第20話 嫉妬の原点に思いを馳せる
春は、様々な人間関係の始まりの季節であり、同時に終りの季節である。
私は、学習塾塾長という立場から、生徒さんの話ばかり語ってきたけれど、もちろん春につきものの変化は塾外からも来る。
古川さんの祖父、塩釜で造園業「古川函太郎商店」を営んでいる、古川親分からハンコの注文があった。なんでも、このたび個人商店だった「古川函太郎商店」を株式会社にするとかで、屋号の前に「株式会社」とつけるついでで、実印から何から、ハンコも一新するらしい。全くモノ入りでかなわねえ……と電話で打合せするたび、親分はコボしていた。けれど、孫の古川さん曰く「ウソウソ。おじいちゃん、嬉しくて仕方ないのよ。昭和の男は、テレ屋でやよね」だそうな。
仮にも「植木屋」なんだから、ハンコの材料は国産の木材で……という指定があった。
篆刻家としての、初仕事である。
私は鹿児島から取り寄せた薩摩本柘をためつすがめつして、あーでもない、こーでもない、と初仕事の感触を楽しんだものである。
作業場としている一階板の間は北向きで、夕方直に座ると、結構冷たかった。かといって、オイルヒーターのスイッチを入れるほどでもない。作務衣には似合わないけれど、学生時代愛用していた楽天イーグルスのスタジャンを羽織って、私は作業の続きに戻った。足袋から痺れるような感覚がして、私が火鉢を側に寄せると、大きな猫が部屋に入ってきた。
いや、ネコのコスプレをした桜子だ。
「寒いなら、ネコを懐に入れて、懐炉代わりにするっていうのは、どーだニャン?」
私が許可しないうちに、膝の上にスルリと横座りする。
「どーしたのさ、そのコスプレ」
「お姉ちゃんの結婚式の余興の練習だよ。みんな、普通にカラオケを歌ったりギターをひいたりするらしくって、1人ぐらいイロモノ枠がいてもいいかなーって」
「あのねえ」
新郎・鈴木君のほうの悪友がフザけるならともかく、新婦の妹がネコミミつけてニャーンはまずいだろう。
「1人でやるの、その余興?」
「本当はお母さんとやりたかったりして」
私は母娘ネコがニャーンしている場面を思い浮かべ、頭を抱えた。
「お魚くわえたドラ猫、やるんだよ。タクちゃん、なに考えるの?」
ハンコに、話を戻そう。
「ともあれ。篆刻の初仕事、おめでと。でもアユミちゃんのおじいちゃんの所、1本だけじゃないんだよね。他からも2本、注文受けたって聞いたけど」
「まあね。でも、正直あんまり乗り気じゃない」
エクストラの一本目は、例の消防士ヌードカレンダーを出版していた印刷屋からだ。
いや正確に言えば、そこの娘さんからだ。
季節感の問題もあるし、そろそろ本職消防士さんたちをモデルにして、撮影しようとした矢先。企画が立ち消えしたという連絡があったそうな。写真モデルになってくれる消防士さんの条件は「石巻管内で、結婚または婚約していない独身男性消防士のうち、有志の人たち」ということになっていた。昨年の今ごろはガールフレンドもいない独身消防士さんたちが、ボチボチ手を上げていたけれど、今年はそれが皆無だったという。なんでも去年のヌードカレンダーが好評で、カレンダーが完売したのはもちろんだけれど、そのモデルさんたちも「完売」してしまった……もれなく恋人ができるようになったのが、原因らしい。
婚約はしていなくとも、ボーイフレンドが裸を晒すのはイヤだという女の子たちが多かったらしく、名乗りがなくなったらしい。昨年カレンダーを買ってくれたファンの人たちは、もちろんガッカリした。印刷屋さんも仕事が減ってガッカリだけれど、もっともガッカリしたのは、この印刷屋さんの娘さんだったのかもしれない。
30過ぎ、腐女子を公言する娘さんは、ヌードカレンダーへの未練が断ち切れなくて、結局自作の道を選ぶことにしたらしい。どんなツテをたどったのか、いつの間にか丸森さんの取巻きサークルへ連絡がきて、あれよあれよという間に、彼らオタク君たちがモデルを勤めることに、あいなった。消防士さんみたいな見事な細マッチョではないにせよ、皆、この数週間姫にビシバシ鍛えられただけあって、人並みに腹は引っ込んでいた。けれど印刷屋社長である彼女の父親は、ゴーサインを出さなかった、という。消防士さんたちのほうは、チャリティーということで、公的支援があった……まんいち売れ残ったところで、正規の価格で引き取りますよ、という関係者が少なからずいたのだ。けれど、このオタク君ヌードには、そんな安全弁が全然ない。しかもモデルが恰好良くない。一人前にガールフレンドがいないような文科系ボーイズたちの裸体に、カネを払ってくれる人はいないよ……という、印刷屋社長オヤジの分析は、至極もっともだった。
けれど、父親の大反対にかかわらず、印刷屋娘さんは、未練を断ち切れなかった。結局、自分で印刷屋を立ち上げて、ムリにでもヌードカレンダーを発行することにしたのだ。パソコンとプリンタは既に自前のモノがある。知人同業者に中古の製本機械をタダ同然の値段で譲ってもらい、彼女は体裁を整えた。
そして、そんな商売アイテムの一つとして、私にハンコ作成の依頼をしてきた、というわけだ。
丸森さんのサークルに無理やり呼び出され、ポッチャリ君たちのヌードを無理やり褒めたたえさせられた後、血走った眼で、初対面の女性からそんなことを切り出されて、私は思わずつぶやいてしまつた。
「オタク君たちのチンチンを見るために、会社を作ったんですか?」
「見るためじゃありません。見せるためです」
娘さんは哀愁漂う顔をキリリと引き締めると、私の提示するハンコ注文書にサインした。
付き添いできていたお母さんが「こんなコトばかりしてないで、はやく結婚して……」と娘さんに泣きついていた……。
そして、三本目は梅子からだ。
結婚を期にフルネームの……「鈴木梅子」の実印が欲しい、と言ってきた。
不動産でも買うのでなければ、一個人には必要ないアイテムである。それに、せっかく作るのなら、私のような無名のペーペーじゃなく、国内でも知る人ぞ知る巨匠の作品のほうが、いいだろう。友達にも親戚にも自慢できる一品となる。具体的に言えば、我が篆刻の師、東海林先生の一品だ。自分を通せば格安で頼めるよ……と薦めた。
梅子はかたくなに「タクちゃんのが、いいの」とこだわった。
「どんなにヘタクソでも、無名でも、タクちゃんが彫ったハンコが欲しいのよ。空気読みなさいよ、バカ」
「……しっかし。ハンコの仕事を桜子に祝福してもらえる日が来るなんて、思ってもみなかったよ」
「あら、そう。でも私、いつでもタクちゃんのこと、応援してたじゃない」
「違うよ。最初は、かまってもらえなくて、嫉妬してたさ」
「ハンコに?」
「東海林先生に」
学生時代からの趣味の一環として……いや暇つぶしとして、私はハンコを彫ってきた。
もちろん、自己流だった。石巻に戻ってから、多賀城の小さなギャラリーで開催されていた個展で、東海林先生のお弟子さんと知合い、師匠その人とも知己を得るようになったのだ。仙台界隈でも、書道の個展はそんなに珍しくもなかったけれど、篆刻オンリーものは初めてみたのだった。
師匠の教えは、目から鱗が落ちるような知識の数々で、私は自分を基礎から鍛え直すことに決めた。連日連夜、天童に電話をかけていると、桜子が嫉妬して、通話の邪魔をしてきたのである。
相手は還暦過ぎのおじいちゃんだ、と私が何度言ってきかせても、桜子は納得してくれなかった。男に結婚適齢期なんてものがあるか知らないけれど、そろそろ身を固めても……と桜子の母親が茶飲み話していたせいも、あるのかもしれない。
思えば、我が姪は恋をする前に、自分自身の失恋に気づくような女子だった。
いもしない「恋敵」に嫉妬して、交際のコの字もしていない私に食ってかかっても、不思議ではなかった。
中学に上がる直前の女の子に、大人の男をどうこうできる手練手管があったわけじゃない。
保育園児時代に戻ったように、私にオンブやダッコをねだるのが、当時の桜子が考える、精いっぱいの誘惑だった。女性ホルモンの影響が出る前だけあって、色気のカケラもなかったから、私にとっては図体ばかり大きく・重くなった保育園児の子守をしている気分だったのだ。
私の「浮気」を疑っていた桜子は、私の一軒家に遊びにくるたび、「東海林っていう女」の悪口を私に吹き込んだ。その悪口の内容を繋げると、彼女は年増の、胸やお尻は確かに大きいかもしれないけれど太った女性で、動きが鈍ければ頭の回転も愚鈍なタイプ、ということらしい。どちらかと言えば無口で、お話もつまらない。
「どこにでもいる中年のオバチャンっていう感じだね」
「そうよ。オシャレのかけらもないオバチャンなのよ」
「桜子、東海林先生のこと、見たことも話したこともないくせに」
「でも、知ってるったら、知ってるのっ」
私が感想を述べると、桜子はまたムキになって言う。
「違うもん。タクちゃんの手に負えないような、悪女なんだよ」
どこで言葉を覚えてくるのか、ビッチだのヘンタイだの、あたかも目の前にその女がいるように、罵るのだった。
「無口で精気のないオバサン然としたオバサンなのに、同時にAV女優みたいなフェロモンむんむんの女性。そんな竹に松を接ぎ木したような女なんて、いないよ」
「えー」
「でも、今あげた条件を全部ひっくり返したような感じの女の子なら、いるね。桜子、君自身だ」
恋のシャドーボクシングの相手として、桜子は自分の対になるような女性像を創造した。それは、ありのままの桜子が、ありのまま闘い、勝てる相手だ。
子どもが、子どものまま、子どもらしい恋愛ごっこをしている姿は、とても可愛らしいと思う。けれどそれが、大人への一歩を踏み出そうともがいている結果なのだとしたら、大人としては、頭を撫でてやる代わりに、しっかりと手をひいてやるべきなのだろう……とりわけ、その娘が、自分に恋している、となれば。
「桜子。毎度の電話の相手が、実は梅子だったら、どーする?」
「え。タクちゃん、まさかお姉ちゃんとつきあってるの? デートしたの? チューしたの? 私と違って、もう、一緒にお風呂とか入ってないよね」
桜子は考えこんだ。
「でも、お姉ちゃん、一つ年上の生徒会の先輩とつきあってなかったっけ? タクちゃんに乗り換えたなんて話、聞いてないよー」
「東海林オバサンに対してやったような悪口三昧、お姉ちゃん向けには、しないんだね」
私がからかうと、プーと頬をふくらませて、私の背中をドンと叩くのだった。
その後、姉妹の間でどんなやり取りがあったかは、知らない。
梅子は私のことなんぞ眼中になかったし、妹を強力な恋のライバルになりえる相手とも、思ってなかった。
「お姉ちゃんに、かわいいを教えてもらいました」
新年度から始まる中学の制服に袖を通し、桜子はお披露目に来た。
「ふむ。確かにかわいい、かも」
私は確実に桜子を褒めたはずだったけれど、当の本人は顔色一つ変えず、私の頬をつねつた。
「なんだよ、もう」「お姉ちゃんの、アドバイス」。
「褒めた相手の頬をつねるのが、アドバイス?」
「嫉妬の感情のまま、彼氏や浮気相手を汚い言葉で罵るのは、かわいくありません。特に彼氏の前で怒るのなら、かわいく怒ること。ボキャブラリーに自信がないなら、しゃべらないほうがマシ。雄弁は銀、沈黙は金」
それで、嫉妬で呪いの言葉を吐く代わりに、私をつねったというわけだ。
実は、私のほうも梅子からアドバイスをもらっていた。
「いいもの、見せてあげるよ。東海林先生の写真。というか、プリクラ」
四の五の言ってないで、実物を見せればイッパツで解決……という梅子のアドバイスで、私は東海林先生を拝み倒して写真を入手したのだった。小学六年女子(中学上がる直前)の恋心を満足させるためと聞いて、先生の奥さんが茶目っ気を出した。先生と奥さんの「ラブラブ」プリクラ写真(しかも♥枠)を送ってきたのだ。優しそうな老夫婦がこちらに向かって微笑んでいる写真に、桜子は反応らしい反応
見せず「ふーん」と一瞥しただけだったけれど、その後はツキモノが落ちたように、「略奪愛を仕掛けてくる泥棒猫」の話はしなくなった。
俗な言い方ではあるけれど、大人の階段を一歩上った、のだろう。
皮肉なことに、この後、東海林先生その人から私は見合い相手を紹介してもらうことになる。桜子の母親が持ってきたものを含めて、失敗に終わった見合いをからかってくるのはもちろんだけれど、成功しつつある場合でも、桜子がひどい嫉妬を見せることはなくなった。
笑ってない笑顔で「今度本気で嫉妬するのは、タクちゃんが他の女と結婚したとき」と言われたときは背筋が凍ったけれど、梅子は妹の言葉を聞いて、予言した。「女子高生とかになって、キレイになったら、立場が逆転する日が来るかもよ。ま、彼氏の立場でタクちゃんが嫉妬するより、父親の立場で口うるさく、かもしれないけど」。
今のところ、梅子の予言は、来そうできていない。
桜子がそれなりにモテるようになったのは確かだけれど、私のほうが彼氏ヅラ……父親ヅラするところまでは言ってないのだ。
何より、手練手管が、保育園児時代から、変わってないのだ。
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