第20話 七夕の願い事
誠也は予め皆に連絡をしておこうとLINEを開くが、「魅せる吹奏楽」のグループが見当たらない。不思議に思ってよく確認すると、「
誠也が「Osteria La Gemma」の店内に入ると、えり子たちがいつものテーブルで談笑しているのが見えた。
誠也がテーブルに向かう。
「遅くなってごめん!」
「あ! 片岡、お疲れ! 多希ちゃん喜んでくれた?」
えり子が誠也のスペースを開けるために席を詰めながらそう問う。
「ああ、たぶんね」
誠也はそう応えながら、えり子の隣に座る。
「しかし誠也ったら、妻がいるのに堂々と浮気とはね~」
奏夏がいたずらっぽい笑顔で言う。
「ホントよ、あなた!」
調子に乗るえり子に、誠也は呆れ顔で言う。
「誰だよ、お前は」
「片岡えり子と申します」
ちょうどそこに店員さんが通りかかったので、誠也は店員さんを呼び止める。
「あ、すみません、烏龍茶ひとつ!」
「うぎゃ~! 無視しないで~!」
そう言って、えり子は頬を膨らませる。
茶番劇が落ち着いたところで、誠也の烏龍茶が届き、一同は改めて乾杯する。
「この雰囲気だと、
誠也は、奏夏が冗談を言ってくるくらいなので、大方話の流れは察しがついていた。
「うん。みんなに話聞いてもらって、なんかスッキリしちゃった」
奏夏が晴れやかな表情で言う。
その後、奏夏は誠也にこれまでの経緯を話してくれた。
今日、パート練習が始まった時点で、ホルンパートでは「夏鈴遅いですね」くらいしか気にしておらず、まさか夏鈴が部活を辞めたとは誰も思ってもいなかったらしい。その後、部長の
奏夏たちが友梨先輩に理由を聞いても、友梨先輩も本人から届け出があったことしか聞いていないとのことだった。今後、夏鈴の退部届が受理されて、退部が正式に決定した時点で公式にアナウンスされるらしい。
友梨先輩が去った後、奏夏たちが夏鈴に連絡をしてみようとLINEを開くと、既にいくつかある部活関係のLINEグループから夏鈴は抜けていた。一応、奏夏が個人的にLINEを送ってみたものの、既読は付かないとのことだった。
それから暫く、ホルンパート内では夏鈴の話になったようだ。同じ学年の奏夏にも、そしてパートリーダーの
ここまで話を聞いて誠也は、えり子に予め確認しておくべきだった大事なことに気付いた。
誠也は迂闊に口を挟めない状況に陥った。誠也は「う~ん」と唸って考えるふりをしながら、テーブルの下でえり子の膝を軽く叩いて合図を送る。
(えり子が意図に気付いてくれればな……)
そう思っていると、えり子が誠也の手の上にそっと自分の手を重ねる。
(ん?)
誠也がその意図を分からずにいると、えり子は微笑みながら、そのまま誠也の手を軽く握ってきた。
(あ、えり子さん、違いますよ? イチャつきたいんじゃなくて……)
誠也はえり子の膝を少し強めに押しつつ、言った。
「しかし、誰にも言わずに辞めちゃうとはねぇ」
ここにきて、勘の良いえり子がようやく誠也の意図に気付いてくれたらしい。今度は「わかったよ」と言うように誠也の手を擦りつつ、えり子が言う。
「同じ中学校出身の真梨愛ちゃんには、何か言ってなかったのかしらね?」
えり子のこの一言で、誠也はえり子が真梨愛の件を話していないことが分かった。誠也は「ありがとう」という意味を込めて、再びえり子の膝を軽く叩いて、手を離す。
「真梨愛ちゃんに確かめるんだったら、担当は誠也くんよね」
陽毬が笑いながら言う。
「え~? 俺かよ。荷が重いなぁ~」
誠也は表向き渋りつつも、陽毬の振りがありがたかった。元々週明けには真梨愛に話を聞くつもりでいたし、そもそも他の誰かが真梨愛に話を聞いたら、辻褄が合わなく恐れがあったので、助かった。
「今までパート内でさ、夏鈴が退部を匂わせるような言動ってなかったの?」
今度は誠也が奏夏に聞いた。
「うーん、実際のところ、夏鈴とは必要最小限の話しかしなかったからね」
そう言う奏夏に、今度は
「でもさ、初めのうちはコンクールメンバーの選出に不満を漏らしていたんだよね?」
奏夏はため息交じりに応える。
「うん。そうなんだけど、いつからか全然そう言う話もしなくなっちゃったんだよね。私たちに何を言っても無駄とでも思ったのかしらね?」
誠也は奏夏の言い方が意外にも辛らつだなと感じたが、まぁ、何の相談も無しに退部届を出した相手に対しては当然かな、とも理解した。
「なるほどな。俺は夏鈴と直接話したことないから、よくわかんないけどな」
誠也がそう言うと、えり子が答える。
「そう、さっきもその話題になったんだけどさ、さかな以外、私たち誰も夏鈴ちゃんとほとんど話したことないのよね」
誠也たちがこの春入学し、吹奏楽部に入部してまもなく3か月が経とうとしている。部員は90名以上、1年生だけでも30名以上いるため、1年生に限っても全員と話す機会があったわけではないが、少なくともすれ違えばお互い挨拶くらいはする。しかし、夏鈴に対しては、それすらも皆記憶がないというのは、ちょっと特異に思えた。
「夏鈴って、普段誰と一緒にいたんだ?」
誠也の素朴な疑問に奏夏が答える。
「まぁ、部内では比較的私が近くにいることは多かったと思うけどね。逆に真梨愛ちゃんとかと話してるところって見たことないかも」
「一人でいることが多かったのかもね」
そう陽毬が言うと、誠也は定期演奏会の当日に偶然見かけた光景を思い出した。
「そう言えば、定演の日、夏鈴が一人でいるところ、見かけたな」
誠也が呟くと、えり子が問う。
「夏鈴ちゃん、一人で練習してたの?」
「いや。あれは確か、午後の第一部のリハの時間帯だったかな。トイレに行く途中、楽屋の廊下の先に夏鈴が立ってるのを見かけたんだけど、楽器を持たずに窓の外を眺めているっぽくてさ」
「うんうん、それで?」
陽毬が話の先を促す。
「その時かすかに、多分夏鈴のスマホから流れている音だったと思うんだけど、『ポロネーズとアリア』が聞こえてきたんだよね」
『ポロネーズとアリア 〜吹奏楽のために〜』 この曲は、この年の吹奏楽コンクールの課題曲の1つだ。課題曲は全部で4曲あり、コンクールではそのうち1曲を演奏する。誠也たち村上光陽高校吹奏楽部では、早い段階で顧問のヤマセンがそのうち2曲に絞っており、ポロネーズとアリアは、ヤマセンの選曲には含まれていなかった。
「はにゃ~、夏鈴ちゃん、あの曲やりたかったのかなぁ?」
そう言うえり子に、奏夏はうんざりした顔で言う。
「当てつけじゃないの?」
「当てつけ?」
萌瑚が怪訝そうな顔で問うと、奏夏が答える。
「きっとそうよ。あの曲、冒頭からホルンが目立つ曲じゃない? ヤマセンがあの曲を選ばなかったのは、きっと今年のホルンパートのレベルが低いからだ、とか思ってるのよ、夏鈴は」
実は、誠也もその光景を目撃した時、直感的にその可能性を考えていた。えり子も陽毬も、言葉にはしなかったが、恐らくそうだろうという雰囲気で奏夏の話を聞いていた。
誠也は雰囲気が悪くなったのを察し、空気を入れ替えようと思った。
「まぁ、夏鈴の件は、週明けにでも時間を見つけて、真梨愛にそれとなく聞いてみるよ」
そう言う誠也に、奏夏がそっけなく答える。
「まぁ、いまさら聞いたことろで、結論は変わらないけどね」
とりあえずここで夏鈴の話は一段落した。無意識に前のめりの姿勢で話を聞いていた誠也は、少し力を抜いて椅子の背もたれに背を預けながら、何げなくLINEの話を聞いた。
「そう言えば、このグループのLINE、『Osteria La Gemma』に変えたんだね」
陽毬が答える。
「うん。不意に誰かにスマホの画面見られたときのためにね」
「そんなことある?」
誠也の疑問に、再び陽毬が答える。
「アイドルの現場だとね、万一ファンの人に自分のスマホを覗き見されても大丈夫なように、知り合いの登録名とかは全部本名じゃなくて、アーティスト名とかに変更して登録しておくのよ」
それを聞いた誠也は、感心したように言う。
「アイドルって大変なんだね。で、なんで俺たちが、そんなアイドル並みの警戒をしなきゃならないわけ?」
陽毬曰くその理由は、以前話題に出てきた、上原
ちなみに以前、陽毬がその話題に触れたときは下校途中だったため、萌瑚と奏夏は最後まで話を聞けていなかったが、今日、誠也が合流する前に陽毬から話を聞いたそうだ。
「ちょっとそのことなんだけどさ」
誠也は先ほどの多希との話を思い出し、陽毬たちに話し始めた。
「前回のひまりんの話が気になって、さっきちょっと多希に探りを入れてみたんだよね」
「うんうん」
陽毬が前のめりで誠也の話の続きを促す。
「そしたらさ、多希の見方は、ひまりんとはちょっと違ったんだよね」
「どんなふうに?」
「まぁ、あくまでも多希の主観かもしれないけど、多希曰く、上原さんがリーダーとしてグループを組織してるんじゃなくて、周りの生徒たちが一方的に上原さんを慕っているだけなんじゃないかって」
「うーん、確かにその見方はあり得るかもしれないわね」
陽毬はそう言って考え込む。
「なんか、慶ちゃんの
えり子がそう言って笑うと、陽毬は肩をすくめて言った。
「実際、リコの言う通りかもしれないよ」
「その方が厄介じゃない?」
そう言う誠也に、陽毬が言う。
「かもね。いずれにしても、別に私たちは彼女たちを否定するつもりも無いし、敵対する理由なんてないんだけどさ、誤解はされないように意識しておいた方が良いかもね」
誠也はやれやれと、ため息をついた。
♪ ♪ ♪
程なくして今日の集まりは解散となった。誠也はいつも通り、えり子と帰路に就く。最寄り駅からの帰り道。この時間は人通りもほとんどなく、誠也とえり子はゆっくりと歩く。
「今日は、奏夏のフォロー、セッティングしてくれてありがとね」
誠也はえり子に礼を述べる。
「ううん。さかなは私たちの大切な友達だからね」
「そう言えば、さっき、真梨愛のことよく気付いてくれたね。助かったよ」
今日はえり子の勘の良さに助けられてばかりだ。
「うにゃ、片岡がいきなりイチャついてくるから、ドキドキしちゃった」
えり子の表情が、いつものいたずらっぽい笑顔になる。
「あのタイミングでいきなりイチャつくわけないだろ」
誠也も笑って答える。
「正直、私も初めは片岡の意図が分からなかったけど、『誰にも言わずに』ってところで気付いた」
「いやぁ、あそこで気付けるのは、さすがだよ。えり子の勘の良さにはいつも助かってるよ」
「ふへぇ~」
えり子がわざとらしく、照れた仕草をする。しかし、その後えり子はふと、笑顔のトーンを落とす。
「でも、私だって、たまには片岡に充電して欲しいと思う時も、あるのですよぉ~」
そう言って、えり子は隣を歩く誠也の左手に、自分の右手をそっと重ねる。
誠也はえり子の口から、多希と同じ「充電」という単語が出てきたことに、背筋が寒くなった。こういうところも含めて、えり子の勘は本当に鋭い。そして同時に誠也は、この前の
これは「サイン」なのか?
「な~んちゃって!」
誠也がリアクションを示せずにいると、えり子は誠也に重ねた右手を引っ込めた。
誠也は咄嗟に離れたえり子の右手を掴んだ。
「誠也……」
えり子が軽く目を見開く。
「えり子、あのさ……」
誠也が立ち止まって話をしようとすると、えり子が誠也の言葉を遮った。
「誠也、あのね。私のわがまま聞いてくれる?」
「もちろん」
誠也がそう応えると、えり子が続ける。
「誠也には、もう少しだけ、今の距離感でいてほしいの。私やっぱ、まだ怖くてさ……」
「あぁ。わかった、大丈夫だよ」
そう言って、誠也はえり子の右手を優しく握る。
「正直言ってね、私、今日誠也が多希ちゃんのところに行って、帰って来なかったらどうしようって、不安だったの」
誠也は黙って、えり子の右手を優しく握り続ける。
「ごめん。ホントはこんなこと言わなくていいのに。言いたくないのに。私、最低……」
「大丈夫。俺はどこにも行かないよ。俺の方こそ、今日はごめんな」
えり子は不意に空を見上げる。
「星、やっぱ見えないね」
「そう言えば、今日は七夕だったな」
誠也も空を見上げる。
「曇ってるもんな」
「そう、だね……」
誠也がえり子の顔を見ると、頬に一筋の雫が流れた。誠也はえり子が急に空を見上げた理由をようやく理解した。
「えり子、そのままでいいから、聞いて」
「うじ」
えり子は空を見上げたまま、鼻をすすり、かすれた声で返事する。
「俺はさ、えり子が一人で、過去を背負う必要は、ないと思っているよ」
「……でも、これは私自身の問題だから……」
「それは違う。二人の過去だから、二人の問題だよ」
少し間をおいて、空を見上げていたえり子が、今度は誠也の方を向いて、笑顔で言う。
「女の子を泣かしちゃ、いけないんだぞ!」
「あ、ごめん」
反射的に謝る誠也に、えり子は涙を拭いながら、いつものいたずらっぽい笑顔で言う。
「今夜は七夕だからさ、願い事したら叶うかな?」
「そうだな。きっと、織姫と彦星が願いを聞いてくれるかもな」
誠也がそう言うと、えり子は空に向かって、お祈りのポーズをして目を瞑る。
誠也も、その見えない星空を見上げた。
「ねぇ、片岡!」
願い事が終わったのか、えり子は再びいつもの調子で誠也に話しかける。
「何?」
「私たち、そのうち付き合っちゃうかもよ!」
誠也も笑顔で応える。
「あぁ、そのうちな」
「うん、そのうち、ね!」
えり子はそう言って、誠也にウインクすると、自分の家の方に向かって歩き出した。誠也はえり子の後姿を、真剣な眼差しで見送った。
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