第4話 「ダンマパダ」全訳後新釈

 ダンマパダをひととおり読んだ上で、改めて「仏陀の教えの凝縮」として般若心経を見たくなりました。以下がその訳出です。



○観自在菩薩の得度


आर्यावलोकितेश्वरो बोधिसत्त्वो

尊・観自在・覚有情

गंभीरायां प्रज्ञापारमितायां चर्यां चरमाणो

深・慧波羅蜜・行・行中

व्यवलोकयति स्म पंचस्कन्धाः

観察・過 五・蘊

तांश्च स्वभावशून्यान्पश्यति स्म

彼等・も・自性空・見・過


貴きアヴァローキテーシュヴァラ「菩薩」は、深きパンニャーパラミタの行をなすことにより、お見極めとなった。世界を知覚するに当たる五つの階梯、このすべてが自ずと空性を抱くものであったのだ、と。


 まず「菩薩」に注目した。これだけ凝縮した言葉たちの中で、違う言葉に同じ意味をもたせているはずがあるだろうか。ならば बोधिसत्त्वाणां 菩薩と、सर्वबुद्धाः 仏陀は違うものだ、と認識せねばならない。無論、どちらもいと高き、いと奥深き、いや、巡り巡ってゼロの境地にいるのは間違いがない。ただ、それでも「いわくしがたい、人々にもたらされる、なにか」については両者間で変わってくるのだろう。ここについてはダンマパダ日記中に敢えて持ち込んだ「比丘-婆羅門-菩薩-仏陀」なるパンニャーパラミタの進捗基準、をいったんそのまま持ち込めそうである。

 空性を抱く、は「空」そのものというわけにいかなさそうだ。と言うのも五蘊について、アヴァローキテーシュヴァラ菩薩は重要なものであると「その瞬間までは」認識していたようである。では、何故そこに「空性」なるものを帯びたか。「渡りきった」からなのだろう。五蘊による自己省察が不要な境地に菩薩は降り立った。ゆえに手放すべき時が来た。世界から自分を見出す、言わば無限の空の中にあるただ一点を探り当てるためにどう感じ取ろうとしているのか、という経路が要らなくなった。そういった話なのだろう。

 この話をするためにも、まずは世界と「世界を感得している自分」が我々の認識の始めにいてしまう話を持ち出しているようである。これはデカルトが「cogito ergo sum」を言い出したのとほぼ同一である、と言ってしまっていい気がした。すなわち、デカルト=「神から断絶された個の存在」と、般若心経初段=「世界は自分も含めて『すべてが空である』のが本来の実態であるにも拘わらず自己をどうしても置いてしまう個の存在」と、である。

 悟りにあたりすべてをなげうつにしても「世界の前に私がいる」という認識が障害となってしまっており、これを引き剥がすための手立てとしてパンニャーパラミタがあった。このような感覚であるとよいのだろう。そしてここにも書かれているとおり、重要なのは偈ではなくパンニャーパラミタ、則ち実践そのものである。

 実践そのものが重要でありながら、最後に偈を持ってくるのが、般若心経のかなりえげつないところだな、というのを改めて感じた。まさしく「方便」なのだな、と。ここはまた最終段にて。



○シャーリプトラを殴れ


इह शारिपुत्र

此・舎利子

रूपं शून्यता शून्यता एव रूपं रूपात् न पृथक् शून्यता

色・空 空・まさに・色 色・から・不・別・空

शून्यता या न पृथक् रूपं

空・も・不・別・色

यद् रूपं सा शून्यता या शून्यता तद् रूपं

何・色・それ・空 何・空・それ・色

एवमेव वेदना संज्ञा संस्कार विज्ञानानि

同・受・想・行・識


菩薩は仰る。「シャーリプトラよ、色は空性を持つ。空性を持つこと、これがまさに色の特徴である。色より空性を取り除くことは叶わず、空性を持つことから色たりえる可能性を取り除くことは叶わない。色なるがゆえに空であり、空なるがゆえに色なのである。ならば同じように、五蘊の以降の階梯、則ち受も、想も、行も、識も空である。」


 殴れ、と書いたのはこれまでの理解に基づくものであるのだが、ただしこれはこれで間違っていない、とも感じている。と言うのも、ダンマパダを読んだ先に見出したのは「ある」というただ一点に自分が収斂される、という感覚であり、ならば「その前」をいつまでも後生大事に抱え続けるのはおかしい、となると思うのだ。ただし問題がひとつあり、「ある」に至るためには数多なす邪魔ものを「邪魔ものである」と見做す必要があり、さらにはそこに気付くための手立てを得ねばならない。では、この手立てとはなんなのか? 「己を見据えること」なのである。対してアヴァローキテーシュヴァラ菩薩が振り払わせたいのは、教義は教義として重要な「邪魔ものを退けるに当たり重要な手立てである」にせよ、それをいつまでも抱え込み続けようとすること、則ち痴愚なのだろう。

 シッダールタの教えが偉大なものである、のは間違いがない。しかしそれが言葉である以上絶対の真理そのものではない。にも拘わらず無上の教え、だなどと言ってしまうのは、シッダールタが何よりも警戒した「執着」そのものに化してしまいかねない。

 世界というあまりにも良くわからないなにかを、ヴィトゲンシュタインは「事態の集合体である」と言った。あまりにも「縁起」そのものではないか。すべての「こと・もの」の集合体が世界であり、その無数の「こと・もの」があまねいていることこそが空。自分も空の中の何かに過ぎない。何かに過ぎないのにそれでも迷いや恐れを抱えてしまうのは何故なのだ?

 思考の置き方にズレがある、としかいいようがないのではないか。このズレを正すための道具が教義であり、道具にばかり目を向け続けるのは、ズレそのものを正すという目的から目をそらすことにつながってしまうのではないか。



○結集の結果も殴れ1


इह शारिपुत्र सर्वधर्माः शून्यता लक्षणाः

此・舎利子・一切法 空・相

अनुत्पन्ना अनिरुद्धा अमला न विमला

不生・不滅・無垢・不・清浄

नोना न परिपूर्णाः

不増・不・充足


菩薩は仰る。「ならば、シャーリプトラよ。世のあらゆることわり、すべてがまた空に他ならぬ。色として感得するあらゆるものが、そなたには生まれ、滅び、垢にまみれ、浄まり、増え、あるいは減少するように見えるやも知れぬ。すべては空を感得する際の感ぜられ方の違いであるに過ぎぬ。」


 ここは『荘子斉物論』にまったく同じ内容がある。「其分也,成也;其成也,毀也。凡物无成與毀,復通為一。」というものだ。なにかが割れたとき、それは「二つのなにか」が生み出された、と言うことではないのか? 無論「割れる前のなにか」が失われた、と言うことでもあるのだが。失われるのも、生まれるのも、状態の外見的なありようが変わった、ということに過ぎない。そこに人間がどのような価値を抱くか。それに対して価値を抱くことが、果たしてどれだけの意義を帯びるのか? 覚えるのもよし、覚えないのもよし、なのだ。そしてこれは「自分」にも適用される。なにを自分と呼ぶ? この身体か、この心か? では心とはいったい何なのだ? 自他の境界線を考えようとしてみても、自分そのものであるはずの髪の毛が、爪が、表皮が、様々な体液が、排泄物が、「自分から切り離された瞬間」から自分でなくなるなど、おかしなことではないのか? ならば自分の身体は本当に自分のものなのか? 身体を感得する自意識も、どこまでが自分なのか? 自分自身も、結局は空に対するなにかである。では、空に対するなにかであり、そもそも空そのものであることをどう体得するか?

 少なくとも、言葉では不可能である。



○結集の結果も殴れ2


तस्मात् शारिपुत्र शून्यतायां न रूपं न वेदना

故・舎利子 空中・不・色・不・受

न संज्ञा न संस्काराः न विज्ञानानि

不・想・不・行・不・識

न चक्षुः श्रोत्र घ्राण जिह्वा काय मनांसि

不・眼・耳・鼻・舌・身・意

न रूप शब्द गंध रस स्प्रष्टव्य धर्माः

不・色・声・香・味・触・法

न चक्षुर्धातुः यावत् न मनोविज्ञानधातुः

不・眼界・乃至・不・意識界

न विद्या न अविद्या न विद्याक्षयः न अविद्याक्षयः

不・知・不・無知 不・知尽・不・無知尽

यावत् न जरामरणं न जरामरणक्षयः

乃至・不・老死 不・老死尽

न दुःख समुदय निरोध मार्गाः न ज्ञानं न प्राप्तिः

不・苦・集・滅・道 不・知・不・得


菩薩は仰る。「ゆえに、シャーリプトラよ。御仏の語る、ありとあらゆるなにかもが、空の感ぜられ方に過ぎぬのである。五蘊もそう、我々の感覚もそう。感覚より生じる思考もそう。ならば我らが抱えるとされる無明と呼ばれる痴愚、無明を辿る先に導かれる老いや死への苦しみも、すべてが空の感ぜられ方の産物に過ぎぬ。我々は空に余計な思い込みを抱いてしまうがゆえに、その解消に努めねばならぬのである。ならばここで苦しみから解き放たれんと、苦しみから逃れる道を見つめてなんになろう。本質的には『ない』ものなど、どうやれば捨て去れるというのか。ならばこの先に、果たして目覚めの境地はあろうか。」


 さて、偈にもある。言葉は無意味、なはずである。にもかかわらず、何故仏典には膨大な言葉が残るのか? 答えは「それだけシッダールタの言葉が途轍もなく膨大であったから」に尽きるのだろう。

 ここの議論はなんだろうか。五蘊、則ち自我をもってしまっている我々は自分たちがまた空そのものであることを体得できないからこそ十八界に捕らわれ、十八界から十二因縁を呼び起こし、それらから自由にならんとするための「初手として」四諦を学ばねばならない――とすべきなのだが、もう少し言い直せるのだろう。

 シッダールタ、「渡りきったひと」の教えとはなにか。「筏」である、という。今あるところから、悟りの境地にたどり着くための仮の手立て、とするのだ。川を渡るまではなくてはならない乗り物である筏だが、いざ渡りきった先に進もうとしたとき、では、筏を抱えて身動きが取れようか、というのだ。

 シッダールタは「すべての教えが筏である」、すなわちすべての言葉が仮の手立てである、とすら言っている。そしてここに、とんでもなく厄介な問題がある。「誰か」が渡るためには無数の「誰か」に適した言葉が用いられねばならず、しかもひとりの「誰か」にも無数の「パンニャーパラミタの進捗」がある。則ち適切に渡るためには、無数かける無数の言葉が仮の言葉として用いられねばならない。ならばシッダールタの言葉「そのもの」は、状況に応じ、半無限大に生み出されうる、とせねばならない。そして渡りきった先で、シッダールタがもたらした言葉「そのもの」を抱え込むことに意味はない。

 シッダールタの教えが偉大なものであるのは間違いがない、と繰り返しておこう。ここにどのような属性を付与することができるだろうか。「とある段階にある誰かを少しでも進めさせようとするための検証がしつくされた言葉」だからなのだ、と言えるのではないか。ならばその言葉たちの全体像が一貫性、普遍性を持つことは、決してない。けれどもあとに残された者たちは、シッダールタが示した言葉、という「本来意味のないもの」にすがるよりほかない。そしてややこしいのは「その言葉は、別の誰かに届きうる可能性も決してないとは言えない」、となることだろう。

 その、あまりにも広範に過ぎ、統一性を見出し切るのも不可能な言葉たちを受け取り、シッダールタの死後、弟子たちが途方に暮れたようである。そこで弟子たちが「結集」と呼ばれる討議会を開いた。そこで、多くの比丘たちにとっても比較的効力の高いであろう、あるいは比較的普遍性の高いであろうものが教義として収斂された、と見るのがいいのだと考える。幾度かの結集を経て、どうにかしてシッダールタの言葉たちは経典として成り立った。これそのものは人知の極み、というべきだろう。

 なのだが、これらの言葉すべては「最終的に捨て去るべきものである」とならざるを得ない。では、そんな無体な要求に、果たしてどれだけの人が耐えられるだろうか? 常識に考えれば、八割、九割の人間が無理だろう。無理なのにも拘わらず「それをしないと渡り切りようがない」というわけだ。全くもってひどいもんである。

 過去に般若心経を訳したとき、この辺りは「教義主義的になることから自由になれ」という感覚でいた。違った。そんなせせこましいものではない。いや、自分も言葉では言っていたのだ、「言葉で語れると思うな」と。けれど、これなのだ。

「言葉の外にあるものを、言葉では得ようがない」。

 般若心経がこの段において教義を殴るのは「言葉の中でも特に重んじられがちだから」でしかないのだろう。つまり「目立ったやつをとりあえず的にかけた」に過ぎないのだ。かわいそうな教義さんたち。



○なのでパンニャーをしろ


तस्मात् अप्राप्तित्वात्

故・無得故

बोधिसत्त्वाणां प्रज्ञापारमितामाश्रित्य

菩薩等・慧波羅蜜・依止

विहरति अचित्तावरणः

住・無心障

चित्तावरणनास्तित्वात्

心障無故

अत्रस्तः विपर्यासातिक्रान्तः निष्ठनिर्वाणः

無怖・倒超・究竟寂

त्र्यध्व व्यवस्थिताः सर्वबुद्धाः

三世・住・一切覚者

प्रज्ञापारमितामाश्रित्य

慧波羅蜜・依止

अनुत्तरां सम्यक्सम्बोधिं अभिसंबुद्धाः

無上・正覚・正覚成


「もとより『ない』ものを得ることなど叶わぬ。それを知るからこそ菩薩らはパンニャーパラミタにのみ務める。パンニャーパラミタに対し迷いや疑念といった障りを抱かぬからこそ、恐れを超越し、寂寞の境地に心を遊ばせる。これは過去におり、今おり、そして未来に生まれるであろう、すべての仏陀がたどり着く先である。彼らはただパンニャーパラミタに打ち込んだからこそ、これ以上なき目覚めの境地にたどり着いたのである。」


 そして、この段である。「菩薩たちが更なるパンニャーパラミタを進めることで、覚者へとようやく到る」。ここで、自分がダンマパダを読んで婆羅門-菩薩-仏陀とパンニャーパラミタの段階を置きたくなったのは、まさしく般若心経を通過したがゆえなのだ、と気づいた。これを仏教学的に正しい解釈と置く気はない。俺がここから先、迷いという激流を渡り切るに当たって、そう解釈するのが一番ピンとくる、に過ぎない。俺は仏教、厳密には般若心経およびダンマパダという筏を借りる身である。お借りすること、そのものには最大限の敬意を払う。しかし、最後には捨てる。

 俺にとってのパンニャーパラミタとはなんだろうか。こうして「思考を書き出すことで見つめ直し、より内部にあるものを精度高く描きだし、その上で捨て去る」ことだ。

 ここでも再び、荘子の言葉を持ち出そう。天道編より「君之所読者,人之糟魄己夫。」発された言葉は、発された段階で、もはや発信者にとっては「残り滓」なのだ。上で書いた髪の毛、爪、表皮、様々な体液、排泄物となにが変わるだろうか。俺にとってこのテキストは「吐き出し、吐き捨てる」ことに意義がある。ただし吐き出した後にも、このテキストで見出した「なにか」は未だ自分の中にある。吐き出したものを見返し、心と照らし合わせ、また中のものを磨き、あるいは削り取り、ゼロの境地にまでもっていくための「新たな筏」にすることは叶うのだろう。

 では、新たな筏でなにをするのか? 激流を少しでも進んだ先で、またより適切な筏に乗り換え、乗り捨てるのだ。



○gate


तस्मात् ज्ञातव्यं प्रज्ञापारमिता महामन्त्रः

故・知るべし 慧波羅蜜・大呪

महाविद्यामन्त्रः अनुत्तरमन्त्रः असमसममन्त्रः

大智呪・無上呪・無等呪

सर्वदुःखप्रशमनः सत्यम् अमिथ्यत्वात्

一切苦・除滅 真・非妄故

प्रज्ञापारमितायामुक्तो मन्त्रः तद्यथा

慧波羅蜜中・説・呪 即ち

गते गते पारगते पारसंगते बोधि स्वाहा

往・往・彼岸往・彼岸超往・覚・成就


「ならば、パンニャーパラミタを深めるマントラを授けよう。深き知が織り込まれ、これ以上なく、これに等しきマントラはない。このマントラの唱える先にたどり着くものからは一切の苦が消滅する。これは迷妄でも何でもない、確かなことである。このマントラをパンニャーパラミタに努めるさなかに唱えるべし。則ち――行った、行った。渡ったのだ、あの先に。完全に乗り越え、悟りは成った。」


 この最終段については、つい先ほどまで「方便」と見做していた。違った。いや方便は方便でこそあるのだが、それでいて「本当のことを書いている」と言うしかなかった。特にヤバいのが「अमिथ्यत्वात् 非妄故」である。この言葉がある時点で「方便」であるはずがないのだ。化物かよこの言葉を編んだやつ、である。では、この最終段。なにが「真のマントラ」か。

 गते

 である。「ギャテー」と読み、「行く」「至る」を意味する。ここまでの話で、散々に「言葉に囚われたままでは意味がない」と語った。では真に意味があることとはなにか。「それはどう頑張っても言葉にはならない」のだが、その直前までのことは言える。渡りきった先、なる境地に「गते」する、という「事実」である。マントラを見てみれば、わざわざ四回言わせている。別に「पार」とか「पारसं」なんかはどうでもいいのだ、おまけなのだ。おまけというか、「白い」を「とても白い」「めちゃくちゃ白い」というようなもので、主役は結局「गते」なのである。「この境地に行き着く」ことこそがすべてであり、それこそが「悟りの成った境地である」と説く。

 偉大なマントラと言っているわけだが、要はこういうことである。「悟りについては、このようにしか言い表しようがない」。このようにしか言い表しようがない境地のことを語っているのだから、確かに「深い知恵の言葉」であるし「最上級の言葉」であるし「並びようのない言葉」である。ただしそれは飽くまで「状態を表す」、ただの「真であり、虚妄ではない形容」という意味において、でしかない。「本当のことを言っているのだが、結局は方便」と言うしかなくなっている所以である。


 ならば、般若心経における「hṛdaya」とは「गते」を伝えること、であり、それ以外のすべてが「गते」のための筏である。そして最終的には「गते」をも捨てよ、と言うわけだ。

 こうして、後にはパンニャーパラミタを実践する自分のみが、入滅のその日にまで残るのである。そこには自分にとって何の意義も、価値もない。ただ、あり、作用する。それこそが心の完成となるのだ。さらには心の完成とすらいちいち言う必要もなくなる。


 こうして、ゼロとしての自分に――







 え、辿り着ける? 無理じゃね?

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揺察 般若心経 ヘツポツ斎 @s8ooo

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