第71話 魔術師の戦い ー 3
「ここで襲われて、連れ去られた、ってところか」
壁を調べつつ、清水さんが言った。
「他の場所に心当たりは?」
幸介が首を横に振ると、困ったように溜息を吐く。
そのとき、戸倉さんが言った。
「ねえ見て、これ」
呼ばれて駆け寄ると、ペンライトで照らされたアスファルトの上に、黒い染みが点在していた。
染みはステージの周囲を埋め尽くし、やがて等間隔をもって四方八方に分散している。
「獣の足跡。おそらくは桃生敏明の魔獣かと」
「くじ引きのつもりかな。どれが当たりでしょう、ってね」
「全部追いますか? 時間はかかりますが、外に張った捜査員を呼べば可能かと」
「常套手段ならね」
そう言って、清水さんがこちらを見た。澄ました瞳。けれども、確かな意図を感じる視線。
どう思う? と問われ、困惑したのは幸介の方だった。へっ? と、素っ頓狂な声が出た。清水さんは言葉を繰り返した。試すような声色が、薄暮の中から飛んできた。
「君はどう思う? 忌憚のない意見を聞きたい」
「僕、ですか……」
戸惑いつつ、しかし幸介は思案した。足跡は魔獣が移動した証拠。戸倉さんの推測に、誤りはないように思える。しかし一方で、引っ掛かる点があるのもまた事実であった。
特殊情報局の組織力の大きさは、敏明さん自身がその口で語った通りに実感していたはずである。人海戦術を採られれば、足跡での陽動など、ほんの僅かな時間稼ぎ程度の成果しか期待できない。また、仮にそのうちのどれかが当たりであった場合、即座に居場所を掴まれてしまう危険性まで孕んでいる。
桃生敏明という人間の思考は、幸介自身が幼い頃より若干なりとも理解している節があった。故に、彼ならばもっと確実性のある方法を取るだろうと考えたのだ。
周囲に視線を凝らす。目に留まったのは、全身を泥で汚したシロの姿だった。対して、一緒に先陣を切っていた清水さんは小綺麗な格好のままである。両者の差は、戦闘方法の違い。清水さんが飛び道具であるのに対し、シロは格闘戦。しかも全身くまなく泥塗れということは、戦った相手もまた泥塗れということであり―――
「戸倉さん! 明かり!」
奪い取るようにして戸倉さんのペンライトを借り、周囲を照らす。注目したのは、足跡の向かった方向であった。
足跡は正門のある中庭方向へ五つ。裏門のあるグラウンド方向へ三つ。そして購買のある建屋の方向へ二つ。そして食堂の裏を抜ける通路に一つ。
「これだ」
食堂の裏へと抜ける道を指し、告げる。
「この足跡がどうしたの?」
戸倉さんは不思議そうに首を傾げた。
「この足跡だけ、通路の端に寄ってるんです。他の足跡は、わざとらしいほど通路の真ん中を歩いてるのに。魔獣が端を歩いたということは、隣を別の誰かが歩いたということだから―――」
言うが早いか、幸介は駆け出す。一本の足跡を辿り、食堂の裏を抜ける。戸倉さんたちはその後をついてきた。緩めた足に歩調を合わせるようにして、立ち止まった幸介の背中から、ライトが照らし出した先を覗き込んだ。
「ここです。ここで足跡が通路の中央に寄ってる。魔獣の隣を歩いていた者と、ここで分かれたんです」
足跡の先を照らす。自ら発した言葉通り、通路の中央に寄った足跡は、別方向からやってきた他の足跡と合流し、駐車場方向へ谷を迂回する車道へと続いていた。
「敏明さんは、泥に塗れた魔獣を引き連れて行動したくなかった。物量作戦で押されれば、簡単に居場所を特定されるから。だから泥のついた魔獣は、囮として各所の守備部隊に回したんです。現に、シロの戦った相手にも、泥のついた個体がたくさんいました」
「じゃあ、桃生敏明は……」
戸倉さんが問う。幸介が動かした視線に追随するようにして、各員が同じ方向を見やる。
そこには一棟の建屋の入り口があった。谷に沿う形で建てられたそれは、一階部分が谷の底に位置し、四階部分が谷の頂上にあたる現在位置に面している。加えて建屋に並列する格好で、谷の頂上から底へ向かう外階段が伸びており、二階・三階部分からも外階段に繋がる出入り口が確保されている。
つまり、万が一物量作戦に押されたとしても、大学内の他の建屋に比べて圧倒的に逃げ道が確保しやすいということ。
幸介には自信があった。慎重に慎重を期す敏明さんの性格を知るからこそ、断言できることがあった。
「確か中に音楽ホールがあったはずです。そこなら、外に音が漏れる心配もない」
それ以上の言葉はなかった。四人が四人、ほぼ同時に駆け出した。センサー式の自動ドアはシロが無理矢理こじ開け、なだれ込むようにして建屋内に入る。ホールは四階にあった。故に、少し足を踏み出すだけで、抱いていた自信は確証へと変わった。
ほんの僅かだった。ホールのドアが開いていた。
その隙間から、金色の光が薄闇の中に漏れ出している。
思い返せば、なんと無謀な行動だろうか。
待ちなさい! と声を張り上げた清水さんの言葉は、両鼓膜を素通りして意識の外側へと流れていった。無我夢中とはまさにこのことで、光に導かれるようにして取っ手を掴んだ幸介の腕は、もはや躊躇うことを知らなかった。
勢いに任せてドアを開け、ホールの中へと突入する。金色が景色を満たし、やがて靄が晴れるように霧散していく。
予想はしていた。覚悟もできていた。いや、できていたつもりだった。
つもりだったからこそ、眼前の非情すぎる現実に、思わず幸介はその息を呑んだ。
【次回:混濁、それから - 1】
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