01-07 筆跡



 その日もフィガロは帰ってこなかった。



 翌日、放課後の文芸部には四人の部員が揃っていた。


 部長である泉澤怜、新入部員である真中柚子、それから、俺とちせ。幽霊部員は今日も顔を出さないし、誰もそれについて何も言わない。顧問だって部室に顔を見せることはほとんどないのだ。それでかまわないだろう。


 結局、昨夜、母とましろ姉はちせに対して、峯田さんについて説明したらしい。といっても、料金のかかる探偵だとは言わず、善意で協力してくれるボランティアというふうに話したという。探してくれる人がいるということで、ちせも多少は気持ちが楽になったようだったので、今日はなかば強引に俺が部に顔を出させた。


「新入部員も入ったことだし、活動の話をしないとね」


 怜は、部員が五人に達したことについて、特に何の感慨も抱いていないらしかった。あらかじめ起きると知っていたことが当然に起きたというような態度だ。ちせが入部するということは、ましろ姉から聞かされていたのだろう。今年の春にこの高校を卒業したましろ姉は、文芸部の先代部長だった。


 怜はホワイトボードに専用マジックで『薄明』と書いた。


「基本的には、うちの部の活動内容は適当で、みんな好き勝手になにか読んだり書いたりしてくれって感じなんだけど、四季ごとの部誌の発行だけは毎年行っているし、今年もそうするつもりです。そういうわけで、新入部員のふたりにも、部誌づくりには協力してもらいたいかな。……なにか質問ある?」


「はい」


「どうぞ、真中さん」


「書くものの種類は自由?」


「小説でも詩でもエッセイでも、お好きにどうぞ」


「書いたことないんだけど、書けるかな?」


「がんばって。ちせさんは、なにかある?」


「えっと、締切は……?」


「来月の半ば頃かな」


「わかりました」


 入部してすぐで緊張しているかと思ったが、ちせの様子は普段と変わらないように見えた。


 簡単な説明が終わってしまうと、怜は、あとは好きにしてくれと言わんばかりにパイプ椅子に腰掛けて文庫本をめくりはじめた。新入部員に対して何かをするつもりはないらしい。


 俺も、何かを書き始めるつもりでノートを開く。


 文章に対するこだわりなんてものは、俺は持ち合わせていない。文芸部に入ったのだって、ましろ姉に入れと言われたのと、他にやりたいことがなかったからという、消極的な理由以外はなにもなかった。それでも去年の部誌にはちゃんと原稿を寄せたし、今年もいまのところはそうするつもりでいる。部員数が少ない以上、そうせざるを得ない。


 でも、俺は、本当は、文章なんて書きたくない。


 考えごとを打ち切るようにして、シャープペンを握った。ノートを横にして、ページの中央に縦線を引く。思いつく言葉……名詞、動詞、形容詞、なんでもいい……を思いつくままに並べ始める。左右の単語を分ける基準は、単に、いまの自分の気分に合うかどうか、というだけで、他には何の理由もない。


 思いつくままに並べたその言葉たちに、助詞や副詞や接続詞を適当に付け加えて、気に入った文章が出来上がるまで考える。ひとつ出来上がったら次のページにそれを書き写す。そのあと、また次の文章を作り始める。その繰り返しで、八つか九つほどの文章が出来上がる。それを終えると、また別のページの中央に線を引き、はじめからやり直す。また八つか九つほどの文章ができると、今後はそれらの文章を並べ替えてなにかしらの物語が思い浮かぶまで考える。


 疲れを感じてふと顔をあげると、ちせの顔がすぐそばにあった。驚いてのけぞると、危うくパイプ椅子から身体がずり落ちそうになる。


「あっ」と声をあげたちせが、かろうじて俺の腕を引き留めてくれた。


「び……っくりした」


「ご、ごめんなさい。何を書いてるんだろうなって」


「あ、いや。それはいいんだけど……」


「これは……何ですか?」


 俺は説明に窮した。気付けば、真中も長机を挟んで俺のノートを覗き込んでいる。


「暗号?」


「いや、なんていうかな、これは……」


 俺が困っているのを見てとったのか、怜が文庫本から顔をあげ、こちらを覗き込んだ。それから納得したように「ああ」と頷いた。


「擬似的なカットアップかな?」


「カットアップ?」


 真中のオウム返しに、怜は静かに頷いた。


「たとえば、新聞紙なんかの文章をバラバラに切り刻んで、並べ替えて、新しい文章を作るやり方。二見は、たぶん、任意の単語を用意して適当に並べ替えて文章を作ってるんだね」


「……ええと、どういうこと? つまり、自分の頭で考えないで、適当な単語を繋げて文章を作ってるってこと?」


「自分の頭で考えないで、っていうのは手厳しいけど、だいたいそう」


「つまり、ずるしてるんだ?」


 真中は俺を見ていたずらっぽく笑った。急に据わりが悪くなる。ゼロから文章を考えるような、殊勝なことをするつもりはない。俺にとって文章を書くことはこういうことだ。


 たとえば俺が、朝焼けの美しさを描写する一文をどうにかして思いつこうと、一日中考え抜いて、納得のいく文章をひとつ生み出したとする。


 けれどその文章は、俺がこうやって適当に並べ替えた結果生まれた文章と、語の並びが完全に一致するものかもしれない。


 そして読み手はそれを区別しない。


 俺が考え抜いて思いついたものだろうと、適当に並べ替えてつくったものだろうと、読み手に届くのは同じ文章だ。


 それでなにがいけないだろう?

 作者の意図や声なんて、文章は必要としない。


 そんなものはなくていい。ないほうがいい。


 そう言いかけて、結局俺はやめた。言ったって仕方ないことだ。かわりに、言い訳がましく口を開いた。


「発想術のひとつだよ」


 俺の言葉に真中とちせは首をかしげた。


「なにもないところじゃなにもこねくり回せない。なんでもいいから素材があったほうが話が早いんだ。ひとつでも素材があれば、別のことが思いつく場合が多い」


「それは実際そのとおりだね」


 怜は頷いて、文庫本に再び目を落とした。

 ちせは頷いて、興味深そうにノートに並べた俺の文章を眺めた。真中の方はいまいち納得がいかない様子だったけれど、やがて、なにか別のことが気になったというみたいに、俺の顔を見た。


「……あの、先輩」


「ん」


「わたし、先輩の字、見たことがある気がするんだけど」


「……何の話?」


 問い返すと、彼女はもどかしそうな顔になった。何か思い出しかけているのだけれど、それがわからない、というような。


「先輩って……なんて名前、でしたっけ」


「……宮崎」


 そういえば、名乗っていなかったか、と思った。ちせの方は、今日が初めてだから、さっき名乗っていたはずだけれど、俺が兄だと説明した記憶もない。


「宮崎、二見」


「……えと、ペンネームとか、ある?」


「は?」


 俺は思わず眉をひそめた。


「ないよ。……なんだ、それ」


「なんだろ……おかしいな。なんだろう」


 戸惑って、俺は怜の方を見た。彼女はいつのまにかこちらに視線を向けて、様子をうかがっている。真中はひどく混乱して、何かを必死に考えているようだった。


 不意に、彼女は顔をあげ、怜の方を見た。


「せんぱいは……気付いてないの?」


「言いたいことはわかるつもりだけど」


 と怜は言って、首を横に振った。


「でも、だって……字が、おんなじだよ」


「……何の話をしてるんだ?」


 俺は少しだけ怖くなった。怜は、静かに文庫本のページに視線を戻した。彼女には何かがわかっているらしいけれど、俺には何もわからない。


 真中は、不意に、俺と目を合わせた。彼女の瞳がかすかに揺れているのを俺はみつけた。どうしてそんなことが起きるのか、俺にはよくわからなかった。


「宮崎、先輩の、字は……あの手紙とおんなじだよ」


 沈黙が部室のなかに降った。


「あの手紙って?」


 訊ねながら、急速に、自分の心が冷えていくのがわかった。なにを言われるのかは、もうわかっているような気がした。


「先輩は……"三枝隼"なの?」


 そのときの真中の目は、俺を見ているようで、俺を見ていなかった。

 ああ、またこれだ、と思った。


 誰も、俺のことなんて見ちゃいない。

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