第29話 二つ目の課題
7月25日。初めてのバンド練習の翌朝、
トンネルを抜けると真夏の太陽が容赦なく照り付ける。
「はにゃ。今日は37度予想だって。私、もうだめだ。片岡、今までありがとう」
大きな瞳がチャームポイントのえり子の眼が、今朝はほとんど開いていない。
「遺言残す割には、朝からよく食うな」
先ほどからえり子は、何の感情も無い機械のように、一定のテンポでグミを口に運んでいる。そんな様子を誠也は呆れながら見ていた。
「昨日のひまりん、すごかったね」
相変わらず土偶の様な目をしたえり子が、不意に呟く。
昨日、初のバンド練習の際、
「確かにな。圧巻だったよな」
誠也もそれに同調する。
「なんか、『魅せる』って、今まで軽々しく言ってたけど、ひまりんは完全にレベチだったね」
えり子はそう言って、遠い目をしながら、相変わらずのんびりとグミを口に運ぶ。
「そう言えば、来月号のバンドジャーナル、特集が『魅せるステージ』だったよ」
誠也が思い出したように言うと、えり子は少しだけ目を見開いた。
「ほへ? 見たい。貸して」
そう言って手を出すえり子に、誠也は呆れて言う。
「発売日、来月だよ」
「ふぇ~、楽しみ~」
えり子の元気が少しだけ復活し、誠也は安心したのも束の間、再びえり子は小さくため息をつく。元気が取り柄のえり子が、こんなにも元気が無いのは珍しい。ここにきて、えり子のテンションの低さは、今日の最高気温だけじゃないことに誠也が気付いた矢先、えり子が誠也に唐突に問う。
「ねぇ、片岡。私って、かわいい?」
「はい? 何の話?」
何の脈絡もない問いに誠也は戸惑っていると、えり子が再び口を開く。
「私、ひまりんみたく可愛く歌えるかなぁ~」
えり子のその一言で、誠也はえり子の言いたいことが分かった気がした。
「やりたいんだな、あの曲」
「うじ」
そう言って、えり子はうつむく。こんなに自信を無くしているえり子は珍しいが、昨日の陽毬のあのパフォーマンスを見せられたら、誰でもそうなるだろうなと、誠也は思った。
「チャレンジしてみる価値はあるんじゃないか?」
誠也はえり子の背中を押そうと、明るくそう言ったが、えり子は「うん」と力なく微笑むだけだった。
♪ ♪ ♪
午前9時。部活動開始。今日は午前中パート練習、午後は合奏。コンクールメンバー以外は例によって終日パート練習または個人練習となるが、文化祭に向けての係活動も入ってくる。誠也の所属する大道具係は、早速14時半からミーティングが組まれていた。
午後。13時半から合奏。誠也たちトランペットパートの1年生は例によって、空き教室で個人練習を始めた。誠也はこの夏、基礎トレーニングに重点を置くことにしていたため、午後も初めはロングトーンから丁寧に基礎練習メニューに取り掛かった。
外は灼熱の世界だが、エアコンの効いた教室では快適に練習ができる。誠也はその恩恵に与かりながら、大道具係のミーティングまでの1時間、練習に没頭するつもりだった。
しかし、30分ほどたった14時過ぎ、合奏に出かけた先輩たちが戻ってきた。
「あれ? 先輩たち、どうしたんですか?」
「なんか今日、演奏に纏まりが無くてね。ヤマセンが『これ以上続けてもしょうがないから、今日は合奏中止』って」
誠也は意外に思った。温和そうに見えるヤマセンでも、合奏を中止することもあるのだと。
「やる気のない連中がいるからよ。こんなくだらない時間使うなら、予備校の課題進めてた方がマシ」
まりん先輩がぶっきらぼうにそう言い捨てる。
「まぁまぁ、あまりそう言う事、口に出すなよ」
「ふん、くだらない」
そんなまりん先輩の様子を、他の先輩たちはそれ以上咎めようとはしなかった。その雰囲気から、誠也たちは恐らく、まりん先輩の怒りの矛先はトランペットパートのメンバーではないことは推察できたが、それ以上のことは知る由もなかった。
「それじゃ、俺たち、移動しますね」
誠也が楽器と譜面台を持って席を立つ。
「すまない。いつまた招集がかかるかわからないから」
パートリーダーである
誠也たちはパート練習の教室から、いつもの個人練習の教室へ移った。
「ヤマセンが怒って合奏止めるなんて、よっぽどじゃない?」
移動した教室に着くなりえり子がそう言うと、
「まぁ、これまでもたまにあったみたいだけど、珍しいことよね」
「まりん先輩が3年生の前でも堂々と不満を漏らすってことは、原因は2年生なのかな?」
颯真がそう予想する。その推論は正しいだろうと、誠也は思った。
そうこうしているうちに大道具係のミーティングの時間が近づいたため、誠也は個人練習を抜けて、集合場所の教室へ向かった。
廊下を歩いていくと、オーボエの音色が聞こえてきた。凛としたその音色を発する教室の前を通りかかると、はたして
多希とは最近、直接話はしていないが、とりあえず心身ともに元気そうで何よりだ。
14時半。音楽室の下のフロアの教室に大道具係の面々が集まった。とはいっても、集合したのは当然コンクールメンバー以外となるため、1年生は6名全員そろったが、2年生はサックスパートの河合
「とりあえず、構成から送られてきたメインテーマに沿って、大道具的に何をやるかを話し合っておいてって、
妃花先輩は優しい笑顔でのんびりとそう話す。大道具係の2年生の暫定リーダーは、パーカッションの飯田柑奈先輩に決まったと聞いていた。各係とも新リーダーは2年生の中から話し合いで決定する。「暫定」とついているからには、変更する可能性があることを意味する。9月の文化祭終了後、3年生から2年生へ世代交代する際に、部長や副部長など所謂「役員」が選挙で選出される。役員と係のリーダーは兼任ができないため、係のリーダーが役員に選出された場合は、改めてリーダーを選任する必要がある。そのため、この時期は「暫定リーダー」と呼ばれるらしい。
「テーマは『プレゼント』って伺ってるんですが、他に2年生の中で既に話してることってありますか?」
フルートパートの松村
「いや、特に2年生の中では話していることは無いよ」
妃花先輩が変わらず優しい笑顔で答える。
「なんか、テーマが抽象的過ぎて、どうしたら良いのやらって感じですよね~」
パーカッションの神田
「そもそも、なんで『プレゼント』っていうテーマなんですかね? 俺たちから当日の来場者に『演奏をプレゼントします』的な意味なんですかね?」
誠也がそう問うが、妃花先輩はあいまいな返答に終始する。実は誠也は構成係であるえり子や陽毬から、今回のテーマの詳細について聞いていた。しかし、この場でアンダーグラウンドで得た情報を流すわけにはいかないので、ディスカッションを進める意味合いで、わざと知らぬふりをして俎上に載せたところ、まさかの2年生が分かっていなかったというオチである。
「ふぅ、どうしたものか……」
そう言って果穂がため息をつく。2年生の連携の無さや、たたき台も無くいきなり1年生に仕事を振る姿勢に、呆れている様子が透けて見えた。
恐らくそれは実乃梨も同様だろう。先週まで構成係で問題となっていたことが、早速大道具係でも今まさに起ころうとしていた。
誠也は構成係と同じ轍を踏まぬよう、提案をする。
「ちょっとこのままだと、ディスカッションのとっかかりが無いので、今一度テーマを確認した方が良さそうですね。河合先輩、飯田先輩がテーマの詳細について、構成係から他に聞いていることは無いかを、確認してもらえますか?」
「うん、わかった」
妃花先輩は、笑顔で答える。
「それから、俺たち1年生はある程度大きい範囲になっちゃうけど、大道具係として出来そうなアイディアを考えておくってことでどうかな?」
誠也の提案に、1年生5名も同調する。かくして、第1回目のミーティングはあっけなく短時間でお開きとなった。
ミーティングの教室から個人練習の教室に戻る際、誠也は果穂と一緒になった。果穂と言えば、以前、陽毬が上原
「私さ、構成の陽毬からテーマについて事前に聞いてたんだけど、妃花先輩全然わかってなかったよね」
廊下を歩きながらあっけらかんとそう言う果穂に、誠也は軽くたしなめた。
「声が大きいって。他の先輩に聞かれたらまずいよ」
「あ、ごめんごめん」
果穂は苦笑しながら肩をすくめ、更に続ける。
「でも、誠也くんもさっきの言い方じゃ、リコちゃん辺りから話聞いてたんでしょ?」
「まぁね。一応予習がてら」
「普通そうするよね。なんでそんなこともできないかな~。今日の合奏中断も、どうせ2年生が原因でしょ?」
誠也はこの会話を誰かに聞かれやしないかとヒヤヒヤしながら、個人練習の教室に戻った。
♪ ♪ ♪
17時、部活終了。パートリーダーはこの後、今日の合奏についての振り返りをするため、パートリーダー会議を開催するとのことだった。
誠也たちはそちらの様子を気にしつつも、特に何もできることは無く帰路に就いた。
駅からはいつも通り、誠也、えり子、陽毬、
「なんか最近、2年生がうまくいってないよね~」
奏夏が口火を切ると、陽毬が続く。
「やる気がないメンバーと、悪気はないんだけど消極的なメンバーが多いよね」
確かに、と誠也も同調する。誠也から見て、大道具係の妃花先輩も決してやる気がないとか、悪い先輩じゃないと思っている。しかし、どうも積極性に欠けているのだ。
「演奏にしても、係活動にしても、3年生が割とレベル高い先輩多いから今まで目立たなかったけどね」
誠也がそう言うと、えり子が続く。
「でも、不思議よね。特に申し合わせて入ってきたわけじゃないのに、学年によってカラーが分かれるのって」
確かにそうだ。それは誠也も中学校時代から感じていたことだ。例えばトランペットパートの3年生は、3人ともリーダーシップを執ることに優れている。パートリーダーの直樹先輩は言わずもがなだが、彩夏先輩も直樹先輩をサポートしながら、パートをまとめているし、咲良先輩も懇親会の段取りなんかは素早く的確に行う。一方、トランペットパートの2年生も、3人ともまじめに部活に取り組んでいるが、リーダーシップを執るタイプかと言われると必ずしもそうではない。みんな無意識のうちに、3年生に頼り切ってしまっているが故なのか、それとも単なる偶然なのか? 誠也には判断しかねるところだ。
乗換駅で陽毬と別れ、誠也はえり子と二人になった。
「ふぇ~……」
地元の駅を降りて歩いていると、えり子が深いため息をついた。
「どした?」
誠也が心配して、えり子の横顔を見る。ツインテールに結われた髪が、えり子の歩調に合わせて力なく揺れている。
「結局、『アイドル』の件、ひまりんに言い出せなかった……」
「……そっか」
誠也はあまりよく理解していなかった。確かに昨日の陽毬のステージは素晴らしかったが、えり子がそこまで悩むほど、ハードルの高いものなのだろうか?
「ねぇ、片岡」
「なに?」
それまで自分の歩く少し先の地面を見つめながら話していたえり子が、急に歩みを止めて誠也を見る。
「文化祭のステージ、頑張ったらご褒美くれる?」
そう言ってえり子は、力なく微笑む。
(きっと、あとほんの少し、背中を押して欲しいんだな)
誠也はそう解釈し、笑顔で答える。
「いいよ、ご褒美。何が欲しい?」
「うーん、それは片岡に任せるよ」
そう言って、えり子はまた、視線を足元に落とす。
「わかった。ご褒美、考えておく」
「ありがと。わたし、期待して頑張っちゃうから」
えり子にしてはやや控えめな笑顔でそう言うと、再び歩き出した。
「じゃ、また明日!」
「お疲れ~」
いつもの公園でえり子と別れ、誠也は自宅に向かった。
♪ ♪ ♪
夜。誠也は湯船につかって一日の疲れを癒す。
(それにしても、えり子、随分文化祭のステージのこと、気にしてたな)
今朝と言い、帰り道と言い、えり子の「らしくない」笑顔が妙に気になった。まぁ、えり子のことだから、きっとなんだかんだ言って、頑張って最高のステージにしちゃうんだろう。そしたら、ちゃんと褒めてあげなくちゃいけない。
(ご褒美かぁ。えり子、何が喜ぶかな……)
そこまで考えて、誠也はハッとして、思わず鳥肌が立った。
文化祭1日目は9月9日。えり子の誕生日だ。
誕生日、ご褒美、さっきの控えめな笑顔。そして、ご褒美の内容は誠也に任せると言った。
(あー、そう言う事なのか?)
誠也はこの夏、どうやらもう一つ、別の課題もクリアしなければならないようだった。
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