第47話 託された思い

 9月6日水曜日。誠也せいやはほとんど眠れぬまま朝を迎えた。曇天の下、駅に着くとえり子がいつも通り笑顔で迎えてくれる。

 

「おはよ、片岡! 昨日は眠れた?」

 誠也は首をすくめて答える。

「いや、あんまり」

「うにゃ~。だよね、実は私も」

 誠也とえり子はいつも通り、改札口を抜けていく。途中駅で空いている電車に乗り換えても、今日の二人は終始無言だった。


 電車がトンネルを抜けても、今朝は厚い雲が広がり、車内は薄暗かった。

「おととい言ってた熱帯低気圧、昨日の夜、台風になったよ。週末、関東に近づくみたい」

 えり子が分厚い雲に覆われた空を眺めながら呟く。

「文化祭、大丈夫かなぁ」

 誠也もぼんやりと空を見ながら心配する。

「金曜日に最接近するって。今のところ直撃はしないみたいだけど」

 そう言ってえり子は、お天気アプリの画面を誠也に見せてくれた。その画面を見ながら、誠也は深く溜め息をついて言った。

「無事に文化祭当日を迎えられるといいんだけど」


 ♪  ♪  ♪


 放課後。誠也は緊張した面持ちで、パート練習の教室にいた。15時45分。まりん先輩との約束の時間まで、あと15分だ。トランペットパートの他のメンバーは、それぞれウォーミングアップを開始していた。

 元々今日はヤマセンの合奏の予定だったが、部活開始時のミーティングで、急遽パート練習に変更となったとアナウンスされた。昨日の合奏で指摘された内容を再度確認するように、という大義名分はあるが、誠也は何となく友梨ゆり先輩の計らいであると感じていた。誠也がまりん先輩と会う約束を取り付けたことは、昨夜のうちに友梨先輩には報告済みである。


(ちょっと早いけど、そろそろ行こうかな)

 そう考えて誠也がおもむろに席を立ち、楽器をケースにしまい始めると、トランペットパートの面々は音出しを止めて、誠也に視線を集めた。

 

「よろしく頼むぞ」

「頑張って!」

 

 パートリーダの直樹なおき先輩をはじめ、それぞれのメンバーが誠也にまりん先輩への思いを託して、声をかけてくれた。その中でただ一人、えり子だけは何も言わず、誠也と目が合った瞬間、軽くウインクをしてきた。誠也にはそれが、えり子の誠也に対する信頼の証だと察して、誠也もそれに対し軽く頷くだけにとどめた。



 まるで戦地に赴くかの如くトランペットパートのメンバーに見送られて、誠也はパート練習の教室を後にした。まりん先輩の指定してきた2年7組は、誠也たち1年生が普段授業を受けている教室や音楽室、パート練習で使用している教室などとは別の建物にある。

 誠也は渡り廊下を抜けて、普段は基本的には立ち入ることの無い、主に2年生が使う棟に入った。同じ学校内でありながら見慣れぬ景色にさらに緊張を高めつつ廊下を進むと、左手に2年7組の教室を見つけた。

 

 廊下から教室の中を覗くと、誰もいない様子だ。誠也は静かに扉を開け、電気をつけた。

「失礼します」

 誠也は小声で挨拶をしながら教室に入り、扉を閉めた。見慣れぬ2年生の教室に居心地の悪さを感じつつ、まずは窓際まで歩いていき、外を眺める。午後から風は強まってきたが、今朝の曇天が嘘のように日差しが降り注いでいる。

 お天道様も「きっと大丈夫だ」と言ってくれている気がした。誠也は心を落ち着かせると、まずは教室前方の適当な席に着いた。


 15時50分。約束の時間まで、まだ10分ある。静寂の中、目を閉じる。教室の外の風の音だけが、誠也の聴覚を刺激する。


 伝えたいことは沢山ある。しかし、昨夜徹夜で誠也が考えたシナリオは、まずまりん先輩の話を聞くことだ。恐らくまりん先輩の性格上、こちらが何を言っても最初は素直に応えてくれないだろう。だから、誠也は先輩の苛立ちに巻き込まれないよう、まずは落ち着いて話を聞こうと考えていた。


 予想される会話を、頭の中でシミュレーションをしていると、廊下からかすかに足音が聞こえてきた。誠也が目を開けて時計を見ると、約束の時間までまだ5分以上ある。

(まりん先輩以外の誰かか?)

 誠也に先ほどとは別の緊張が走る。1年生の生徒が一人で2年生の教室にいるなど、不審極まりない。


 足音は教室の前で止まった。扉が開くまで暫し間がある。誠也の不安は徐々に確信に変わった。扉が開くと、果たしてまりん先輩が姿を現した。


 誠也は反射的に席を立つ。


「まりん先輩……」

 目の前にまりん先輩が立っている。誠也はそれだけで、不覚にも涙が溢れそうになるのを必死に堪えた。


「おう、待たせたな」

 一方のまりん先輩は、何の感情も示さずぶっきらぼうにそう言うと、扉を閉めて、教室の後ろの方の席の横に立った。


「いえ、まだ約束の時間前ですので。……まずは来て頂いてありがとうございます」


 まりん先輩はフンっと鼻を鳴らして、机の上に腰を掛けた。


 

「とっとと用件済ませてくれない? ただでさえ生理中でイライラしてんだから」

 あまりにも赤裸々なまりん先輩の言い草に誠也は一瞬怯んだが、努めて冷静さを保つ。

「それは大変な時にすみません。お身体辛いですよね」


 まりん先輩は腕を組みながら、気怠そうな表情で答える。

「男のくせにやけに物分かりがいいじゃない」

「生理中の女性には特に気遣うようにと、日ごろから母とえり子に言われているもので」

「ふんっ、結構な嫁を持ったもんで」

「……嫁ではないですが」

 

 微笑みながら話す誠也に対し、まりん先輩はまるで興味が無いといった様子で窓の外に視線を移しながら続ける。

「で、用件は?」


 不意に話のきっかけを与えられた誠也は、事前に考えていた通りに進めることとした。

「まずは、まりん先輩のお話を伺おうかと」


 誠也の問いかけに、まりん先輩は窓の外を眺めたまま答える。

「話? あんたなんかにする話なんてないわよ」

 

「でも、先輩も話したいことがあったから、来てくれたんじゃないですか? そうじゃなければ俺のLINEを無視することだってできたはずです」

 誠也は、昨夜まりん先輩から返信が来た段階から、まりん先輩自身も部活への復帰の糸口を探しているのだろうと考えていた。そのため、先輩の内なる思いに働きかけるような言葉を選んだつもりだった。

 しかし、誠也の期待とは裏腹に、まりん先輩の態度は全く変わらない。

 

「別に。あんたが、約束のパンツ見せろっていうから来たまでよ。ほら、さっさと見れば?」

 まりん先輩が挑発するようにスカートの裾をヒラヒラと動かす。

 誠也は黙ってまりん先輩から目を逸らすと、まりん先輩は嘲笑しながら言う。

 

「どうせあんたなんかに、そんな勇気ないくせに」


 まりん先輩のその一言で、誠也は不覚にもくだらぬ闘志に火を点けてしまった。元々、誠也はディスカッションの場において、時として熱くなり過ぎてしまうきらいがあった。その度にえり子に手綱を引かれて冷静さを保ってきたが、今日はそんなえり子もいない。

 

「先輩だって、ハナからパンツなんて見せる気ないですよね?」

 図らずもまりん先輩の挑発に乗ってしまった誠也は、まりん先輩を見下すような笑みを浮かべながらそう言い放つ。

 

「は? あんた私に喧嘩売ってんの?」

 そう言って目を見開くまりん先輩に、あろうことが誠也は更に挑発を重ねる。

「いつもの見せパンなら、さっきからチラチラ見えてますけど」

 まりん先輩の鋭い眼光を認めながらも、誠也は続ける。

「先ほど先輩は、今日は体調が良くないと仰いました。もし本当に見せる気があるなら、前みたいに『今日は無理だ。今度にしてくれ』って言うはずでしょう。なのに今日、先輩はここに来た。それは別の目的があったからじゃないですか?」

 

 まりん先輩が目を見開きながら絶句したのを認め、誠也は勝利を確信した。が、次の瞬間、ふと我に返る。


(勝利ってなんだよ! まりん先輩とバトルしてどうすんだ!)

 

 誠也はここにきて初めて後悔する。初めは下手したてに出て先輩の話を聞き出そうと考えていたのに、ついまりん先輩の挑発に乗ってしまった。


(まずは、素直に謝るか……)


 そう思った瞬間、事態はあらぬ方向に動き出した。

 まりん先輩は誠也を睨みつけながら、腰かけていた机から降りて一歩前に出る。そして無言でスカートの中に手を突っ込み、スパッツを脱ぎだした。

 

「ま、まりん先輩! やめてください。俺が悪かった……」

 誠也が慌てて謝罪し制止を促すも、まりん先輩は全く聞く耳を持たない。足首まで下ろしたスパッツから両足を抜くと、それを拾い上げて、誠也の方に投げつけた。

 

「これでいいんでしょ? さっさとスカート捲って、好きなだけ見なさいよ」

 まりん先輩の低くゆったりとした口調は、誠也の恐怖と後悔を煽るのには十分だった。

 

「まりん先輩、俺が悪かったですって……」

 誠也はどうしたら良いかわからず、苦悶の表情で訴える。

「私から約束したことだ。セクハラや痴漢で訴えたりはしねーよ」

 まりん先輩は無表情で誠也を冷たく見下ろす。

「先輩!」

 あらゆる感情を棄てたかのように全く動じないまりん先輩を前に、誠也は為す術がなかった。

 

 ここにきて誠也は、今更ながらこの作戦が失敗であったことに気付いた。プライドの高いまりん先輩に対し、先に話をさせるということ自体が誤りだったのだと悟った。


 暫しの沈黙ののち、誠也は声のトーンを落として話し始める。

「ごめんなさい。俺が調子に乗り過ぎました」

 

 誠也の訴えもむなしく、まりん先輩は尚も冷ややかな視線を誠也に与えたまま、動じない。


 

 「正直に言います。先輩に聴いてほしい話があります。まずは、俺の話を聴いて頂けないでしょうか」


 再び訪れる沈黙。誠也は皆から託された思いのプレッシャーに押しつぶされそうになりながら、何とか踏ん張って再びまりん先輩が口を開くのを待った。

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