#21 -タロス- 影は赫く、護国の刃となる

 深夜、特務機関スサノヲ九番隊隊舎の隊長専用区画の一室に、冷えた静けさが満ちていた。


 壁の一面には戦術データのホログラムが浮かび、作戦計画や部隊行動のログが幾何学的に並んでいたが、その光は今、すべて沈黙していた。タロスは卓上の端末を閉じ、溜息をつくように背もたれへ身を預ける。義肢である右腕の関節が微かに鳴った。


 鋼鉄の指でそっと摘み上げたのは、一枚の写真だった。簡素なフレームに収められた、年若い少女とのツーショット。

 蒼穹を背に、儀礼服に身を包んだ少女が、照れくさそうに並んで立っている。傍らのタロスも、まだこの時は現在ほど鋭利な印象を帯びてはいなかった。


 アカツキ。


 かつて、恋人が病院のベッドで何度もその名を呼んだ少女。恋人だった者の妹。今は神託の姫巫女として、『國』そのものを象徴する存在となった義理の娘。

 写真立てをそっと卓上に戻し、タロスは目を閉じた。記憶の底に、淡く、それでいて鮮烈な過去が浮かび上がっていく。


 静寂の部屋に、時折、義肢の駆動音が細く響く。無機質なそれが、妙に人間臭い余韻を伴っていた。




 タロスが生を受けたのは、『國』でも比較的裕福な商業街区の上層だった。

 母はキサラギ化成の薬品を扱う卸売業者として働き、父はその販路を拡げる営業職に就いていた。

 幼少期から天理教会に通い、何不自由なく育った彼は、常に周囲の期待に応える子どもだった。


 学業も安定しており、成績は優秀。穏やかで、落ち着いた気質を持ち、将来は教会や行政の要職に就くだろうと囁かれていた。

 そして、卒業と同時に國の情報機関『天理機関ツクヨミ』に文官として迎えられたとき、その歩みは疑いようのないものと思われていた。


 記録の整理、資料の解析、行政通信の調整といった静謐な日常。

 それは平穏であり、正しく整えられた日々だった。

 彼自身、そこに不満を抱く理由もなかった。



 だがある日、唐突に、その均衡は崩れた。

 当時、交際していた女性が企業間紛争に巻き込まれ、命を落としたのだ。

 彼女が住んでいた区画で爆発が起きたことは、タロス自身もツクヨミの報告で把握していた。

 しかし、鎮圧部隊の出動は遅れ、彼女は救護が間に合わぬまま、病院のベッドで静かに息を引き取った。

 彼女は、最後までうわ言のように謝罪と、歳の離れた妹のことを口にしていた。


 「アカツキ……あの子を、置いてはいけない……」


 その言葉が、タロスの胸に深く残った。

 同じ紛争で姉だけでなく両親までもを失い、行き場をなくしたその妹を、タロスは迷うことなく引き取った。

 家族として迎え入れた。

 この選択が、彼の人生の向きを大きく変えることになる。


 彼はツクヨミに在籍したまま、異動願を提出した。彼女を護る手段を、言葉ではなく力で得るために。

 行政の机に座っているだけでは、再び何も護れないと知ったからだ。

 ツクヨミでは情報を見ていた。

 アマテラスでは法の執行を担っていた。

 だがスサノヲは違う。

 『國』の敵を、未然に討つ。闇に潜む脅威を、理屈よりも先に焼き払う。

 その実力を行使できるのが、特務機関スサノヲだった。


 そうして彼は、“國”の暗部へと足を踏み入れた。

 どれだけ綺麗ごとを並べても、守れぬものがあると知った彼にとって、それは唯一の道だった。



 スサノヲへの転属後、タロスは淡々と任務をこなしていった。

 表に出ることのない諜報活動、危険を伴う要人護衛、局地戦の制圧。煽動者の暗殺。いずれも決して華やかではなかったが、彼は黙々と責務を果たし続けた。

 義肢でもない生身の肉体で始めたその歩みは、やがて同僚たちの目にも確かな実力として映るようになっていた。


 愚直なまでに実直で、緩やかに、だが確実に成果を重ねたその背中は、次第に周囲の信頼を集めるようになり、幾度目かの功績を経て、彼は一つの部隊を任されるに至った。

 タロスが二十歳を迎えた頃には、既に隊長職に就いていた。


 その知らせは、そんな折に届いた。

 義理の娘、彼が引き取ったあの幼い少女が『神託の姫巫女』に選ばれたという報告だった。

 報を受けた時、彼は無言でただ一枚の写真を見つめていた。

 初めて義娘を肩に抱いた日の記録。

 泣いていたあの小さな手が、やがて『國』の未来を託される巫女の手となった。


 過ぎ去った年月の重みを、タロスは深く感じ取っていた。

 アカツキが姫巫女に選ばれたこと。それは、家族として何よりの誇りであり、『國』の民としてもこの上ない栄誉だった。

 彼女は真っ直ぐに育ち、慎み深く、聡明な娘へと成長していた。

 時折、亡き姉の面影を宿したように、屈託なく笑う。


 その笑顔が、どうか曇らぬように――


 心の奥で、タロスはそっと願った。


 昏い空の下、神託の巫女を継ぐ儀式の刻限が迫っていた。

『神域』と呼ばれるその場所は、厳重な管理体制のもと、外界から切り離されている。神域に存在を許されるのは、天帝その人と、今代の神託の姫巫女のみ。斯界に精通した巫女が守る神聖なる空間。だがその日、その神域に、忌むべき影が差し込んだ。


 雷鳴ひとつなく、突如として侵入したのは一騎の巨兵。


“神威”と呼ばれる大型機動兵器。その烈火の如く赤い装甲は神殿の光を煌めかせ、膨れ上がった殺気をまといながら、静かに、確かに前進していた。

 騎乗していたのは、護帝機関アマテラスの長が一角、オウゼン。かつては國の守護者であったはずの男が、天帝と姫巫女の命を狙って牙を剥いたのである。


 式次第も半ば、儀礼の詠唱も停止された神域には、参列を許された限られた者しかいなかった。

 神殿の奥、襲名の神座に座す姫巫女候補。

 あの娘の白い衣が、恐怖に小さく揺れた。誰かが叫んだ。誰かが逃げた。

 そして、タロスは動いた。


 天帝の護衛として許された携行武装、それだけを手に、漆黒の巨兵の前に躍り出る。

 圧倒的な質量と速度で振り下ろされる刃を、帯刀していた小太刀“護國”で受け流した瞬間、咄嗟の防御が奇跡的に間に合ったその一撃が、彼の右半身を持っていった。


 その時の衝撃は、未だに夢の中で蘇る。

 空気が裂け、骨がきしみ、感覚が千切れていく。それでもなお、タロスは立ち上がった。

 灼けるような痛みを噛み殺し、血に染まった左手で小太刀を握り直す。

 あの子がそこにいる限り、倒れるわけにはいかなかった。


“この命を賭しても、守り抜く”


 かつて愛した女を護れなかった過去。

 だが今、彼女が遺した命を、自分が護らずして誰が護るのか。

 その心情を映すように、裂けた右肩から血が噴き上がる中、タロスは再び“神威オウゼン”の前に立ちはだかった。歯を食いしばり、視界を染める赤の中で、己が意識を辛うじて保ち続ける。


 幸か不幸か、その瞬間、神域の外縁で展開していたアマテラス部隊が神域に突入。オウゼンの副官だった者の指揮のもと、オウゼンの撤退を余儀なくさせる状況が整った。


 だが、それは勝利ではなかった。

 タロスにとって、それは“生き延びた”に過ぎなかった。

 彼は神域の床に倒れ伏し、深い昏睡へと沈む。



 そして目覚めた時、彼はもう元の姿には戻れなかった。

 右腕どころか、右半身の大半を喪い、その代わりに与えられたのは、國の最先端技術を結集した戦闘用義肢。赫い装甲に包まれたその肢体は、人のぬくもりを失った代償として、國の守護者たる証を纏っていた。


 それと共に下賜されたのが、大太刀『禍叢雲剣マガツムラクモノツルギ』――


 天帝が肇国当時より國の中枢を担う三機関の象徴とした神器であり、國の意志を象徴する剣。タロスは、それを受け取る資格があると天帝に認められたのだ。


 神域で起きた惨劇は、儀式の混乱という形で伏せられ、姫巫女は予定通り襲名の儀を終えた。天帝の玉座こそ破壊されたが、それもまたすぐに再建された。


 タロスに下された命はただ一つ。

『國』と、姫巫女を護り続けること。それは、もう一つの家族としてアカツキを守るという、父としての覚悟とも重なっていた。


 以来、タロスは一度として後ろを振り返ることはなかった。

 彼女が神託の姫巫女として國の希望となるのであれば、自らはその影となり、剣となる。名実ともに、そうしてきた。


 だが、十年前、神域を襲撃したオウゼンと対峙した戦場で、確かに覚えた違和感があった。

 タロスはオウゼンと何度か顔を合わせたことがあった。職務上の接点に過ぎなかったが、それでも、あれほど突飛な思想や暴力を是とする男には思えなかった。

 クーデターを起こすには、あまりに唐突だった。


 何かが、おかしい。あの時はそう思いながらも、傷と喪失の中でその疑問を深く追う余裕はなかった。

 だが昨日、現れた【鎧の男】の姿を見た瞬間、凍結していた記憶の断片が熱を帯びて脳裏によみがえった。


 あれは、ただの思い過ごしではなかった。

 あの気配。あの眼差し。呼吸すら凍らせる沈黙。

 十年前、神域の奥、姫巫女の御座に迫るその一瞬に感じた、言いようのない“何か”。


 それが、あの男と重なった。




 静寂が戻っていた。

 ふと気づけば、部屋の照明はとうに落ち、窓の外では月光がビル群の隙間を縫っていた。

 卓上に置いた写真が、仄かに銀色を帯びている。


 蒼天の下で微笑むあの少女の顔は、いまも変わらず、彼の胸の奥を揺さぶる。

 タロスはそっと目を開けた。

 意識の底に沈んでいた時間が、現実の感触を取り戻す。


 掌に残る義肢の硬さ、冷たい空気、そして、微かに響く装甲の駆動音。

 椅子の背に置いていた外套を取り、ゆっくりと立ち上がる。

 赫い義肢の拳が自然と握られ、その内から、淡く熱を帯びた決意が静かに立ち上っていた。


 誰かの命令でもない。

 國の命令でも、天帝の意志でもない。

 それでも、やらねばならないことがある。


 護るだけでは足りない。

 討たねばならない。

 國を壊す影ならば。


 そのために、この命を使うのだと。

 今度こそ、何も、失わせないために。





 -Talos- will return.

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