3-2 弦巻梨英

 ◇

 それはまだ、ゼミの顔合わせからそれほど日も経っていない頃のことだった。


「あ、弦巻さん……」


 会議室のドアを開けると、ひとりの先客の姿があった。

 この日は、ゼミの同期の5人でゲームを作ると決めてから、3度目の会議を行う予定になっていた。これまでの2回は智章が部屋を借りて準備をしていたが、この日は前の用事が遅くなって、梨英に会議室を借りてもらっていた。


「おつかれ。前も言ったけど、梨英でいいから。サークルのみんなも名前呼びだし、なんか落ち着かない」

「う、うん……」


 智章は梨英から少し離れた席に座ると、ノートパソコンを取り出して、今日の話し合いで使う予定の資料の準備をする。この日は、ゲーム全体の世界観について細かく詰めていく予定だった。

 ただ、会議の準備をしながらも、智章は落ち着かなかった。


(やばい、気まずすぎる……!!)


 これまで梨英とはまともに話したことはなくて、ましてや2人きりの状態になったこともない。

 なにか話さなければと思って脳を働かせてみても、蒼汰のように気の利いた会話のネタは浮かんでこない。ピアスをつけて赤い部分カラーをした女の人なんて、これまでの人生で一度だって接点を持ったことがなかった。

 突然、梨英が大げさにため息を吐いた。


「別に、あたしに気を遣わなくていいから」


 智章の緊張は、どうやら梨英に見抜かれていたようだ。


「ごめん、なにか話さなきゃと思って……」

「あのさ。あたし、こんな感じだけど、音楽には真面目なつもりだから」


 別に、それを疑っていたわけじゃない。ただ、梨英はこれまでまったく縁のないタイプで、どう接していいかが分からなかったんだ。

 智章にとって梨英のようなタイプの知り合いは初めてで、どうしても自然に気を遣ってしまう。当然、良いゲームを作るためには、メンバー同士が遠慮しているわけにいかないことは分かっているけれど。


「別に不真面目だなんて思ってないよ。本当に不真面目なら、こんな話し合いなんて来てないと思うし」

「なんか勘違いしてるから言っとくけど、あたしは智章がうるさいから仕方なく参加してるだけだから」

「え、そうなの!?」


 初耳だった。てっきり、梨英もゲーム作りに乗り気になってくれているものだと。


「ごめん。俺も無理に誘うつもりはなくて……」

「冗談」


 真顔のまま、梨英はそんなことを言った。


「あれだけ熱く誘われたら嫌な気はしないし。それに、あたしも音楽の幅を広げられるなら歓迎だから」


 それは、これまでに何度か梨英が口にしていたことだった。


『音楽の幅を広げたい』

『もっと自分の音楽の可能性を試してみたい』


 そんな熱いことを語れる梨英だからこそ、智章はメンバーに誘うことに迷いがなかった。


「なんか、梨英と話してると身が引き締まるよ」


 智章が言うと、梨英はふと思い出したように、「そういえば、これ」と1枚のCDを差し出してきた。


「あたしの曲聞きたがってたでしょ? 前のライブの音源だから、良かったら聴いてみてよ」


 梨英からCDを受け取る。それは薄いケースに入っているだけだったが、やけにずっしりと重みを感じられた。知り合いが演奏しているCDなんて、初めて受け取るものだった。


「それ、マジで名盤だから。全部あたしの作曲なんだけど、全部にあたしの魂を込めてるし」


(魂か……)


 そこまで言い切れる自信に驚いた。普通なら、もっと謙遜してしまいそうな状況なのに、梨英は”魂”とまで言ってしまえるのか。


「梨英はすごいね。俺ももっと自分の作品に自信を持てるようならないと」

「別に自信なんて勝手についてくるでしょ。あたしは、あたしの音楽で世界を変える。自信がないなんて、言ってられないんだよ」


 テーブルも壁紙も真っ白い簡素な会議室で、それは痛く青い会話だったと思う。ただ、その時の梨英の目は、確かに真っ赤に燃えていたはずだった。


 ◇


 少しずつ梨英が変わったのは、おそらく就活の時からだ。

 4年生になると誰もが就活と卒論に追われて、全員で集まる機会は減っていた。その中で、就活が特に上手く進まなかった梨英は、たまに顔を合わせるたびに、どんどん表情に余裕がなくなっていくのが見て取れた。

 智章自身も就活が長引いた方ではあったが、梨英はまったく選考でかすることもなかったようだ。

 それでもついに年明けの頃、念願だった音楽に携われる会社に就職が決まって、とても喜んでいたはずだった。


(まさか、その会社がブラックだったなんて)


 梨英の会社はJRの大塚駅が最寄りだった。春の陽気を感じながら駅前で立っていると、やがて待ち人が現れた。


「よ、昨日ぶりだな」


 黒いジャケットを羽織った爽やかな男は、梨英の仕事を手伝う助っ人だ。


「本当にありがとう、蒼汰がいれば百人力だよ」

「音楽の会社の手伝いなんて、役に立つか分かんないぞ? けどまあ、梨英を手伝いたいのはオレも同じだから、誘ってくれてありがとな」


 蒼汰には、梨英の仕事の手伝いが確定したあとに慌てて連絡を取った。自分ひとりでどうにかできる自信がなかったのと、久しぶりに集まれるなら蒼汰にも一緒にいて欲しかった。

 休日の朝の急な誘いにも、蒼汰は少しも嫌な反応をせずに受け入れてくれた。


「智章は二日酔いしてないか?」


 蒼汰は少しくたびれた顔で笑った。


「若干怪しかったけど、梨英と話して一瞬で吹き飛んだ」


(本当は、今もちょっと頭が痛いけど……)


 ただ、そんな少しの頭痛なんて、命がかかっている状態では些細なことだ。梨英の仕事を終わらせて、早く曲を作ってもらわないといけないんだから。

 当然、そんな目論見を蒼汰には打ち明けない。


「あの梨英がコキ使われてるなんて、絶対許せないもんな」


 大塚駅の南側の出口を出て、そんな話をしながら、智章は蒼汰と2人で梨英の会社のビルまで向かう。知り合いの職場に行くことなんて人生で初めてで、少しそわそわと落ち着かない気持ちになった。

 梨英の勤める会社は、大塚駅から徒歩で5分ほどのところにある小さなビルに入っているらしい。

 スマートフォンの地図アプリを頼りに、聞いていた住所まで歩いている時だった。手に持っているそれが突然震えた。


「梨英から電話だ」


 画面は梨英からの着信を示している。道に迷っていないかと心配して連絡をくれたんだろうか。

 そんなことを思いながら、通話のボタンを押したが――。


「もしもし? もうすぐ着きそうだよ」

『智章、ごめん。やっぱ手伝い来ないでいいから』


 耳元のスピーカーから聞こえてきたのは、そんな意表をつく言葉だった。


「え? なんで……?」

『今日あたし1人だと思ったんだけど、他にも何人か出社しててさ。だから、せっかく途中まで来てくれたのにごめん』


 梨英からそれだけ伝えられると、すぐに電話が切られてしまった。

 あまりに突然のことで、智章は思わず蒼汰と顔を見合わせた。

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