそうだ。


「まだキャンプができることが分かってよかった」


食材の買い出しへ向かう車中でヒューゴがそう安堵した。


「もしダメでも、店の裏庭でいいじゃん。ビニールプールに浸かりながら酒を飲む」


「透はいつもいいことを思いつくね。それもやろう。初めてだよ、このクソ長い日本の夏を嬉しく思うの」


珍しく汚い言葉を使うほど毎年暑さに堪えているんだろう。


車は、モールに併設されている大型スーパーの駐車場へと進入する。


「ところで、さっきの『ダディ』ですが」とヒューゴが固い口調を作る。「透は、お父さんみたいな感じ、の意味で言ったのはわかる。でも、それだけの意味じゃないんだ。

恋人同士においては、場合によって——たとえばセックス中に相手のことをそう呼ぶんだよ。だから、透にそういうことを言われると……想像してしまいそうになる」


なるほどねぇ。スラングは難しいな。


「言われたこと、あるんだ?」


「まあ……僕はほら、主導権を握る側だからね」


「なのに、なんでおれにはそんなに奥手なの?」


「奥手?」ハッとヒューゴは笑い飛ばした。「僕がキミにどんなことをしたいと思ってるか、知らないだろ?」


「知ってる。おれ、ネットで調べたから」

ものすごくバカに聞こえることを言ってしまったが事実だ。


「へぇ」とヒューゴは目を細めて見つめてくる。「どう思った?」


「全部して欲しいと思った」


「う……ほんと勘弁して」


「おれにもそう呼んで欲しい?英語、ちゃんと練習しようかな」


「マジメな英語の練習ならいくらでも付き合うよ」


などと、あーだこーだ言いながら、おれたち2人とも楽しみに沸き立つ気持ちを隠さず早く早くと食材や酒を調達し、買ったばかりのクーラーボックスをいっぱいにした。


車はそこから1時間半ほどで山間へ、左手に川を見ながら曲がりくねったカーブを丁寧に進んで行く。


道路の舗装がなくなりしばらくすると、川の方へ下りる細い山道があるようだった。よほど注意していないと見落としてしまいそうなほど草木に覆われている。


「確かここから川へ出たと思う」とヒューゴはゆっくりと坂を下る。


何度もこいつの運転に頼っているが、よく道を覚えているし、どんなに混んだ駐車場でも自分の駐車場所を見失わない。


以前に秘訣を尋ねたことがあるが、『一度でも訪れると、自分が地球のどこにいるのかが衛星写真のように記憶されるだろ』と当たり前のことのように言われ、おれはその非常にアンドロイドな返答に爆笑してしまった覚えがある。

たぶん頭も相当良いんだろうな。


ガタガタと河原を進み、木陰に駐車する。


「一度降りて、場所を決めよう。昔と同じ場所が……」


「滝だ!」おれはヒューゴが言い終わらないうちに急いで車を降りる。


「気をつけろよ」との声を背後に、ごうごうと音が鳴る方へ駆け寄った。

側に寄ると、気化熱で澄んだ空気が冷ややかですがすがしい。


足を冷たい水にひたしていると、小魚が寄ってきて足首をつつく。

くすぐったさに笑い声を挙げていると、「場所決めたよ」とヒューゴが車の方から声を掛けてくる。手伝おう振り返るが、すでにタープなどの大物は運ばれており、あとは立てるだけのようだ。


タープには買ったばかりの2台のコットを並べ、端に置いたナイトテーブル代わりの薪木の上にランタンを乗せる。小さな寝室の完成だ。


「居心地よさそう」


おれが眺めながら言うとヒューゴは外から蚊帳を閉め、「初夜にちょうどいい」とこちらを向かずに言う。


「え!?今夜?外で?」


「初めてのキャンプの夜、って意味だ。でも、透が何を想像したのかあとで教えて」


くそ、今度はおれがからかわれたか。

ヒューゴの脛を軽く蹴る素振りをすると、「透のそういうところ、どうしようもなくかわいい」と呟き、手で両目を覆いながらクックックと笑っている。どんな顔して言ってるのか見てやりたい。


「泳ごうぜ。浮き輪買ってなかった?」


「その前に、焚き火の用意だ。すぐに火を起こせるようにしておかないと、身体が冷えるだろ」


おれは特大サイズの浮き輪を膨らますことに専念し、キャンプのあれこれはすべてヒューゴに任せることにした。


滝壺のあたりは深さはあるが流れは穏やかで、おれとヒューゴはそれぞれ浮き輪の上に座り、ビール片手にプカプカと涼風を楽しむ。


鼻から思いっきり息を吸い込むと、ただのビールが極上の味に変わる。自然は一番の調味料だとか聞いたことがあるが、本当にその通りだ。ここなら何も乗せていないクラッカーですら美味しく感じるだろう。


滝からの飛沫が虹を作っていて、黒い岩面とのコントラストが美しい。


少し離れたところで浮いているヒューゴは、同じようにボトルを片手にサングラスを掛けて、水面でボーッとしているだけなのに、まるで虹のミストシャワーを浴びている森の精霊のようだ。


「おまえ今、不良エルフってかんじ」


「不良ガイジンじゃなくてよかったよ」


そう言いながら空いている方の手をオール代わりにして、おれの方に寄ってくる。


「なあ、透」


「ん?」


「毎年来よう、2人で」


「大賛成」おれはビールのボトルを掲げてみせた。


ヒューゴがまた、おれの未来の予定を埋めてくれる。予定はこれからも少しずつ増えて、何年も何年も続いて行くことをおれは確信できる。


「好きだよ、ヒューゴ」


不良エルフは「浮き輪がジャマだ」と、座った体勢からドボンと勢いよく川に飛び込み、おれの浮き輪を掴んだ。


「沈む!」まだ中身が残るボトルを死守したせいでバランスが取れず、身体が水中へ落とされてしまった。


ヒューゴは半分水に浸かっている唇そのままで、軽くキスしてくる。「本当に奇跡みたいだ」そう呟いて、2度目のキス。


「身体が少し冷えてるね」


筋肉質な森の妖精はボトルと浮き輪を片手で持ち、もう片方の腕でおれを抱き寄せると、ぐいぐいと河原の方へ引っ張っていった。なかなか力強い精霊じゃないか。


出会ってすぐに、酔い潰れて寝たおれを家まで連れ帰ってくれたことを思い出した。

記憶はないが、あの時もこんな風に自転車とおれを抱えて行ったんだろうと、今なら想像できる。


陸に上がると、昼間は谷間に反響するほどにぎやかだった蝉の声が少しだけ収まって、空気に夕方の匂いが混ざり始めている。


「焚き火とグリルは任せて。あとで、お湯を沸かして軽くシャワーにしよう」


おれはラッシュガードを脱いでタープから近くの枝へと伸びるロープに掛ける。


すでに火は付いていて、ヒューゴが即席で作った岩のかまどにはグリル網が乗せられている。

ずいぶん慣れた様子だ。


「おまえがいれば遭難しても生きていけそう」


「見直した?」


「惚れ直した」


思ったまま素直に告げたのが響いたのか、「肉の美味しいところは透にあげる。日が落ちる前には焼ける」とヒューゴは照れを誤魔化すように火かき棒で炭をならした。


BBQで満腹になったあと、夜の川は怖いね、と言いながら、川面側へせり出している巨大な岩の上に寝そべって夜空を眺めた。


ヒューゴがキスをしてくれる。優しく、深く。

「好きだよ」と何度も囁きながら。


そっと目を開けると、たくさんの星がこちらに向かって微笑んでいるかのように瞬いていて、まるで、空が、自然が、ここにある全てが受け入れてくれているような気持ちになる。


「嬉しい」


思わずそうつぶやくと、「僕も」とヒューゴがおれの目尻に溜まった涙を唇で吸い取った。


愛している、と初めて思った。

ヒューゴの思い出の場所が、おれの思い出の場所にもなることが喜ばしい。そしておれの思い出も、未来も、すべてヒューゴと共有し、共鳴していきたい。

この気持ちに間違いは無い。


それから流れ星を2つほど見送り、おれたちは焚き火へ戻った。小さな温かみが丁度良い。

チェアを並べ、それぞれのステンレスのカップにワインを注ぐ。デザートタイムだ。


ヒューゴは手首が折れそうなほど重い鉄のホットサンドメーカーをいとも簡単に駆使して、スモアを作ってくれた。おれがふざけて『ダディ』と呼ぶと、いつものように鋭い横目でちらりとおれを見て、いつもには無く口角を上げた。

それだけで、身体の温度が急上昇するような色気を発していて、おれは急いで眼の前のスモアに集中せざるを得なかった。

焼いたマシュマロは表面がカリッとして、中身はとろとろで、それがチョコレートと混ざりグラハムクラッカーをしっとりとさせる。まるで小さなケーキだ。マシュマロが甘いからと、ヒューゴがあえて苦いチョコレートを選んだのは正解だな。

とろけるチョコレートが指に付くが、構ってる場合じゃない。床は屋外だし多少垂れてもいいだろう。


「透は、僕にどんなことをして欲しい?」


ヒューゴはおれの手を取ると、指についたチョコレートを一本ずつ、ゆっくりと舐めとった。おれには煽るなと言うくせに。仕草から、恐らくそういう行為での、希望を聞いているんだろう。

意識すると余計に、舐め取られて吸われる度に、背筋に甘い刺激が走る。


「どんなことでもいい?」


「もちろん。なんでも話して」


「こういうことされたら嬉しいだろうなって思うことはあるよ」


「たとえば?」


「おれ、ヒューゴに抱かれたい」


「本当に?でも……」


おれは目を伏せ焚き火をみる。


「ごめん、変なこと言った。嫌なら……」


「そんなわけない!」ヒューゴが慌てて否定してくれ、安堵する。「否定したように聞こえたら悪い。ただ、透の勇気に感心した。身体に大きな変化を与えることになるから……きっとすごく大変なことで、透が辛い思いをするかもしれない」


「あのさ」とチェアを動かしてヒューゴの真正面を向く。


「おれは、まさに『ヒューゴに』おれの身体を変えて欲しい。おまえを身体の中に入れることができるようにして欲しいって頼んでるんだ」


ヒューゴの喉仏が動くのがありありと見える。

想像して、ヒューゴ。おれとどんなふうに愛し合うか。未熟なおれに全部教えて。


「透がそう思ってくれることが、例えようもなく嬉しいよ……。気持ちが通じただけでも奇跡なのに、こんな風に、愛し合うことについて話ができるなんて。

じゃあ、時間を掛けて、透の身体を僕のものにしていく。いいね?」


「いいよ。でも急いで」


おれの返事を受け、ヒューゴはポケットから携帯電話を取り出した。


「はい、これ。僕はクリーンだから、参考までに」

画面を見ると、性感染症の陰性証明書だった。つい最近の発行日だ。


「おまえがヨーロッパ人だったことを久しぶりに思い出したよ。ちゃんとしてるなあ」


「パートナーに対して当然のことだ」


「ちょっと待ってて」


おれも携帯電話を取り出し、春に受けた検診センターのサイトへアクセスする。

ここで検査結果が見られるからだ。30歳代に突入したことをきっかけに全項目の血液検査をしたんだ。その時には、こういう場面で利用できるとは想定していなかったが。

……よかった、だいたいの感染症は項目に含まれている。


「おれも」


「まあそうだろう、お互い、奥手で真面目だからな」


「おれも?」


「そ。1年間、僕のスキンシップに反応してくれなかっただろ」


言われてみれば、ただ耐え忍んでいたな。

指摘すると、やめられそうで。



デザートとワインの宴を夜半頃に終え、ヒューゴが用意してくれた簡易的なシャワーで軽く身体を流すと、漆黒の川から上ってくる夜風がさらりと肌を撫でた。川の苔の香りが青々として、すっきりと心地よい。


焚き火を消してヒューゴがタープの蚊帳を開き、ランタンを灯す。そろそろ寝る時間だ。


「まさか、本当に初夜がここじゃないよね?」と念のために確認する。


「するわけないだろ。ま、来年はどうかわからないけども」


そう言ってヒューゴは横になると、おれのコットの方へ伸ばした腕を置いた。


「人影もないし、抱きしめて眠るくらいはいいだろ。おいで」


# 『純粋な欲望』


ヒューゴは夜明け頃に焚き火を起こしたようで、おれは半覚醒の中まどろみながら、時折目覚めては、チェアで寛いでいるその姿を見ていた。


渓谷に細く降り注ぐ朝日の中にいるヒューゴは、怖いくらいに美しかった。

朝日に光る川の小波と、光の届かない暗い岩間の両方をそのまま身に纏うように鋭く暗く輝いている。水の精霊の化身だと言われても納得しそうなほど、人知を超えた魅力がある。まったく、どこにいても絵になる男だな。


いつまでも鑑賞していたいが、今は教会で宗教画を眺めているのではなく、河原でキャンプ中だ。日差しが強くなる前に起床せねば。


朝食は、昨夜のBBQで残しておいたステーキ肉を使ったホットサンドウィッチだった。

コーヒーはヒューゴがアルミのボトルに入れて、川の水で冷やしてくれていた。天然のアイスコーヒーだ。


「今日は何する?」


サンドウィッチを頬張るおれにヒューゴが尋ねてくる。肉とチーズの他に缶詰のベイクドビーンズが入っていて、それがなんとも言えないアウトドア風味を出している。

最高に美味い。


「ゴーグル買ってきたから、水の中で魚を見たい。予定はそれだけ」


「魚を獲ってみるのは?」


「釣具買ってきたの?」


「いや、手掴み。僕のやり方が日本の魚に通用するか試したい」


「面白そうだな」


「捕れたらお昼は魚を食べよう」


朝食を食べ終えたおれたちは河に入り、膝より低い水位でゴツゴツと岩が突き出た浅瀬へ、そーっと移動する。料理のできないおれにとっては、生の魚を触ることからもう初めてだ。


「あっ」


少し大きな声を出してしまい、ヒューゴにシーっと注意される。

ビャッと足元で素早く動くものが岩の下へ潜り込んだんだ。


「岩の下に手を入れて、魚に触れたら、腹側をそっと何度か撫でる。魚が動かなくなるから、そこを両手で掴む。やってみて」


魚の影が入り込んだ岩の下にゆっくり両手を入れて探る。手に、ぬるりとして張りがあるものが触る。ヒューゴに教わった通りに腹をくすぐるように撫でると、たしかに魚の動きが止まった。


いまだ!と両手で捕まえ、やみくもにヒューゴが持っていたバケツに投げ込むと、バチャリと音を立てた。


「すごいな透!1回で捕まえられるなんて!」


めずらしくはしゃいだ声で褒めてもらえて、おれはかなり得意気になった。ヒューゴの教え方が上手いんだろうけれど。

魚はちょっとした群れでいたらしく、2人で5匹の結果となった。最初の1匹以外、すべてヒューゴの収穫だが。

「ビギナーズラックだった」少し落胆して言うと、「魚が警戒し始めるから、難しくなるんだ」と慰めてくれる。


「イワナ?」


バケツの中を覗き込みながら当てずっぽうで尋ねる。斑点があり、日光で虹色に光るきれいな魚だ。おれが名前を知っている川魚は少なく、コイやアユではなさそうだから消去法だ。


「トラウトだってことしか分からない。サーモンと同種だ」


「絶対美味しいじゃん。ヨーロッパにもいるの?」


「いるよ。もう少し大きい同種がたくさん」


ソロキャンプは何度か経験があるが、いつも自転車がメインのため、ほぼ寝るだけの野宿だ。調理なんてバーナーでインスタントラーメン用の湯を沸かすのが精いっぱいで、獲ったものを食べるサバイバルのようなキャンプは憧れでしかなかった。

魚の捕り方や焚き火の起こし方は、これから毎年教わろう。料理もできるようになりたい。なんとなくだが、ヒューゴはおれにあれこれ教えることを楽しんでいる様子だし。


その後しばらく一人で水中探索を楽しんでから陸へ上がると、そろそろ調理が始まりそうだった。おれは冷えた身体を焚き火に当てる。


ヒューゴは魚を締め、サバイバルナイフでウロコをそぎ、頭と内臓を落としぶつ切りにしていく。見事な手際だ。

夏野菜と一緒にすべてダッチオーブンへ入れると、バターで炒めるようだ。


「てっきり串刺しにして焚き火で焼くのかと思った」


「それもいいけど、こっちの方がパンに合う」


なるほど。うっかり米を持って来ていないが、パンならバゲットもトーストもたくさんある。


「なー、ヒューゴ」


おれの間延びした呼びかけに、なんだ?と眉をあげる。


「おれ今、めちゃくちゃ楽しい」


「よかった。僕もだ」


ヒューゴはダッチオーブンをかき混ぜながら、おれに向かってほんわりと微笑みかけてくれた。。

店で飲むのも楽しい、家で過ごすのも楽しい、キャンプも楽しい。結局、ヒューゴがいればどこででも、おれは嬉しかったり楽しかったりするんだろう。


イワナのバター焼きは、自分で捕まえた魚だからというのは別にしても、キャンプ飯とは思えないほど絶品だった。カリカリに焼いたバゲットが添えられていて、皿さえ違えば、レストランで出されても納得だ。


「少し雲行きが怪しくなってきたな」


岩の上に腰掛け、足を流れる水につけながら食後のコーヒーを飲んでいると、ヒューゴがカップ片手に寄ってきた。

空を仰ぐと、灰色の雲が入道雲に混ざっている。心なしか風も強くなってきたようだ。


「どうする?もし大雨になるとタープが持たないかもしれない」


増水すれば水が濁って魚も見えなくなるだろうし、危険度も上がる。名残惜しいが、今回は1泊で切り上げるしかなさそうだ。


「次回は悪天候を想定したギアと、車中泊だな。秋にまた来よう、透の新車で」


手分けして後始末していると、ポツリと雨が肌に当たった。大急ぎで野営地を後にすると、ちょうど山を下ったあたりで雨脚は強くなった。


「引き上げてきて正解だったな」


フロントガラスに大粒の雨が打ち付けはじめ、あっという間に滝のようになった。「ついでに洗車ができる」とヒューゴが大雑把な性格を垣間見せる。


「現地で食材調達なんて考えもしなかったよ。すごく楽しかったし、美味しかった」


「それはなにより。僕も最高に楽しかった。いつかスウェーデンでキャンプしよう。もっと大きな魚もいるし、森で狩りもできる」


「いいなあ」


そんな約束していいのか、ヒューゴ。

おれは、日本語の『いつか』が使われる約束が苦手だ。なぜだか、その言葉を使うと実現しないような気になるから、できるだけ避けるようにしている。


「透の休暇さえ都合がつけばすぐにでも、なんだけどね。必ず行こう」


「来年の夏は10連休くらい取るよ」


日本のサラリーマンの場合、年間休日数は少なくないが、まとめて取れないのが問題だ。


「じゃ、来年の夏ね。どうせそれより長い休暇は、当分無いだろ」


ヒューゴが急にこっちを向いて宣言したかと思うと、信号待ちの一瞬で、おれのこめかみに口づける。彼から発せられた提案は決定だと感じた。『いつか』ではなく、『これから』の予定として、本心で有言実行してくれるという信頼。


「うん。行こう」


「透の来年の予定を貰ったところだが、次の予定はまず明日のホラー映画鑑賞だな。諒子のチョイスだから……」


「諒子さん、ゾンビ系好きだもんね」


そもそも夏に怪談やホラー映画を観るのは、ゾッとして涼を得るためだ。おれや諒子さんの好むB級ゾンビ映画には怖さを期待できないかもな。


「ケイには……諒子の彼氏には会ったことがある?」


「店でバイト中に少し。諒子さんを迎えに来た時かな。挨拶程度だけど」


「いいヤツだよ。仲良くなれると思う」


「おれらのことは、知ってるの?」


「うん。僕が日本にいる理由を話したことがあるから。……ね、会えなくても、初恋の思い出がある土地で暮らすなんて、いいと思わないか?僕のことだけど」


「案外ロマンチストなんだな」


「知らなかった?」


「全然」


「じゃあこれから思い知るがいい」


おれは吹き出してしまった。


「おまえのその低い声だと、まるでメフィストフェレスから言われてるようだよ」


ヒューゴはちらりとおれを見て、わざとらしくにっこりと悪魔的な笑顔を見せた。


「メフィストが何をする悪魔か知ってて言ってるのか?」


「知らない。悪魔の名前で唯一思いついただけ」


学生時代に課題で読んだっきりで内容は全く覚えていなかった。


「契約者に、地上で最高の快楽を与える代わりに魂を貰う」


「おれ、契約してねぇから」そう言い切ってみるが、「どうなんだろうね」とヒューゴは楽しそうに笑った。


しかし考えてみると、こいつが悪魔だろうがなんだろうが、望むものは何でも与えてもいいと思うほどには惚れている。

いや、望まれたい、と言った方が正確かな。


マンションに帰り着いたおれたちは、キャンプ遠具をすべて部屋へ持ち上がり、バルコニーでざっと洗った。雨はだいぶ落ち着き、洗い終えたギアを庇の下に立てかけておく。

ここのバルコニーは最上階だけあって広く、風通しも日当たりもとても良い。こんな使い勝手の場所なら後片付けの億劫度が半減する。明日の予報は晴れだから、朝から干せばきれいに乾くだろう。


ようやく温かいシャワーで川の汚れを落としていると、浴室のドア越しにヒューゴの影が動いていて、「アロエのジェルを出しておくから使って」と声が聞こえた。

日焼けを気遣ってくれているんだろう。おれは昔から陸上で真っ黒に焼けていたし、ケアなんてしたこともなかったが、やはり北欧人のヒューゴには必需品なんだろう。せっかくだから顔くらいには塗っておくか。


ボディソープを身体に擦り付けながら、さて、とおれは気合いを入れる。


昨夜のおれの発言は……開き直って言ったわけじゃないが、正直勇気は必要だった。

『抱いてくれ』だなんて。

この1年、少しずつ増えてきたスキンシップから感じ取ったものは、いつのまにかおれの体内で蓄積されていて、おれがヒューゴに何を求めているのか分からせてくれるのに十分だった。


1ヶ月ぶりに会えたあの夜、パントリーでヒューゴに抱きしめられた時の衝撃。

胸を、魂を貫かれるような……鋭く甘い痛み。


あの時に、すでに自分が何を望んでいるのか、分からされたんだと思う。


ヒューゴはおれの希望を静かに聞いてくれていたが、受け入れてくれたとは言え、終始、慎重な様子だった。

あいつがおれの身体をどうにかする気があるのか、本心はあまり読めない。

おれは——欲張りすぎているんだろうか。

時間も、思いやりも、おいしい料理もたくさん与えて貰っているのに、身体まで。


おれは、いつもより時間をかけてシャワーを終えた。

昨日の今日で起こり得ないだろうけど、それでもおれは期待する。

早く、心だけじゃなく、身体も貫いて欲しい。


# 『嵐に溶け合う』


遠くで雷鳴が聞こえる。小雨になったものの、不安定な大気は続いているようだ。

台風でも来ているのかもしれない。


ベッドでごろごろと寛いでいたが一度起き上がり、寝室の窓のブラインドを全開にした。山の斜面に建っているマンションは周辺では一番高さがあり、窓からは、空も市街地も見渡すことができる。


それに気付いたヒューゴが、リビングで灯していた小さなキャンドルだけを残して照明を落とし、「雷鑑賞か」と言いながら寝室にやってくると、おれの隣で肘を立てて頭を支えながら横臥する。


「あ、光った」

細い閃光が空から地上に突き刺さる。


ヒューゴは、仰向けのまま窓の外を見ているおれの頭を撫でてくれる。髪をすくうように往復する指先が心地良い。


しばらく無言のまま、雷光でフラッシュのように白む空を眺める。頭からじんわりと伝わる温もりに癒されながら。


「疲れてる?」


「いや、とてつもなくリラックスしてるよ。まだ休みはあるし、おまえが傍にいるし」


髪をすくうヒューゴの手に自分の手を重ね、長く筋張った指を撫でた。


「透」とヒューゴは小さくおれの名前を呼んだ。

「少しだけ、触れてもいい……?」


そう耳元で囁かれ、一瞬でカッと身体が熱くなってしまい思わず目を瞑ると、ヒューゴはゆっくりおれに覆いかぶさってきた。腰が触れ、背中に戦慄が走る。


「言っただろ、なにをしてもいいって」


「少しずつ、ね」


ヒューゴは腕をついておれを見下ろしたままで微動だにしない。

窓から雷光が差し込み、青い瞳の奥がシルバーに輝く。吸い込まれそう。


「透はとてもきれいだ」


「全部おまえのだよ」


おれがそうささやくと、ヒューゴは照れたように優しく微笑みキスをしてくれる。

でもすぐに離れてしまい、おれは広い背中に腕を回して引き寄せた。

遠慮と情熱のそれぞれを持て余して悩むヒューゴは魅力的だ。どうにでも好きなようにできると知っているのに。


軽く口を開くと熱い舌がおれの舌を絡め取る。今夜のキスは、いつもより柔らかく、長く、そっと口内をくすぐる。


また唇がほんの少し離され、とっさに「もっと」とねだった。ヒューゴは小さく唸ると、耳に、首筋に、噛み付くようにキスしてくる。


ベッドでのキスが、こんなにも鼓動を激しくさせるなんて知らなかった。何もかも、どうでも良くなるような感覚になる。


恍惚とヒューゴの唾液を味わっていると、胸にピリッと鋭く快感が走った。

反射的に反れてしまうおれの身体を、まるで鎖に捕らえるかのように、ヒューゴの舌や足が絡めとる。


そのまま両胸から一気に下半身まで電流のように快感が駆けて……もしかしてこれって、うそだろ……

頭の芯がジンと痺れ、皮膚が溶けそうに熱くなる。

そのまま全身を震わせて、おれはたぶん果ててしまった。


「ちょっと待っ……」


しかし、ヒューゴは全身でおれをマットレスに張り付けたまま一切緩めてくれなかった。

また何か来るような感じで両足がこわばる。うそだろ……


絶頂感に似た快楽が波の様に来ては去り、何度繰り返したか分からない。頭が、腰が、ぐちゃぐちゃになりそう。


「ヒューゴ!待って!これ……」


「すごくきれいだよ、透」


良くて、感動的に良くて。

おれはヒューゴの背中を掻き抱く。ベッドが無くなったかのように体が浮いて、なのに頭はどんどん地面に落ちていくような。

ヒューゴがおれの舌をゆっくり吸う。それだけでもう蕩けそうに感じてしまう。


永遠に続きそうな快感におれは何も考えられなかった。

なんなんだよ、これ。


「ヒューゴ、おれ……」


耳を噛まれると大きな波がきて。おれは身体を反らせてそれを受け入れた。


「まいったな」


汗で額に張り付く髪を掻き上げ、ヒューゴは少しだけ困ったような、でも嬉しそうな、柔らかい視線をおれに注いでいる。

困るのはこっちだ。こんな気持ちいいこと、いままで世界のどこにあったんだ。


ヒューゴは、一旦身体を起こしておれの上にまたがったままボトルから水を煽る。溢れた水が喉や胸を伝うのを見て急激に喉の乾きを感じた。全力疾走したかのように自分の息が荒くなっていることにようやく気付く。


「おれにも」


ヒューゴは再びボトルを煽るとおれに覆いかぶり丁寧に口移しで飲ませてくれる。今まで飲んだことがないほどに甘い水だ。


ヒューゴ、おれに何したんだ。

おれの知らない感覚の、終わりのない絶頂感にも似た……。


「さっきの、なに?」


「初めて?」


ヒューゴはおれを見下ろしたままで大きな掌で身体を撫でながら聞いた。


「当たり前だろ」おれは頷く。


「こんなに感じてくれて嬉しい。でもね、僕だって驚いてる……ねえ、ここ」とヒューゴがおれの胸を引っ掻く。

ビリっと腰にぬける快感。

「僕はキスして、ここを好きに触ってただけ」そういいながら指先でくすぐる。「他には何もしてないよ」


両端を同時に触られると、自分じゃないみたいな甘えた声が出て急いで口を覆う。


「舐めさせて」


熱い息を吹きかけ、ヒューゴは舌先で胸の先端を突くと同時にもう一方に指先を立てた。

その瞬間、快感が突き抜け、身体がビクリと跳ねる。


「ここだけでそうなるってことはね、きっと、透のアタマが僕に反応してる。僕も初めてだよ、こんなこと」


「おれ、知らない間にメフィストフェレスみたいなやつと契約したのかなぁ」

本当に、どうしたんだおれの身体。

意識が認識している以上に、脳と身体がヒューゴに惚れてるのかもしれない。


「そうかもね。でも、今夜はここまで」


呼吸を整えようと深呼吸を繰り返すおれにヒューゴはふんわりと微笑みかける。天使みたいな笑顔をして悪魔的な快楽を与えるなんて、ひどい男だ。


おれは、額に落とされるキスを待ってから目を閉じた。

休暇中でよかったと思う。こんな身体のまま、朝起きて平気な顔して会社なんて行けるわけない。


どうなるんだろう、おれ……。


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