#36 報告書に記せぬモノ


 大太刀『禍叢雲剣』と小太刀『護國』を鞘に納めたタロスは、ゆるやかに呼吸を整えながら視線を巡らせた。

 貴賓室の床一面に、血とマシンオイルがまだ温かく広がっている。

 沈黙した八体の常闇の抱擁者と、四肢を断たれ横たわる主犯格。


 足を進めるごとに、床に散らばった破片や裂けた壁面、血と油を吸い込んで変色した絨毯が視界に映る。

 先の戦闘の痕跡が、そこかしこに生々しく残っていた。


 タロスは動かなくなった敵の一体一体へ視線を落とし、生存の兆しがないかを確認する。

 もしも蠢きの一つでもあれば、その瞬間に刃を振るう覚悟を込めて。

 だが、どの躯体も痙攣すらなく、ただ沈黙しているだけだった。


 ようやく張り巡らせていた殺気を解いたタロスは、念のため主犯格を拘束し、通信端末を起動する。

 数度のコールの後、フィーア支部と回線が繋がり、現在地と任務完了を告げ、“後始末”を要請した。


 血と油の臭気に満ちた室内で、無機質な通信音が妙に清潔に響く。

 数刻もすれば保全部隊が到着し、この迎賓館で行われた鏖殺は痕跡ごと消えるだろう。

 証拠はすべてツクヨミの解析班へ回され、史実から切り取られた断片と化す。


 三階から階段を降りる途中、タロスは再び足を止めた。

 壁に叩きつけられ砕けた彫像の破片を避けつつ、倒れた影を一瞥する。

 どれも既に息絶えており、目だけが虚空を睨んでいた。


 その静けさの中、ふと気付く。

 下層から続いていた戦闘音が、いつの間にか完全に途絶えている。

 誰が生き残ったかなど、確認するまでもない。

 面頬を透かしても感じ取れる、濃い血の匂いが鼻腔を刺した。


 吹き抜けの階段を抜け、エントランスへと降り立つ。

 そこには、大の字に寝転がる副官トラマルの姿があった。

 全身血に塗れていたが、規則的な呼吸が腹部を上下させていた。


「敵陣の只中で五体投地とは、気が抜けているにも程があろう」

「殺気一つ感じさせないたいちょーに言われたくないっすよ。それに……たいちょーが仕留め損ねるはずないっすから。ボクは、ボクの責務を全うしたまでっす」


 血に濡れた頬に、屈託のない笑みを浮かべるトラマル。

 肩で息をしているのは疲労のせいか、それとも出血によるものか。

 声に怯えはなく、確かな安堵があった。


 タロスは小さく肩をすくめ、彼女の横を通り過ぎる。

 途中、倒れ伏した九龍貿易商会の若衆の胴を軽く踏み越えながら、その胸板が動かぬことを一瞬確認する。

 完全なる沈黙を確信して、サーバールームへと歩を進めた。


 抽出の終わったデータチップを抜き取る。

 まだ熱の残る端末の冷却音を耳にしながら、保全部隊の到着まで独自に解析を試みるのだった。




「たいちょー、それ食べないんすか?」


 机に置かれた白い紙箱の焼きそばに視線を投げながら、トラマルが頬張っていた胡麻団子をもぐもぐと飲み込んだ。


 迎賓館での戦闘から一夜明けた、昼過ぎのホテルの一室。

 カーテン越しに差し込む外光は白く、薄いスモッグに反射して淡く揺れている。

 昨夜の戦闘で染み付いた血と油の匂いはまだ室内の隅に漂っているが、代わりに鼻をくすぐるのは砂糖を焦がしたような甘さと、ごま油の香りだった。


 ベッドの端に腰を下ろしたトラマルは胡麻団子を食べ終え、次は紙包みに入った中華風の揚げ菓子を手にしている。

 衣の表面にまぶされた砂糖が光を受けて細かくきらめき、噛みしめるたびにざくりとした音がして胡麻の油が舌の上で香ばしく弾けた。


「後でな。本部が報告書の提出をせっついてきている」


 タロスは紙箱を横目に見ただけで、黒い端末に向かい続ける。

 画面に浮かぶのは無機質な報告書の文面。

 昨夜の戦闘、消息不明だった元アマテラス隊長オウゼンの生存、『常闇の抱擁者』と呼ばれる不審な黒い兵士、そして“御帝”を名乗るテロリストの首魁。

 詳細な報告を記そうとしていたその時、テーブルに置かれた通信端末が低く震えた。


 画面に踊るのは、緊急の符号。

 タロスは視線を落とし、指先で応答を押す。


「私だ」

「特務機関スサノヲ、フィーア支部です。九番隊隊長タロス殿に報告が三件。昨夜の任務で捕縛したテロリストがツクヨミ本部へ護送中に自爆、ツクヨミの護送車両ごと消失しました。さらに、提出されたデータチップや本部の解析班に回す予定だった所属不明の死体も同時に爆散。現場に痕跡なく、連絡橋直下の汚染区域へと落下した模様です」


 乾いた報告が淡々と読み上げられた。

 タロスの顔色は微動だにしない。

 しかし瞳の奥で、冷たい光が深く沈んだ。


「……そうか」


 短く答え、通信を切り息を一つ吐く。

 それは安堵でも落胆でもない、ただ次に動くための区切りのようなものだった。

 窓の外では表通りの屋台の呼び込みの声がかすかに響き、街の日常がこの部屋の静謐と奇妙に乖離しているように思えた。


「うわ……マジっすか。ツクヨミの護送部隊も災難っすね」


 お菓子を頬張ったまま、隣で聞いていたトラマルが気の抜けた声を漏らす。

 ほんの一瞬だけ手を止め、眉を寄せかけたが、すぐに表情を緩めて紙包みの中を探った。

 机に向かうタロスはその言葉に感情を見せることなく、しかし数秒だけ報告書を書く手を止めた。


「……そうだな」


 短く返す声は乾いている。

 返事を聞いたトラマルは「ッスねー」とだけ言って、胡麻団子を口に運んだ。

 咀嚼の音が規則正しく繰り返され、部屋の空調音に混じって響いていた。


 タロスの視線は報告書の画面に落とされている。

 一度打ち込んでいた内容はすべて削除され、空白のページが広がっていた。

 冷静な指先が再び文字を走らせる。

 十五分もしない内に完成した報告書は、当たり障りのない簡潔な事実だけ。

 文面を三度読み返し、問題がないことを確認して送信ボタンを押した。


 送信完了の通知が静かに点滅する。

 タロスは息を潜め、副官にも気取られぬよう携帯端末を操作して別回線を立ち上げた。

 限られた仲間にしか通じない秘匿の通信。

 打ち込まれるのは、常闇の抱擁者の技術的特徴、“御帝”を名乗る首魁の存在、そして『國』内部に潜むかもしれない内通者の影。


 タロスたち六人が追う、【鎧の男】に繋がる真実の断片だった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る