第9話 Kiss Goodnight

ソファにくつろぎ、朝のコーヒーを飲む。

ヒューゴの手が腰に回っていて、涼しい部屋で触れる体温が心地良い。ここ最近のおれたちはずっとこんな感じで身体のどこかしらが触れ合っている。

触れられる度に、もう友達関係じゃないんだよ、と無言で伝えられているようで胸が暖かくなる。


カウンター越しの会話から始まって、1年と半年くらい。おれとヒューゴの距離は恐ろしく縮まった。それというのも、おれがヒューゴに抱いている友情以上の感情を本人に隠すことをやめたから。そして、それがヒューゴの秘密を明らかにすることにも繋がった。


ヒューゴは13年前におれを知り、初恋だったと教えてくれた。


30歳になったおれと偶然に再会してからも、そのことを隠していたのには理由があった。

友達になれたらいいと思っていたらしい。

友情を築くことができたなら、それは永遠になる可能性があると。

『友達でも音信不通になるし、別れた恋人と親友になることもある。友達のままがいいなんて馬鹿げた逃げ道だ』

と言うおれをヒューゴは声高く笑って、

『再会して、透のことをよく知って、どうしようもないくらいに好きになって胸が痛かったよ。友達でいるなんて所詮無理だったろうね』

と告げてくれた。


刹那主義ではないけれど、人生は一度きりなんだから、自分が思うように行動したい。

そう考えて、おれは初めて抱いた欲望や憧れに戸惑いつつも、それらを隠し続けることをやめてヒューゴ本人に真正面から伝えたんだ。


同じ想いを持っているんじゃないかという予感はゼロではなかった。

今振り返ると明白ではあるが。

時折は少々踏み込んでくるスキンシップもあったし、すべての休日をおれと過ごしたいと言って毎週末を共有し、美味しい料理をいつでも振る舞ってくれていて。時間や思いやりを、惜しみなく与え続けてくれていた。

そんなの、好きにならないほうが難しい。


近頃、実際そうなのか、受け取り側の気のせいなのかはわからないものの、ヒューゴから発せられる全てが甘い膜に包まれておれに届いているような感覚がする。


例えばヒューゴの瞳の色。

今までは明るい陽の光で川の水面のようなパキッとした輝きで眩しさを感じたりもしたが、今は夜の海の水面を時折照らす月光のような、しっとりした輝きに目が離せなくなる。

それと声。

おれと話すときにだけ、質感がより深く、まろやかになるようだった。

投げかけられる視線も、届けられる声も、なにもかも優しくて甘い……


肩口に顔を寄せると、コーヒーとヒューゴの香りが混ざる。この距離でしか嗅ぐことができないほど微かにつけられたフレグランスなのに印象的で、とても心地が良い。

ヒューゴはよくおれの肌に鼻をくっつけるようにして、林檎の匂いがすると言うが、この香水と混ざるとどんな風に香るんだろう。



世間はお盆休みで、弊社は丸一週間休みだ。有給休暇を合わせればもう少し取れるが、今年は実家に帰る予定もなく、また暑すぎて自転車でロングライドやキャンプに行く気力もなく(まだインドの後遺症が残っているらしい)、規定通りの休暇で十分とした。有給は秋の連休のために残しておく方がいいだろう。


勧められるままに休暇中はヒューゴのマンションで過ごさせてもらうことにし、今日はその初日の土曜。

店の方は例年通り、諒子さんの職場の休みに合わせて5日間の休業だが、いずれにせよ兄妹は店の業務用の冷蔵庫に自分の食材も入れているから、ほぼ毎日のように店に行くのは代わりない。

休暇中に出掛ける予定はないが、諒子さんと彼氏を呼んで、夏のホラー映画鑑賞ナイトをすることになっている。作品は4人共が未鑑賞のものなので今からとても待ち遠しい。4人で集まるのも、こんなに長くヒューゴと過ごすのも初めてだ。


「ランチ、どうする?」

まだ起きてから少ししか経っていないから正確にはブランチだ。例によって朝まで飲んだ明けで、空腹感はあるものの食欲はそんなにない。

窓からはギラギラした太陽がすでに猛威を振るっていることが伺える。


「そう言えば会社の近くに甘味処があって」


おれの提案に、タブレットを見ていたヒューゴが顔を上げる。


「もしかして古い和風の家みたいな?諒子がよく行くらしく」


諒子さんが通ってるってことは、美味いってことだな。


「……もう営業中?」


コーヒーを置いて代わりに携帯を手に取る。検索すると11時オープンだった。ランチもあるのかも。


「行ってみようよ」誘うと、ヒューゴは場所を検索し地図が表示された画面を見せてくる。「そう、そこ」

紹介文によれば、かなりの人気店らしい。


ヒューゴの車で出掛けるわけだが、真夏の正午に近い車内は蒸し風呂のようだ。窓とエアコンを全開にして、駅方面へ向かう。

車は寒冷地仕様でクーラーの効きが悪いのは承知していたが、今年の夏は特に厳しい。


「ずっと冷たいままにする技術ってまだねぇの」あちぃ、と手で顔を煽ぐが熱風が送られてくるだけで何も変わらない。


「エネルギー保存則を覆す気か」


ヒューゴはチラリとおれを一瞥した。どうやら遠回しに不可能だと言われたらしい。


「物理の常識より現実の熱よ」


「やっぱり、車買い換えようかな」


暑さが本格的になる前にも話題にしていたけれど、ヒューゴはあまりに暑い日や悪天候の日はタクシーで店に行っているから、わざわざ買い替える必要性はないはずだ。


「あー、おれが買おうと思ってる。持ってないし。せっかくの愛車なんだから手放さないでよ」


「欲しい車種が?」


前々から都心を離れたら車を持ちたいと思っていたこともあり、目ぼしい車種はある。ロードバイクを乗せて遠出がしたいんだ。


「まぁな」


「僕も運転できる?」


「一緒に試乗して決めようよ」

そう言ってヒューゴを見ると少しはにかんだ。


「なんだか……」


「なに?」


「いや、言えない」


「まあいいけど。かき氷でも食べて、そのあと車を見に行こう……初デートということで」


おれがそう宣言して、シフトギアを握っているヒューゴの手に少し触れると、

「キスしたい、すごく」

本気な声色が返ってきた。


「運転中。前見ろよ」


「いつならいい?」


ヒューゴは手の甲でおれの頬を撫でた。流れる汗を拭ってくれたんだろう。


「許可制じゃないけど、そういえばあれから全く……」


おれたちが友達の枠を外してから、そろそろ2週間になるが、ヒューゴはあの日以来、具体的に触れてこようとはしない。

『衝動を反省している』と言って。

反省もなにも、おれはあの征服されそうな波動に未知の興奮を初めて抱いた。一応、それは伝えたつもりなんだけどな。

ヒューゴにとっては自分らしくないと思っているのかもしれないけれど、おれは稀に見えるヒューゴの粗さが好きだ。

端正な外見と丁寧な言動で完璧を装っているやつが、何も飾らずに荒削りな本性を出している様はとても惹かれる。おれがそうさせているとなるとなおさらだ。


ヒューゴに伝えた通り、おれはもっと触れて欲しいし、ヒューゴにも触れたい。

しかしながら、男相手だと正解が分からない。女の子なら、まあ、大体の手順は知っているが……


……待てよ。

こんなことをあれこれ思い悩むこと自体、これまでは無かったかもしれない。

もしかしておれは知識としての恋愛関係しか知らないんじゃないか。

男だとか女だとか以前に、まともに自分から焦がれて告白したのは……うん、ヒューゴが初めてだ。


おれは即座に開き直った。

たぶん答えはヒューゴが持っていて、おれが考えても仕方がない。トライ&エラーでやっていくか。もし失敗してもそこから学べばよくて、ヒューゴが好むことを蓄積していくのが重要だ。

それか、もういっそヒューゴに全部任せて、あれこれ考えずにじっとしているのが正解かもしれない。性愛において、おれはヒューゴになら何をされてもいいと思っているわけで。


ただ、今までは無かった挨拶のキスが日常的になったのは変化だ。

例えば仕事終わりに店に顔を出すと、「おかえり」と顔や頭のどこかしらに軽く。帰りも同様。

でも、諒子さんにも同じことをしているから、これは恋愛とはまた別物のキスだと分かる。

週末の泊まりでは、相変わらずソファで寝ているおれに、ヒューゴはおやすみと額にキスをしてくれる。それも……家族でもやるか。

いずれも友達以上であることには間違いない。



車は店まで徒歩すぐのコインパーキングに停められた。

またここで蒸し風呂状態になってしまう車に同情する。火傷するほど車体が熱くなりそう。

キーを抜き、すぐに運転席から降りようとするヒューゴの腕を掴んで振り向かせると、おれから軽くキスをした。

唇にふれるのは久しぶりな気がして、たった数週間だけれど、もう恋しかったんだと分かる。

ヒューゴは、ふっと目を伏せ笑うとすぐにキスを返してくれ、唇が触れたままで「好きだよ」とおれの身体に吹き込みように言う。

そしてすぐにまた軽く唇をついばむと、頭上においていたサングラスを掛けて車を降りた。助手席のドアを開けて、一瞬で惚けてしまったおれの腕を支え車から引っ張り出す。

目がくらむのは日差しのせいだけじゃない。

それにしても、なんて暑さだ。


目的の甘味処の前には赤い野点傘が出されていて、真上から容赦なく照らす日を遮ってくれていた。

すでに女性客が2組並んでおり、最速でも15分は待つと予想する。時間が早いせいか予想より短くて済みそうだ。

ヒューゴはおれを日陰になっている壁側に立たせると「水買ってくる」とすぐに近くのコンビニへ入っていった。

隣に並んでいる女性二人連れが「すごくない?」と小さく言い合っている。

うん、わかる。おれもあんなのが急に甘味処なんかに現れたら、何かしら感想を言うと思うよ。


ヒューゴはすぐにミネラルウォーターのペットボトルを手に戻ってくると、「お茶にすればよかった」といいながらキャップを外しておれに手渡す。

先の2組がこちらの会話に聞き耳を立てているのがビンビンに伝わってくるが、ヒューゴはお構いなしというか全く気付いていないようで、順番が回ってくるまでの時間をおしゃべりで過ごすことにしたようだった。

途中にあったカレー屋の行列に驚いたらしく「炎天下に並んでカレーってどういうことなんだ」「カレーの国はずっと夏みたいなものだからか」とか取りとめなく独りで喋り続けている。


ああ、そうだ。変化と言えば、これも。


最近のヒューゴは、とても饒舌だ。

元々、商売がら聞き上手なのかなと思っておれの方がよく喋っていた気がするが、尋ねると『ちょっとカッコつけてたのかもね』と素直な返答だった。

ヒューゴの低く落ち着いた声は心地よく、ラジオみたいにずっと喋っていてほしいと思わせる。また豊富な知識から生み出される会話が興味深い。思わぬ角度からのコメントが辛辣だったり、正論だったり、新しい発見もさせてくれる。

それに、おれを笑わせてくれるのが上手い。


出ていく客と入れ替わりに先頭の一組が入り、店員が外に出てくる。ヒューゴを見てやはり一瞬固まったものの、2名様ですね、とすぐに確認しメニューを渡してくれる。

ランチは丼ものと野菜の小鉢がいくつかがセットになっていて、おれは途端に食欲を感じた。


「たまにはこういうのもいいね。特に夏は」


「じゃ、和食も作れるようになる」

すぐにヒューゴが答える。

優しいやつだな。


「和食は、時々外食するくらいでいいよ」


「透は日本人のわりに米を食べないね?」


「定食屋に行く日もあるよ。でも、どうしてもお米が食べたい、とはならない。パンやパスタの方が好きかも。あとおまえの料理で初めてわかったんだけど、じゃがいもが主食でもいいな」


恐らく、おれにはおふくろの味というものが無い。小学校までは母の手料理だが、子供にはそれがおふくろの味だなんて自覚できないし。後の寮生活では味よりも量だ。体を作るために食べるだけだった。

今、美味しいものに惹かれているのはその反動なのかもしれないな。食べる楽しみ、とやらがわかってきた。いや、でもヒューゴの料理に出会うまでは別にコンビニ弁当やファストフードで良かったか……


結局、おれたちはどこへ行っても食べ物の話ばかりしている。

デザートはこれにしよう、なんて言い合ううちに順番が回ってきた。

基本的に女性をターゲットにしているようで、店内の男性客はおれたちだけだった。席に案内されるなかヒューゴに視線が集まるのを感じるが、当の本人は知らぬ顔で。こういうのにも、とっくに慣れているんだろう。


無論ランチの量もそれなりに控えめで、冷たい甘味を目指してきたおれには逆にありがたい。

ヒューゴは抹茶のかき氷、おれはフルーツみつ豆を頼む。


「食べる?」とスプーンを差し出すと遠慮なく口にいれ、「いい甘さだ」と満足げだ。


「諒子さん、通ってるんだって?」


「彼女は小豆が好きだからね、たぶん年中来ている」


「餅って海外にもあるの?」


「冷凍でね。大福とかいろいろ。一見、日本からの輸入品のようなパッケージだから騙される」


そう答えるヒューゴの足が、テーブルの下でおれにふいに当たる。

日本の店はテーブルが低いからよくあることだが、今まではすぐに『ごめん』と退かされていたのに、今日はそのままにしておくようだ。


「寒くなったから、あげる」


ヒューゴは食べかけのかき氷をおれの方へ突き出しながら、それとは逆におれの足を絡めるように自分の方へ引き寄せた。

ふたりともハーフパンツで、柔らかいヒューゴのすね毛がふわりと触れる。


待ってましたとばかりに深緑の氷をシャクシャクと口に運んでいると、猛烈な頭痛に襲われてしまった。


「どうしてそんなにかわいいの」


スプーンを片手に眉間を押さえて固まるおれにそんなことを言い、ちょうど伝票を持ってきた店員さんを再び固まらせてしまう。

それとも関係が変わったことによる意識過剰なだけで、周りから見ればただの友人同士に写っているのか?


「ほろ苦くておいしいから、つい」


「アイスクリーム頭痛って言うんだよ」


「まんまじゃねーか」


「ブレインフリーズとも」


「カッコいいからそっちにして」


くだらない希望を言うおれの額にヒューゴがそっと手を当てると、痛みはすぐに消えた。


「で、なんて車種?」

食べるものがなくなり手持ち無沙汰なのか、ヒューゴは車についていろいろ聞いてくれる。

おれは国産メーカーが出しているアウトドア向けの車種を挙げる。


「自転車を載せて、車内泊もできればいいなと。おまえと二人で横になれるくらい広いやつ」


だいたいの情報はすでに下調べしてあり、後は実際に乗り心地を確認するのみだ。それで納得できなければ、第二候補に移ればよい。予算を鑑みても選び放題というわけではないから、どこかで妥協もしつつ。

ヒューゴはスマホで該当の車を検索しながら、僕のでも大きさは……あ、そうか夏はダメなのかと呟いている。ゴールデンウィークから秋頃までは休みも多くて遠出し易いけど、エアコンは必須だ。


「その代わり冬は今の車で連れていってよ」


ヒューゴのSAABは真冬の車内をあっという間に暖めるという利点もある。


「自転車ブームだと聞くわりに、車の上に自転車を固定しているのをあまり見かけないなと思っていたんだ。みんな車内にいれているのか」


「バラして輪行バッグに収納したり。高架下とかさ、高さ制限が低いことがあるだろ。ね、納車されたらすぐにどこか行こうよ」


そう浮かれ気味に誘うおれに、

「透の予定に僕がいる。本当に嬉しい」

ヒューゴはゆっくりと瞬き、優しい笑顔を向けてくれる。おれが一番好きな瞬間だ。


「お茶を飲んだら行こうか」ヒューゴは店員を呼び、温かい緑茶を頼んだ。


「冷えた?」ヒューゴの足はまだ暖かいが。


「いや、熱い飲み物は体温を下げるらしい。クリスが教えてくれた。イギリスでは、高熱が出ると熱い紅茶を飲むとか。ここは涼しいけれど、外へ出ればまた地獄だろ」


「平熱でも飲んでるんじゃねーのかよ」


「僕もそう言ったんだ。そうしたらバカにしたような顔をされた」


「ほんと仲いいよね」


「まあ、高校からだからな」


「クリスもスウェーデンにいたの?」


「いや、こっちで留学中に……。あれ、気がついてなかったか。あの動画を撮ったのがクリスだよ」


以前にクリスの店で会ったときに、ものすごく人懐っこい性格だなとは思ったが。おれを知っていたからか。


「じゃあ……同窓会として、またあそこへ飲みに行こうよ。クリスから当時のヒューゴについて聞きたい」


「いいよ。平日なら静かだろうから、来週のどこかで」


おれをあの店にあまり近付けたがらない様子だったと思ったが、意外にもあっさり承諾した。


「クリスに何でも聞いて。僕には聞きにくいことも。もう隠すことはなにもない。ただしアイツ大騒ぎするだろうから覚悟しといて」


さて、とヒューゴは伝票を掴んで立ち上がった。


「おれが誘ったんだから」


支払いたくてそう言うと、「初デートくらい奢らせて」ときっぱり言って踵を返すと素早くレジまで行ってしまった。

ピキ、と周囲の空気が固まり「デートって言った?」と隣の席よりヒソヒソと聞こえた。

こういうのも、いずれ慣れるだろうな。今だけの楽しみとしておこう。

『はは、そうなんですよ』とおれは胸中で答えながら出口へ向かった。



案の定、灼熱地獄になっている車のエアコンを全開にし、ドアも開けてしばらく待つ。


「今乗ったら背中が溶けてシートにくっつきそう」


「でも一生買い替えられない」


そう断言するヒューゴにどういうことかと尋ねると、「透が初めて僕にキスしてくれた車だ。手放すわけないだろ」と照れもせずに言う。

そうだっけ、とはぐらかしてもダメなようで、ヒューゴはおれを引き寄せた。


「外でキスしてもいいの?」


「いいよ。ただし運転中は危ないからダメ。まあ日本の常識の範囲内で」


「了解」


「あのさ、おまえにされて嫌なことは何もないから、気を遣わないで。したいことはなんでもして。わかった?」


「わかったけど……世間体みたいなのはいいのか?」


「そんなのねーよ。有名人じゃあるまいし」


「会社は?」


そろそろ熱風が逃げてきた車内に戻りながら、おれたちは会話を続ける。

きっとヒューゴはおれを守るために考えてくれているんだろう。

いつでも自分のことは後回しで、おれの意思を優先しようとする。


「社内規定には同性愛お断りなんて当然書いてないわな。自分で言いふらすこともないけれど、隠す必要もないよ」


ハラスメントには非常に敏感な当世だ。それに公私の切り分けもはっきりしていて、個人のリレーションシップについて職場で尋ねるのはもはやタブーと言っていい。

男性が女性社員に向かって「彼氏いるの?」なんて質問は一発アウトだし、男性社員に「彼氏いるの?」と聞くのは珍しいケースだろう。

万が一おれにその質問が来るようなことがあれば、「彼氏ならいますよ」と答えるまでだ。

リーダー職である自分の立場から考えても、ようは仕事をきちんとこなし、社会通念上のモラルを保持していれば、個人のプライベートなんて会社に持ち込む必要もないし、また、わざわざ別の人間が暴くべきではない。


「今の会社では到底、偏見だとか差別は考えられないけれど、そうなれば転職するまで」

外的要因でおまえと離れるなんてとてもじゃないが受け入れられない。馬鹿げてるよ。


ヒューゴは発進させようとしていた手を止めて、助手席のおれに覆いかぶさるようにして額に口付けた。


「無理はするなよ」


「わかってるよ。早く行こうぜ。せっかく買う気になってるんだから」


初めての大きい買い物で、それもヒューゴと一緒に、というのが余計に心を躍らせる。

なんとか座っていられる程度まで落ち着いた車はやや郊外にあるショールームを目指して発進する。


「僕の場合は、もし店で透が激しくキスをしてきても大歓迎だけれどね」


ほー。随分な心構えじゃないか。


試乗する気満々で車屋に乗り込んだものの、まともに運転をすることがかなり久しぶりなことに今さら気がついた。インド出張中に1度だけ買い出しのために車を借りたが、交通ルールもあって無いようなもので、それはカウントしない方がいいだろう。

目当ての車種の座り心地やハンドル周りの操作性を確認したところ概ね満足し、実際の試乗は、恥を忍んでヒューゴに頼んだ。

それに、2人で出掛ける時は彼が運転しそうな予感がする。


15分ほどの試乗を終えて感想を聞いてみる。


「座席も視界も広くて、僕は運転し易いと思った」


「じゃあ、これに決めます」


ヒューゴの感想を受けて、おれは即座にそう営業担当に向けて告げる。それでは早速お手続きに、とショールームの中へと案内された。

出されたアイスコーヒーを飲みながら、必要書類を揃えに行った営業さんを待つ。


「ローンを組むのか?」


「うん。そりゃね」


「これは提案なんだが」とヒューゴはアイスコーヒーをテーブルの脇にどかした。「僕と共同で買わないか?半額ずつ出して」

そしてテーブルの上に置かれているおれの手に目線を落とし、角張った親指だけで軽く触れてきた。その触れ方は間違いなく恋人のそれで、ピリリと皮膚に電流が流れるような感覚が心地良い。


「透がこの車を買うのは、僕ら2人で使うためだと思えて……認識が違うならそう言ってくれ。それに、たぶん僕が運転するんじゃないか?」

早々にバレてるな。


「都内住みだと稀にレンタカー借りる程度なんだよ。買ってから練習する」


「僕は車の運転が好きだし、透を隣に乗せていろんなところへ出掛けたいよ。だから、半分出させてくれ。名義はもちろん透のままで」


ヒューゴの提案について少し考えている最中、ふと、思いついた想像に自分でどぎまぎと胸が高鳴る。

この想像は、目の前で「自分で買い替えるより得だし、透の負担も減らせられるし、一石二鳥。しかもエアコンが壊れていない車は涼しいから、三鳥か」と自分のオファーを一生懸命正当化している金髪の男に言っていいのか躊躇するけれど……

車のような生活に必要で、かつ高額な買い物を共同ですることは、どう考えても……

いや、今は言わないほうがいいか。


おれは立ち上がり受付に向かった。「すみません、営業の方に相談があるのですが」


「はい、呼んで参りますので少々お待ち下さい」


すぐに出てきた営業担当に、現金で一括払いに変更したいと訂正を入れた。銀行振込となるらしい。


「審査がなくなる分、早ければ3週間後にはお手元に搬送できるかと」


「ちょうど秋の連休に間に合いそうですね」

おれの合いの手に、「そこは十分間に合います!」と若い営業さんははつらつに保証してくれた。


テーブルに戻り、ローンを取り下げた旨を伝えるとヒューゴはとても満足そうに微笑み


「夏の車と、冬の車ができたね」と言う。


「元々、引っ越しに併せて買おうと思ってたんだ。せっかく都内から離れるんだし。でもおまえと知り合って、買い物だのドライブだの連れて行ってもらえるから、自分の車を持つのは優先度が落ちてた」


「これからもそれは止めないよ?いつでも言って。僕の車でも透の車でも、どこへでも連れて行く」


「まずは運転を思い出さないとなー。ヒューゴに隣に乗ってもらって」


「うん。僕もAT車に慣れておきたい」


「ところで。悪いけど、アイスコーヒーのおかわり貰ってきてくれる?もう受付からの視線が痛い」


「めちゃくちゃ目が合う」


「だろ。行って来いよ。契約に時間掛かるだろうし、話し相手になってもらえよ」


「透がそう言うなら」


「ナンパはするなよ」


からかうおれにヒューゴは冷たい目をして見せ、空のグラスを持って席を立った。

入れ替わりに先の営業さんが必要書類を引っ提げて戻ってくる。



契約を無事終えて、とにかく急いでヒューゴのマンションに帰る。

少しの外出なのにすっかり汗ばんだ身体と、車の窓から差し込む日光で焼かれた皮膚を冷やしたかった。

2人共、少しでも汗をかくとシャワーを浴びたい性分だ。こんな暑い日はじゃんけんで先行を決めるのだが、負けたのが悔しかったらしいヒューゴは「次はバスルームが2つある部屋にする」と言いながら浴室に消えた。


先にさらりとした状態に戻れたおれは、さて、とソファに陣取る。

今までは、土日と、たまの3連休の最大3日間しか共に過ごしたことはないはずだ。これから1週間少々、ここでヒューゴとのんびり過ごせるなんて、まるでどこか南国のリゾートホテルに来ているみたいな、開放的な気分。


ストリーミングサービスから、古いSFドラマを再生する。少し前にリマスター版の配信がされたが、休みにまとめて観るつもりで取っておいたんだ。

「へぇ、いいね」とおれの選択に賛同しながらリビングに入ってきたヒューゴを見ると、2週間前に比べて、少しだけ元の体型に戻ってきたようだった。

まるで皮膚が筋肉に張り付いただけのようなあまりの絞りっぷりは外国のプロモデルのようだったが、さすがに人工的すぎだった。

元はと言えば、おれがインド出張中に音信不通になり、過度に心配を掛けてしまったせいだ。食べていないだけじゃなく、水分も取っていなかったんだろう。

身体を撫でると、軽く抱き寄せてくれる。水シャワーだったのかひんやりした皮膚がとても心地よく。いつものフレグランスが微かに香る。


しばらく2人で映像を観ながら、ヒューゴは時折ドリンクを作ってくれたり、電子書籍リーダーを手に読み始めたりと、隣で好きなことをしていた。

今のヒューゴとの空間や時間は、今まで経験した寮の共同生活や、過去の恋人とのものは全く異なる。

お互いの存在に幸福を感じながら、過ぎゆく時間に感謝している。


おれはこれが生涯続けばいいと思う。いや、希望じゃないな。生涯、続ける自信がある。

それは前から薄々感じていた、一緒に居ない時間に抱く違和感や喪失感にも現れている。それに、さっき車のディーラーで浮かんだ想像にも影響されていて。


ヒューゴが用意してくれたフィンガーフードで、夕飯という名の晩酌をする。

半分に切ったゆで卵の黄身の代わりに、塩辛い魚卵が入ったものがとても気に入った。


「これキャビア?」


ヒューゴは横目でおれに一瞥をくれ「偽キャビア」と言った。そうだろうな。本物だとしたらこの量で数万円はするだろう。


「すごく美味しい。下にあるのは黒パンでしょ?店でもパーティの時に使うよね」


「プンパーニッケル。魚に合うんだよ」そう言ってヒューゴは小さくロール状に巻かれた魚の切り身が乗ったものを指さした。


「こっちはニシンのマリネを乗せている。意外かもしれないが、北方は日本よりも癖のある魚を食べるんじゃないかな」


「どこだったか、うなぎのスープを勧められたことがあって」


「ハンブルクだろ?行ったことあるの?」


「前に出張で」あれはハンブルクだったのか。ホテルと職場と空港しか記憶にない弾丸出張だった。この間のインドといい、おれ、こんなのばっかりだな。


「最終日に、せめてなにか現地らしいものを食べたいと思ってホテルの受付で尋ねたんだよね。店も教えてくれた」


「美味しかったか?」


すぐさましかめっ面で答えたおれを見てヒューゴは声高く笑い、「日本のうなぎを知っていたら、食べられないだろ?」と肯定してくれた。

生臭いなんてものじゃなかったからな。うなぎの種類も違うんだろう。


「秋になったらサーモンのスープをごちそうするよ」


ヒューゴは、食べ物でも、おれに未来の楽しみを与えてくれるようだ。

美味い肴で、酒もほどよく進む。


軽くSFドラマの続きを見て、きりが良いところで停止ボタンを押す。当時、一世風靡しただけあってストーリーに引き込まれる。しかし、人気がありすぎたせいで酷く引き伸ばされ、後になるほどに評価が落ちたという批判でも有名だった。

時計を見ると、まだ日付が変わる前だ。

こんなに早い時間に視聴をやめることは今までの週末ではありえないからだろう、ヒューゴが少し心配そうにこっちを見てきた。


「もう眠いの?」


「いや、せっかくの長期休暇だから」いえども1週間程度だが。「昼夜逆転するともったいない」


「はは、突然健康的なことを言うね。明日は泳ぎにでもいくか?」


「それもいいね。あと、少し長く寝たい。今夜はベッドに行っていい?」


ヒューゴはおれを抱き寄せ「透がそう言ってくれるのを待ってたよ。今夜だけ?それともずっと僕の隣で寝てくれる?」とそっと耳元で囁いた。


あ、また……。昼間の車屋での想像が頭をよぎる。こいつ無意識なのか。


「ずっと」


おれはまだ照れが残り、簡潔に答えて早々にベッドへ行った。寝ている間もヒューゴに触れていたい。



「透」

呼ばれてハッとなる。パイル地のシーツがさらさらと心地よく、ついベッドの真ん中に陣取ったまま寝てしまったようだ。


「ごめ……」


上体を起こし、おれは思わず息を飲んだ。ボクサーしかつけていないヒューゴの、薄明かりに照らされる金色の肢体。こんな美しい生き物が居ていいのか、と目を疑う。


「透?」


「ああ、ごめん。見とれてた。もうちょっと見せて」


ヒューゴは大げさにため息をついて、「好きなだけ見せてやるよ」と上体をこちらへ向けてくれ、その言葉と仕草の荒さに胸が鳴った。


「でもあまり褒めるな」


「だって本当にそう思うんだから仕方ないだろ」


「透さ、」


ヒューゴはベッドの端に腰掛けると、おれの手を掴んで自分の胸へ押し付けた。

トントンと力強い鼓動が伝わる。「分かる?」


「うん、強くて早い」


「まだ僕をあんまり挑発しないで。いい?」


手が触れているヒューゴの肌が吸い付くように滑らかで、おれは急激な眠気に襲われ、どさりと仰向けに横たわる。


ヒューゴが躊躇する理由はなんとなく想像できるけれど、おれはか弱いわけでも、不安感があるわけでもない。


「Good night」とヒューゴが呟き、額にキスを落としてくれると、麻酔が効いたみたいにすっと眠りに落ちてしまった。

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