はい、タカミナツスターク株式会社宇宙技術開発統括部製品技術開発部です
金嵩 宙三
1 夢の中でも仕事かよ 〜40代おっさん〜
薄ぼんやりとした空間が赤く明滅しているのが見える。
周囲があまりはっきりと見えないのは、光源が少ないからか、自分の意識が曖昧だからか。
他に目に付くのは、細かく黒いチリの様な物。無数に漂い、ゆっくりとどこかへ向かって流れていく。
あと視界に映るのは……、
「締まりが無い腹……。」
周囲の様子よりも、近年贅肉が蓄積しだした自分の体形の方が、気になってしまった。
どうやら、ずっと体に対して下方に頭を向けていたらしい。
肩や首の辺りが、一日中パソコン作業をしていたときの様に痛い。
そう言えば、今日の仕事も基本的にパソコンでの作業だった……、はず?
よく覚えていないけど……。
肩をほぐそうと、頭を上げ様としたところで、何故か身体が固まる。
視界の上方、つまり体に対して正面の方に、何かが動いているのが見えた気がしたためだ。
これ以上視線を上げてはいけない、と思う。
何と言うか、それを凝視するのが怖い。
でも、何だったっけ……?
見てもいないのに、それが何か思い出せないのに、何故か怖い。
そもそも今いるのはどこだっけ?
何故か記憶もはっきりしない。
よく見れば、足が地面から離れている。
と言うか、体の何処も床に触れている感覚が無い。
……もしかして、浮いている?
どうして、こうなった?
自分の置かれた状況が理解出来ないことが、急に不安になり、慌てて周囲を見渡す。
すると、正面の物体が思わず視界に入ってしまった。
ただ、直視してもそれが何か分からなかった。
思い出せ。
それはとても大切な……。
その物体は、手を伸ばしてもギリギリ届かないが、それ程遠くない位置に、浮かんでいた。所々突起があって、布の様な物が巻かれている。こちらに向かって伸びている突起の一つが、ゆっくりと上下に揺れている。
布は見覚えがある様な気がするし、揺れる突起も妙に気になるのだが……。
だめだ、やっぱり思い出せない。
周囲が薄暗い事もあり、その物体が何かを断定するのは難しい。
もしかしたら、最近視力が落ちたせいかもしれない。
パソコンの使い過ぎか、老化のせいか、最近は細かい物が二重、三重に見る事もある。
代わり首の痛みだけは認識できた。軽く頭を回してみるのだが、治らない。
こんな時に優しく揉み解してくれる家族でもいれば……。
と思ったところで、残念ながらこの薄暗い空間に漂っているのは、自分一人だ。
そう言えば、浮かんでいると言うことは、宇宙にいる?
そこでようやく、頭がすっきりした感覚になる。芋ずる式に色々な事を思い出してきた。
ここはスペースコロニー「銀翼」。
勤めている企業「タカミナツスターク株式会社」の「銀翼支部」に、つい3か月程前に転勤してきたのだった。
今浮かんでいる部屋は、製品を評価するための、第二大型製品評価室だったはず。
今日締め切りで、開発中の製品のソフトウェアを更新する必要があり、その動作確認を行っていた。
この部屋はそこそこ広く、ちょっとした屋内運動場の様な広さがある。
1チーム5、6人程度で行われる種目であれば、2~3面分確保しつつ、その周囲に観客を入れることも出来そうだ。
でも、この部屋、もっと広かったような……?
何故か違和感を感じたものの、その根拠までは思い出せない。
普段は、頻繁に訪れる場所では無いので、記憶違いしているのかもしれない。
先ほどから明滅している赤い光は、タカミナツスターク社がある「研究開発区」一帯に、何か重大な問題が発生したことを意味する。この区画からの退避が必要な事を示していたはずだ。
それか、避難の準備をしておく、だっただろうか?
被害の大きさによって、緊急度が異なり、それに合わせて警報の方法が変わる、とのことだったが、詳細は忘れてしまった。
同時にアナウンスがあるはずだが、今は聞こえない。周囲のスピーカーが故障しているのかもしれない。
いずれにしても、いつまでも空中に漂っている訳にはいかない。
少なくとも、この部屋から出なくては。
だが……、どうやって?
周囲の様子と比べても、今の今まで殆ど動いていない。
小さなチリが動いていることから、空調は生きている様だが、全く影響している様子が無い。
多少は流されても良いのだが、一向に壁面が近づく様子は見られない。
それに、避難口はどこだっけ?
広い空間ではあるが、壁の様子がとにかく見えづらい。
パソコンの使い過ぎ、と言うか、テレビゲームのやり過ぎか?
なるべく、部屋を明るくして、離れてやる様にしているつもりなんだけど。
目を細めたりしても、何故か霞んで良く見えない。
そこで、ふと気になることが視界に入って来た。
あれ?なんでズボンを履いていないんだっけ?
ここは会社の施設である。
仕事で来ているのだから、履かずにここにくる事は無い。
少なくとも、朝は履いて出社しているはずだ。
トイレに行った際にでも置いてきただろうか?
確かに、飛び散らない様にと、座ってする様にしているけど、全部は脱がないよ?
それとも、作業着に着替えたっけ?
この部屋は、製品の評価用の作業場だ。入室前に着替える可能性も考えられる。
だからって、その時に履き忘れる事は無いと思うが。
そう言えばこの部屋は、一人での作業は禁止だ。事故防止と、万が一時の早期発見のだめ、必ず2人以上で作業する事になっている。
下を履かずにここに来たら、まず間違いなく問題になるだろう。
が、そうなった記憶は無い。
そう言えば、一緒に作業していたメンバーは、どこに行ったんだろうか?
助けてもらおうと、名前を呼ぼうとして……、名前が出て来ない。
そもそも、誰と作業していただろうか?
するとようやく周囲の明るさが1段階上がった。
ただ、この明かりはますます悪い事態を意味する。
明滅の間隔が長くなり、数回明滅すると昼白色の照明が点灯、数秒ほどで消灯すると、また赤い明滅に代わる。
ああ、これは覚えている。
……不味いな……。
確か、研究開発区画で起きた問題が、居住区や他の重要区画に及ばない様に、区画の切り離しを行う可能性があるときの合図だ。
滞在者が避難時に周囲を確認しやすい様、通常照明を点灯するが、非常時であることも分かる様に、非常灯のみのタイミングが設けられている。
この場合、切り離しまでは30分以上は猶予があるか、まだ切り離しが確定でないことを示す。このまま避難解除になることもあるらしい。
ただ、説明してくれた同僚は、「これは本当にやばいから、仕事の事は忘れて、避難しろ。」と言っていた。
それに、近くのシェルターまでたどり着く必要がある。
被害の規模次第では、避難経路が無事とも限らない。急ぐに越したことはないだろう。
まずは何とかして非常口にたどり着かなければ、話にならない。
そう言えばさっきのあれ、何かに使えないか?
有効に活用出来ないかと手を伸ばそうとして、手が止まる。
よく見れば、こちらに向かって伸びている帯の様な部位の先が、5本に分かれている。
青く細長い糸の束。弱々しい赤紫色の光。
心臓を肋骨ごと引き抜かれた様な、胸の痛み。
そのことで、ようやくそれが何かを思い出した。
―――
ゴン、という音を立てて額を机に打ち付けた。
どうやら、寝ていたらしい。
今いるのは、だだっ広い微重力の空間ではなく、8畳程の部屋の机の前。
部屋には他にシングルサイズのベッドがあるのみ。薄暗い空間では無く、部屋中の明かりが付けっ放し。手元のノートパソコンも、机の上に置かれたライトスタンドも、テレビゲームと専用モニターもだ。
今日一日の作業で分かったことを記録するために、パソコンに向かっていたことを思い出す。
終わり次第、昨日からのゲームの続きをやるつもりだったのに、眠ってしまった様だ。
ずっと肩回りが痛かったのは、頭が垂れ下がって寝ていたことによる。
寝ている最中も痛みがあったのに、脱力して額をぶつけるまで起きなかったのだから、相当疲れていると言える。
あと4時間か……。
それが、本来の起床予定の時間だ。
一応さっきまで寝ていたのだが、まだまだ眠けを感じる。さっさと寝支度を整えて、ベッドで寝るべきだろう。
それなのに、先ほどの夢が気になる。
非常に嫌な夢だったと思う。
額や鼻頭は、触らなくても分かる程に、イヤな汗がまとわり付いている。
襟周りからも、揚げ物を揚げた鍋を、数日放置した様な臭いを感じる。
いや、これは歳のせいか?
以前は、ここまでじゃなかったはずなのに……。
昔から、この手のどうにも抗えない眠気に襲われて、重苦しい気分の夢を見ることがあった。
それ以外では、非常に眠りが浅い質だ。
こういうことがあった翌日は、大抵ろくな事がない。さっさと寝て、明日に備えよう。
明日、製品評価ってあったっけ?
もしあるなら、第二大型は使わない様にしよう。
明日の予定を簡単に確認する。
朝から打ち合わせ、面倒くさ。
見なかった事にして、パソコンを閉じて立ち上がると、そのまま向きを変えて、ベッドにうつ伏せに倒れこんだ。
枕、くさ……。
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