第36話 初めての川釣り(中)

 ポトンと毛鉤が水面に落ちる。

 ピンポイントで狙ったところに落とすことは出来なかったけれど、今のは良い感じだ。


「おっとヒロ君、なかなか筋が良いな。良い竿の振り方をする」


 僕は鼻を膨らませる。


「これなひと安心だ」


 おじちゃんは僕の背中をポンと叩く。


「あとは魚がいるところに毛鉤を届けてやるだけだ。魚がいないところにいくら毛鉤を投げても、食いついてくれないからな」


 この場所はおじちゃんの『秘密のポイント』ではないらしいが、魚が釣れる良いポイントには変わりないらしい。川から岩の頭が出ていたり木が迫り出したりと、見るからに釣れそうな匂いがプンプンしている。釣りの動画で見かけるそれと同じだ。

 ここより良いポイントがあるなんてドキドキする。


「魚はいそうなんだけどなー」


 僕が足場にしていた岩から川の中を覗くために体を乗り出そうとすると、「ヒロ君」とおじちゃんがそれを止める。


「魚をびっくりさせちゃダメだ」


 おじちゃんは首を横に振る。


「びっくりさせる? 静かにしてるよ」


 音で魚が逃げないように注意して、ゆっくり静かに動いた。それぐらいなら僕だって分かる。頭の中にクエスチョンマークが浮かぶ。


「魚だって目はついてるぞ」

「確かに目はついてるけど、水中からこっちが見えてるってこと?」


 おじちゃんは頷く。


「本当に?」


 言われてみたらそうかもしれないけれど、水の中にいる魚が僕たちを見ているなんて信じられない。というか、考えてもみなかった。


「魚だって人間と同じ生き物だ。何ら変わりはねえ」

「う、うん」


 納得できない顔をしている僕を見ておじちゃんは、にこりと笑う。


「なして池の鯉は餌を貰いに近寄ってくる?」


 はっ、として僕は目を見開く。


「ヒロ君は海の近くに住んでるんだったな。川ってのは海ほど広くね。川岸に人の姿があったら魚だって警戒するだろ?」

「田んぼの近くを歩いている時に、小川にいる魚が逃げていくのを見たことがある」

「そう、それなんだよ。魚からしたら川の近くをただ歩いているだけのか、自分を食べに来たのか分からないだろ? だから取り敢えず身を隠しておこうと思っちゃうんだよ。音にも反応するから、もちろん静かにすることも大事。水中と陸上って別ものな気がするけれど、陸からの音は水中にも伝わる。だから静かに近づくこと」

「分かった。魚も生き抜くのに必死なんだね」


 おじちゃんは「そうだぞ。だからこっちも必死にならないとな」と、僕の頭に手を置いた。帽子の上からでも、大きくてゴツゴツした手だってのを感じる。温かくて大きな手、ゴツゴツしてるけれど優しい手。


「自然てのはつながっているんだよ。大切にしなきゃだな」


 おじちゃんはそう言いながら、大切なものを見るようにゆっくりと辺りを見回す。僕もそれに倣って周りをぐるっと見る。とても綺麗だった。夏の暑さの中、キラキラと光る川の上を通ってきた風が心地良く感じた。


「魚が嫌いなことが他にもあるけれど、何だと思う?」

「何だろなー。川に物を落としちゃダメ、とかかな」

「それをしたら台無しだからな」おじちゃんはくすりと笑う。「それも大切なんだけれど、正解は影だ」

「影? 影なんかが関係があるの?」

「そう、魚は影を嫌がるんだよ。何でだと思う」

「えーっと」


 おじちゃんは、ヒントはこれだ、と人差し指を立てて天を指差す。

 指先を目で追いながら顔を上げると、真っ青な空に白い雲が浮かんでいる。


「空? そっか、鳥だ」

「そう、川の真ん中に影を落とす生き物は、自然界だと鳥が一番多い。鳥は魚にとって天敵だ。サッと影が通ると魚はビクッと動いちゃうんだよ。そうなると、何故だか魚が食いつかなくなる。まあ、釣りしている分には心配しなくても良いけれども、狙ったポイントに影が通ったすぐあとは気を付けてな。博士じゃないから詳しいことは分からん。おんちゃんの勘違いかもしれないけどな」

「そうなんだ。分かった」


 僕は頷いた後にもう一度、空を見上げる。


「分かったなら、次は釣りの極意だ」


 僕の心は『極意』という言葉に反応する。だけれど、目の前にいる仙人にそれがバレないように、ゆっくりと上げた顔をおじちゃんに向ける。


「掛けてみな」


 おじちゃんは胸ポケットからサングラスを取り出す。プロの釣り師たちが掛けている、あのかっこいいサングラスだ。


「うん」


 大人用のサングラスは僕には少し大きい。ずれ落ちないように、両耳のところを手で押さえる。誰かさんがいたら、鼻が小さいからなんてバカにしてきそうだ。


「川さ見てみろ」

「あっ、偏光グラスだ!」


 キラキラした光が抑えられて、水の中が見えるようになった。


「よく知ってるな」


 おじちゃんは僕のことをバカにしたりなんかしない。そんな、亮兄ちゃんに厳しくて僕には優しいおじちゃんは話を続ける。


「ヒロ君。今、君は魚だ。目の前の川だったら、どこで泳いでいたい?」

「それってどこに魚がいるかってクイズ?」


 おじちゃんはニコリと笑って、コクコクって頷く。僕は、自然が作り出したクネクネと流れる川に目を遣る。

 川は海と違ってずっと同じ方向に水が流れている。水深も深くないから、底まで泳いでいけば波の影響を受けないなんてこともない。マグロなんかの回遊魚みたいに、常に泳いでなければいけなそうだ。


「うーん。ずっと泳いていたい所はないかも。どこも流れが早くて、泳いでたら疲れちゃいそう。もっとゆっくりな所が良い」

「ありゃ、ヒロ君は正直だな。でもな、この辺にいる川魚はこれぐらいの流れなら難なく泳げるんだ。すごいだろ?」

「うん」

「んだば、どこだ?」


 再び僕は、おじちゃんから川に視線を移す。ひょっこりと頭を出した岩の近くに、魚らしき姿を確認する。

 海の中を覗くと、岩の近くに根魚が泳いでいるのを目にする。それを思い出した。


「岩の近くとかかなぁ」

「おっ、良い所を選んだな。岩の近くは敵から逃げやすいからな。正解だ」

「やった!」

「でもな、流れの早い所が好きな魚もいるし、ゆっくりな所が好きな魚もいる。力の強いやつは岩の近くをナワバリにしたりもする。意地悪を言うとどこを言っても正解だ」

「何それー、そんなのクイズじゃないじゃん」


 僕がガッカリすると、おじちゃんはそれを見て笑う。それを見た僕も、つられて笑っちゃう。


「でも、魚はいるはずなのにヒロ君の毛鉤に食いつかないのはなぜだろうな」

「うーん。下手だから?」

「下手かぁ、今度は半分正解にしようかな」

「半分なの?」

「そうだ、半分だ。ヘタクソだって釣れる時は釣れる。ビギナーズラックってやつだな。ちょっと貸してみな」


 おじちゃんは僕から竿を受け取る。


「この釣りは魚と人との真剣勝負だ。勝つためにはこっちも色々と工夫をしなけりゃダメだ」


 仙人の極意を習得するために、僕は真剣な眼差しでおじちゃんのことを見る。

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