第6話 その、雪の叛乱は……(前)1/3






 その日……二月二十六日の水曜日の東京の朝は、前日からの大雪が残り、外の景色は一面の白銀の世界となっていた。数十年に一度といわれるほどの、東京ではめずらしい積雪だった。


 一高の、二年文乙の教室では、食堂で朝飯を終えてやってきた生徒たちが、だるまストーブを焚きながら、思い思いに駄弁っていた。


「おい、今朝は寮に新聞が来てなかったぞ」

「雪だからだろ。しょうがないさ」


 ふと、祥太郎の隣の席の仁川が言った。


「そう言えば、サシャが来てないな?」


 教室内の視線が、ご学友である祥太郎に集中した。

 祥太郎も、主のいないサシャの机を見ながら、口を開いた。


「……そうだな。いつもなら、もう来てる時間なのにな」


 鴨井が言った。


「雪のせいで、外に出られないか、立ち往生をくってるんじゃないか?」


 祥太郎はそれを聞いて、しばらく考えていたが、やがて立ち上がった。


「……ちょっと、サシャに電話してみようかな。欠席なら、こっちから先生方に伝えてやらないと」 

「電話? ドイツ大使館へか?」

「そうだよ。電話帳に番号が載ってるはずだ」


 祥太郎は電話室へ駆けた。が、じきにうなだれるようにして戻ってきた。そんな祥太郎に、仁川が声をかけた。


「どうだった?」

「……通じない。ずっと話し中だ。庶務の電話も、大使直通の電話もだ」

「話し中だったのか? 断線とかじゃなくて?」

「俺もそう思った。だから念のために、朝日新聞にかけてみたんだ。すぐに繋がった」

「そうか。じゃあ、新聞が来ないことへの小言の一つも言ったんだろうな?」

「いや、それが、電話の向こうでは、何に対してかは分からないが、かなりの騒ぎになっていたんだ。電話をとった社員も落ち着かないようで、すぐに切られてしまった」

「騒ぎ?」

「切る前に、社員からこう聞かれたんだ。『あなたはどこに住んでいますか? そちらに軍隊は来ていませんか?』って……。駒場ですがよく分かりませんって言ったら、切られたんだ」


 その異様なやり取りに、教室内の皆が静まり返った。


 やがて、意を決したように、祥太郎が言った。


「すまないが仁川、代返(注:授業をサボるとき、出席する友人に、点呼の際に自分の分も返事してもらうこと)を頼む」

「代返? 別にいいが……どうするんだ?」

「サシャが変わりないか、見に行くんだ」


 また皆が静まり返った。ややあって、仁川が言った。


「鴨井の言う通り、雪のせいだって。あんまり心配するなよ」


 だが、祥太郎は聞かなかった。


「いや……ひょっとすると、これは軍部のクーデターかもしれない」

「何だと? どうしてそう思うんだ?」

「ほかに考えられないからさ。ただの大雪によるインフラストラクチャの麻痺とは思えない。何しろ、電気も電話も使えるわけだからな。それに、新聞社の大騒ぎときた。新聞社が、大雪で大慌てするとも思えない。むしろ、軍隊云々で騒いでる始末だ。だとすれば、クーデターも考えられるわけだ」

「クーデター……」


 教室内にはしわぶき一つおきなかった。


 ……満州事変以来の陸軍の拡大暴走が、ついにここに至れるか……とばかりに、一高生たちの沈黙は続いた。皆が、あり得なくもないと思っていたからだ。


 しばらく経って、鴨井が口を開いた。


「木下……行くなら、俺も行こうか?」

「いや、危険はなるべく少ない方がいい。やっぱり、俺だけで行くよ」


 それを聞いた仁川が、慌てたように祥太郎に言った。


「そんな……やめとけよ。本当に軍がクーデターを起こしたんだったら、ドイツ大使館がある永田町に行くのは危険だぞ」

「……いや、だからこそ行くよ」

「どうしてそこまで……」

「決まってるだろう。サシャのことが、心配なんだ」


 きっぱりと言い切った祥太郎に、もはや誰も反駁しなかった。


 やがて、景気よく膝を打って立ち上がった者がいた。田原だった。


「じゃあ、俺の長靴を貸してやる。舶来品だぞ」


 鴨井と仁川はしばらく顔を合わせていたが、やがて、仕方ないなとばかりに頷き合った。


「何か陣中見舞いが必要だな」と鴨井。

「食堂の給仕に頼んで、何か貰ってこよう」と仁川。


 田原と鴨井と仁川は、駆け足で教室から出て行った。


 級友たちの暖かさに、祥太郎は涙が出そうになった。





 *





 一高を出発した祥太郎は、雪がときおり吹き付ける曇天のもと、くるぶし辺りまで雪が積もった道を、学生マントを翻しながら、ひたすら歩いた。人の姿は、まばらだった。帝都線も市電も、動いてはいるものの、大幅に遅れが出ているとのことだった。雪のせいか、それともクーデターによるものか……。祥太郎が待っている間にも市電が来たが、人がすし詰めになっていて、とても乗ることはできなかった。次の市電はいつ来るか分からない。祥太郎は、歩いていくことにした。


 背中のリュックサックが重い。田原たちが、食堂の給仕から缶詰をたくさんもらってきてくれたのだ。ありがたいが、それにしても重い。これを背負って、この雪の中を、一高から六キロ以上もある永田町まで歩いていかなければならないのか……と尻込みしそうになった祥太郎だが、サシャの顔を思い出して歯を食いしばった。山崎教官から教練でしごかれていたので、六キロくらいはなんとかなるだろう、と思った。


 やがて祥太郎は、赤坂見附までやってきた。ここまで来れば、ドイツ大使館へは目と鼻の先だ。そう思ってまた一歩、祥太郎が長靴を踏み出したとき、少し先に、陸軍の兵士による歩哨線ができていた。木材に鉄条網が絡みついた即席のバリケードの向こう側とこちら側に、外套を身に着けて、歩兵銃を持った兵隊が何人か立っている。祥太郎は、着剣した歩兵銃を持った兵士の一人と目を合わせてしまった。背中に冷たいものが流れた。が、歩兵銃を持った相手から、今さら逃げ出すわけにはいかなかった。


 歩哨線にいたうちの二人の兵士が、ゆっくりと近づいてきた。


「おい。学生が、こんなところで何をしている?」

「あ、あの……友だちの家に行く途中で……」

「友だちの家だと? どこにあるんだ?」

「ド、ドイツ大使館です……」

「友だちがドイツ大使館にいるだと? 嘘も休み休み言え!」

「う、嘘じゃありません!」


 祥太郎の弁明も虚しく、兵士達が祥太郎を取り囲んだ。


「動くな! 貴様を拘束する!」


 祥太郎は、両手を背中に廻されてしまった。


 祥太郎を拘束した兵士たちの詰襟に『3』と記されているのをみたとき、祥太郎は思い出した。もしこの兵隊たちが陸軍第一師団の兵士なら、歩兵第三連隊には、あの人がいる!


「第六中隊長の……安藤大尉を呼んでください!」





 *





 祥太郎は、歩哨線の兵士たちから、後ろに控えていた曹長に引き渡されて、歩哨線の奥へと連行された。


 永田町近隣の家々は、しんとしていた。通りには、叉銃されたたくさんの歩兵銃や、軽・重機関銃が並んでいる。兵士たちも、およそ一個小隊が待機していた。……政府中枢のある地域に、歩哨線が構築されていることを考えても、やはり、これはただごとではない、と祥太郎は思った。


 ある家の前に、司令部らしい天幕が設営されていた。その下に、尉官らしい将校たちが集まって何ごとか話していた。


 連行されてくる祥太郎を見るや、将校の一人が声を上げて飛び出してきた。


「木下君。木下君じゃないか!」

「安藤大尉殿!」


 将校マントを羽織った安藤が、祥太郎のそばの曹長に尋ねる。


堂込どうごめ曹長、なぜ木下君がここにいる?」

「は! 赤坂見附付近をウロウロしていましたので、怪しいと思い拘束いたしました!」

「彼は一高生だ。怪しい者じゃない。彼の身元は、俺が保障する」

「は……」


 安藤は祥太郎に向き直った。


「木下君、済まなかったな。皆、気が立っている状況だ。許してくれ」

「い、いえ……安藤大尉殿も、加わってらしたんですね?」

「……ああ。そうなってしまった」


 そうなってしまった、とはどういう事だろう? と祥太郎が思ったのもつかの間、安藤が口を開いた。


「ところで……君は、どうして赤坂見附にいたんだ?」

「ドイツ大使館が……サシャが心配で、様子を見に来たのと、食べ物を持ってきたんです」


 安藤は目を見開き、大きくうなずいた。


「こんな日に……君は友だち想いだな」

「俺からも質問させてください。これは、演習ですか? それとも……」

「……演習ではない。それだけは、言っておく」

「……」


 演習ではない。……ということは、安藤たち将校個人の意思で、陸軍部隊が動いていることになる。やはりクーデターなのか、と祥太郎は思った。


「決起、されたんですね?」

「……俺の口から、多くは語れない。察してくれ」

「……はい」


 安藤が、つとめたように、明るい声を出した。


「ところで、学校では皆元気にやっているか?」

「はい。仁川も田原も元気です。サシャ……は、これから見に行かないといけないですけど」

「そうか……あのクリスマスパーティーでは、こちらも楽しい思いをさせてもらった。よろしく伝えてくれ」

「わ、分かりました……」


 安藤の言葉の響きが、どこか遺言めいているように、祥太郎には感じられてしまった。

 安藤は、祥太郎を連行してきた曹長に向き直った。


「よし、堂込曹長、木下君をドイツ大使館まで護衛しろ」

「はっ!」

「拳銃は持っているな?」

「はい!」


 堂込曹長が、拳銃吊りホルスターから二六年式拳銃を取りだしてみせた。その回転式拳銃から、ぷんと火薬の匂いがしたのを、祥太郎は感じた。……ああ、この拳銃は、つい今しがた使用されたのだ。


「木下君。帰りにどこかの部隊の兵隊に誰何すいかされたら、正直に自分の名前と、第三連隊の安藤大尉の許可のもと、ドイツ大使館へ行っていた戻りだと言え」


 それを聞いた曹長が、不安そうな声を上げた。


「よろしいのですか、中隊長殿……」

「我が三連隊ならまだいいが、一連隊の連中は血の気が多い。何かあったら、俺が出る」


 祥太郎は、安藤に深々と頭を下げた。


「ありがとうございます!」


 別れしな、安藤は、祥太郎の両手を強く握りしめた。その安藤の軍帽には、よく見ると、白地に墨で文字の書かれた鉢巻きが巻かれていた。そこには、『尊王討奸』と書いてあった。




 

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