第16話 思いよ響け!
朝5時。スマホのアラームで
ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。あいにくの曇り空だったが、夏至を過ぎたばかりのこの時期は、曇天でも十分に明るかった。
再びスマホが短く鳴る。えり子からのLINEの着信。
【おはよ! 起きた? 今日はお互い頑張ろうね!】
6月24日、土曜日。今日はいよいよ、村上光陽高校吹奏楽部の定期演奏会の日だ。誠也は高まる気持ちを落ち着かせながら、朝の準備を始めた。
5時45分。自宅近くの最寄り駅に着くと、すでにいつものコンビニの前でえり子が誠也を待っていた。
「おはよ~」
誠也を見つけるなり、トレードマークのツインテールを揺らし、ひまわりのような笑顔で手を振る。
「おはよ。お待たせ」
誠也とえり子はそろって改札口に向かった。
今日は平日の朝練と同じ、朝7時に音楽室集合だ。しかし今日は土曜日で、朝早い時間帯はスクールバスが無いので、路線バスの時間に合わせて、いつもより20分早く家を出なくてはならなかった。早朝の下り電車はガラガラだ。いつもの誠也なら、座席にゆったりと座って束の間の睡眠をとるところだが、今日は完全に目が冴えている。
えり子が唐突に誠也に話しかける。
「定演に向けて、今日までたくさん練習して、たくさん準備してきたけどさ、よく考えたら私たち、高校に入ってまだ2か月半くらいしか経ってないんだよね。すごい不思議~」
誠也も同じ気持ちだった。しかし、二人ともすっかり村上光陽高校吹奏楽部の一員として、今日は定期演奏会のステージに上るのだ。
部員全員が音楽室に到着すると、部長からの簡単なアナウンスがあった後、早速楽器の運搬作業が始まった。リハーサルの時と同様、8時に楽器運搬のトラックが出発する。一度リハーサルで経験しているため、皆手際よく運搬作業を行う。
8時定刻にトラックを見送り、部員たちは各自、路線バスまたは自転車で市民会館へ向かうのもリハの時と同様だ。9時前には全員が市民会館へ到着し、9時の開錠と同時に会館内へ入っていく。
舞台の設営まではリハーサルの時と全く同じ手順だ。一度経験している作業は、単にスムーズに設営ができるだけでなく、気持ち的にも落ち着いて作業ができるのはありがたい。
「大道具係は看板吊るすから、バトンのところに集まって~」
「ホリ幕の前に物置かないで~」
「アトラクション係! ドリルのバミリしま~す!」
おおよそひな壇が組み終わると、各係ごとに自主的に作業を進める。リハーサルの際は、専門用語に目を白黒させていた1年生も、今日はスムーズに作業に参加した。
驚異的な速さで設営が進み、10時には全体で基礎練習が開始できた。副指揮の生徒による15分程度の基礎練習の後、定演実行委員からこの後のスケジュールについて確認が入る。
「この後、第2部の楽曲から逆リハのスタイルで進行していきます。12時までは2部の確認。その後、1時間昼休みを挟んで、13時から14時45分までは第1部のリハです」
第1部と第2部では、ステージのレイアウトなどが若干異なる。そのため「逆リハ」と言って、本番と順序を入れ替えてリハーサルを行う手法がとられることがある。先に第2部のリハーサルを行い、レイアウトを第1部の仕様に変更した後、第1部のリハーサルを行うことにより、その後の本番がスムーズに行えるからである。
リハーサルといっても、すべての楽曲を一通り通して行うわけではなく、不安なところや音楽室では確認しにくい動き、音のバランスなどを重点的に行っていく。
第2部の楽曲は、学年に問わず曲によって参加するメンバーが入れ替わる。本番と違って、いつ自分の出番が回ってくるのか読めないので、参加しないメンバーは客席で出番を待った。
誠也もえり子も、今回の定期演奏会で参加するが曲は2曲ずつ。そのうち1曲は同じ曲だった。誠也は気持ちを落ち着かせるため、端の方の客席で一人、出番を待っていた。えり子も気を使ってか、いつものように誠也に話しかけてくることはない。
誠也の座る前の席では、ステージマネージャーの
昼休みを挟んで、午後は第1部のリハーサル。出番のない1年生は楽屋に籠って、最後の練習をしていた。誠也がトイレに向かおうと楽屋の廊下を歩いていくと、廊下の先にホルンの木村
誠也はその姿が気になりつつも、話しかけることなく、手前のトイレに入った。
夏鈴といえば、先月の「コンクールメンバー選出騒動」の発端となった人物だったが、その後すっかり鳴りを潜めていた。同じパートの奏夏からも話を聞くことはなくなり、誠也は彼女のことを忘れかけていた。そもそも彼女とは一度も直接話したことがなく、今、何を思って部活を続けているのかもわからない。話しかけたところで、この本番前のわずかな時間に何を話したらいいかもわからなかった。
トイレを済ませた誠也は、夏鈴の方へは向かわずに、そのまま楽屋に戻ることにした。その時、誠也の聴覚にかすかな音色が引っかかった。
(『ポロネーズとアリア』だ)
この年の吹奏楽コンクールの課題曲の一つだが、村上光陽高校ではこの曲は選択しなかった。おそらく夏鈴のスマホから流れているだろうその曲の意味を誠也は察したが、歩みを止めることなく楽屋に戻った。
♪ ♪ ♪
14時50分。予定通り、リハーサルが終わり、部員全員が一番大きな楽屋に集合した。あと10分で開場、そしてあと40分で開演である。
その輪の中心で、部長の
「いよいよ、我が村上光陽高校吹奏楽部の定期演奏会がまもなく始まります。1年生にとっては、これが初めての定期演奏会です。そして、3年生にとっては、これが最後の定期演奏会です。つまり、このメンバーで創り上げる、最初で最後の演奏会です。今回はステージに上がらないメンバーもいます。ですが、そのメンバーにも、今日はそれぞれ重要な役割が与えられています。誰一人かけても今日の演奏会は成り立ちません」
友梨先輩の話を聞きながら、誠也は先ほどの光景を思い出し、夏鈴の姿を探した。夏鈴は後ろの方で、無表情で友梨先輩の話を聞いていた。
(もしかして、辞めちゃうのではないだろうか?)
誠也は場違いだと思いつつも、不意にそんなことを考えながら彼女の姿を見ていた。友梨先輩が話を続ける。
「みんなで力を一つに、演奏会を成功させましょう。そして、先輩方から受け継いだ『光陽サウンド』を、今日来てくださった全てのお客さんに届けましょう!」
「はい!」
部員全員、返事する。その時、誠也は確かに、夏鈴もしっかりと返事をする姿を認めた。友梨先輩以外の93名の声がそろった。
(案外、大丈夫かもしれない)
誠也は胸をなでおろす。
「リコ、頼むぞ!」
友梨先輩が、えり子に向けて凛とした笑顔で声をかける。誠也は夏鈴のことに気をとられていたが、誠也の左隣でえり子が案の定、友梨先輩の話に感動し、大粒の涙を流していた。
「あいっ!」
えり子が何とも不正確な発音で元気よく返事をすると、一同笑いに包まれた。えり子の前にいたトランペット3年生の
(あー、それやると、先輩の制服、えり子の鼻水まみれになりますよ……)
感動モノがどうも苦手な誠也は、気を紛らわすために心の中で彩夏先輩に忠告する。
「校歌斉唱!」
友梨先輩の合図で、校歌の斉唱が始まる。ステージに上がる前に全員で校歌を歌うのが、村上光陽高校吹奏楽部の伝統らしい。目を輝かせながら歌う者、涙をこらえながら歌う者、涙を流しながら歌う者、戦いの前のような険しい顔で歌う者、無表情で歌う者……。
校歌が終わると、拍手が起こった。
「村上光陽高校吹奏楽部、行くぞー!」
「おー!」
友梨先輩の掛け声で、94名の部員が一つになった。
15時。定刻で開場。
これ以降はむやみにステージや客席に入れないので、部員たちは舞台袖のモニターでロビーや客席の様子をみて、客入りの状況を確認したりしていた。
穂乃果はすでにインカムをしっかり装着し、進行表とストップウォッチを携えてスタンバイしている。ゲネプロの時とは見違えるような堂々とした面持ちで本番に備えていた。
本番15分前。
チューニングを終えた部員たちが、続々と舞台袖に集まってきた。全員が制服でいる中、恵梨奈とえり子がすでに第2部の衣装で現れた。
「あれ? もう着替えたのか?」
誠也がそう尋ねると、恵梨奈がバツが悪そうな顔で応える。
「ちょっとしたハプニングで、彩夏先輩に制服を貸すことになって……」
誠也はため息交じりに言う。
「どうせ、えり子のせいだろ? で、なんでリナまで着替えたんだ?」
今度はえり子が伏し目がちに答える。
「はじめ、私の制服貸したんだけど、彩夏先輩、入らなかったのよ」
「なんで? 彩夏先輩、結構華奢だろ?」
「うじ~。私と彩夏先輩とでは、お胸の大きさが随分と違うのですよぉ~」
そう言って泣きそうな顔をするえり子に、誠也は何を言っていいかわからなかった。
「そ、そうか……」
(余計なこと、聞くんじゃなかった)
誠也は踵を返して、持ち場である音響操作盤近くに戻った。
本番5分30秒前。
「まもなく1ベルです」
穂乃果の指示に、
「1ベル、了解です!」
そして、5分前ちょうどに陽毬がチャイムのスイッチを押す。舞台袖の部員たちも、私語を止めて入場の順番に並ぶ。張り詰めた空気の中、陽毬の開場前アナウンスが響く。
「ロビーのさかなちゃん、無線取れますか?」
穂乃果がインカムで問いかける。
「はい、会場係、
奏夏が応答する。
「ロビーの状況、いかがですか?」
「いま、ほとんどのお客さんが客席の方に入りました」
「了解です!」
音響操作盤のスピーカーからもインカムの声が流れるので、袖で待機する部員たちも耳を澄まして外の状況を伺っていた。
本番3分前。再び穂乃果がインカムで確認する。
「調光室、クロヤギくん。準備OKですか?」
やや間があって、返事が来る。
「アオヤギだ! 俺は郵便物は食わねぇ。調光室、準備OKです!」
スピーカーに耳をそばだてていた部員たちも思わず失笑し、緊張がほぐれた。
「あ、青柳くん、ごめんなさい! 了解です!」
穂乃果が慌てて返事をする。この日から彼が「黒ヤギ」と呼ばれるようになったのは、言うまでもない。
本番1分前。
「入場お願いします!」
ゲネプロの時はタイミングを忘れていた穂乃果だったが、今日は定刻に部員を誘導する。
「頑張ってください!」
誠也はトランペットパートの先輩たちが目の前を通るときに声をかける。パートリーダーの直樹先輩を始め、皆グッドサインを出したり、笑顔を返してくれたりしながら、ステージに上がっていった。そして、舞台袖は静寂に包まれる。
15時30分。
穂乃果の指示で陽毬が本ベルを鳴らすと同時に、客席の照明が落ち、ステージの照明が上がる。続いて指揮者であるヤマセンが袖からステージへ上がると、客席から拍手が起こった。
ヤマセンが
そして次の瞬間、タクトが振り下ろされると金管楽器のファンファーレがホール内に響く。
「ふおぉ~!」
誠也の隣でえり子が目を輝かせながらその様子を見守る。
音楽祭のプレリュード。吹奏楽界の巨匠、アルフレッド・リードが若かりし頃に作曲した名曲。冒頭のトランペットの高らかなファンファーレが演奏会の幕開けに花を添える。
練習の時は何度も聞いてきた楽曲だが、本番の音色はひときわ輝いていた。誠也は入学式や新入生歓迎会で味わったあの感動を再び覚え、軽く身震いがした。
♪ ♪ ♪
その後、今年度の吹奏楽コンクールの課題曲から2曲、吹奏楽オリジナル曲1曲に、最後は組曲を演奏して、1時間弱の第1部のステージが終了する。
1部が終了すると、会場は10分間の休憩時間となる。レギュラーメンバーは急いで2部のポップスステージの衣装に着替える。皆、制服からカラフルなTシャツとデニムのパンツで2部のポップスステージへと入る。
誠也は1曲目で出演するため、今度は入場する列に加わった。
定刻になり、いよいよ入場。
「片岡、楽しんできてね~」
声援をくれたえり子に、誠也は楽器を軽く上げて答える。
久々に見るステージからの客席。
指揮者のタクトが下りる。低音とパーカッションに続き、ファンファーレ。やっぱり本番の空気は違う。
去年のコンクール以来の本番のステージ。去年のコンクールで誠也は、ただ目の前だけを見て、自分のためだけに吹いていた。
あれからいろんなことがあって、今こうして自分は再びステージ上でトランペットを吹いている。しかし、去年のコンクールと決定的に違うのは、誠也の視線。
今、誠也は、指揮者の後ろに広がる客席を見て、そして今日自分たちのステージを見に来てくれたお客さん一人一人のために吹いている。
そんな当たり前のことを誠也に教えてくれたのは、他ならぬ、えり子だ。
舞台袖で見ているであろう、えり子に感謝しつつ、誠也は1曲目のステージを楽しんだ。
あっという間に曲が終わり、誠也はいったんステージを降りる。舞台袖でえり子とハイタッチをして、楽屋に戻った。
「誠也、お疲れ~!」
楽屋に入ると、直樹先輩が声をかけてくれた。
「お疲れ様です!」
「どうだい、久々のステージは?」
「もう、最高っす!」
誠也はそう言って、タオルで汗をぬぐった。
「じゃ、そろそろいってくるわ~」
そう言って代わりに直樹先輩は楽屋から出ていった。
次の誠也の出番は、ラストまで無い。暫し、のんびりと楽屋のモニターを見ることにした。
えり子の初めのステージは、5曲目の「ブラジル」だ。この曲では、簡単なステージドリルを披露する。つまり、ステージ上で動きながら演奏をするのだ。4曲目が始まると、誠也はえり子の応援のためにステージ袖へ向かった。
ステージ袖で待機いていたえり子は、誠也を見るなりひまわりのような笑顔で手を振った。
「えり子も楽しんで来いよ!」
「もちろん!」
4曲目が終わり、司会の生徒がつないでいる間にえり子たちはステージへと上がっていった。
やや暗めの照明の中、冒頭のスローテンポの演奏が始まる。そして、照明がが上がるとともに、曲もテンポアップ。様々に隊形を変えながら、演奏していく。その様子を誠也はモニター画面で見ていた。
(やっぱ、カッコいいよな!)
えり子の出演する「ブラジル」もあっという間に終了。袖に戻ってくるえり子に、誠也は先ほどと同様にハイタッチした。
そして、あっという間にラストの曲になった。ラストは誠也とえり子、二人とも出演する。楽曲は、吹奏楽の定期演奏会の定番の「オーメンズ・オブ・ラブ」だ。
「ねぇ、片岡。いよいよだね!」
誠也が舞台袖で待機していると、えり子がいつものように笑顔で話しかけてくる。
「おう」
誠也もいつものように応える。
「高校に入って、初めて片岡と一緒に吹く曲が『オーメンズ・オブ・ラブ』って、ちょっと意味深じゃない?」
そう言って、えり子はいたずらっぽい笑顔を作る。
「お前の頭の中は、相変わらずメルヘンだな。さぁ、行くぞ!」
誠也とえり子はそろってステージに上がった。
誠也たちがステージに上がると、すぐに曲が始まる。
曲のオープニング、中音域の楽器から始まったメロディーを受け継ぎ、ハイトーンを得意とする誠也のトランペットが、ホールに響き渡る。
誠也にとって、中学校時代から何度も吹いたことのある楽曲。しかし、今日は今までのどの演奏とも違う、高揚感を感じていた。
誠也の座るひな壇から前方を見下ろすと、ピッコロを吹く陽毬。オーボエの多希。左手奥には、視界の隅にユーフォの萌瑚が見える。目の前にはホルンの奏夏。そして、誠也の右隣にはえり子。みんなの思いが一つになり、指揮者を超えて客席へ流れていく。
そんな幸せな時間もあっという間に過ぎ、そろそろ楽曲が終わりに近づいていることを、チューブラーベルが伝える。それを合図に、名残惜しむように再びスローテンポになる。
今日、この日のために練習し、準備してきたことを思い出しながら、集大成のエンディング。客席のすべての観客に届いてほしい、幸せ。オーメンズ・オブ・ラブ……恋の予感。
響け! 俺たちの思い!
誠也のハイトーンが決まり、すべての楽曲が終了した。
スタンディングオーベーション。
客席の拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
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