第64話 米谷幸介 ー 1
まず張り飛ばされた。次に蹴りが飛んできた。
張り手も蹴りも、意識がそれを受けたのだと理解したのは、重い衝撃を受けた体がフローリングの床に倒れ込んでからのことだった。
衝撃の主は戸倉さんだった。彼女は、誰の顔でも見たことのないような形相で怒っていた。それはもう、怒り狂うという言葉をそのまま顔面に貼り付けたような勢いで。
「クソガキが!」
荒ぶる感情に任せて、もう一発蹴りをぶち込んできた。衝撃は腹に走った。胃の中のものが食道を逆流し、オエッとえずく。胃酸に焼かれたのか、喉の奥がひどく熱を帯びる。応急処置を受けたばかりの右腕が、鈍痛と共にズキズキと鼓動を刻む。
敏明さんが消えてすぐ、戸倉さんたちは桃生の家にやってきた。警察の車両が家の前を占拠し、特殊情報局の人間が次々と中に入ってきた。現場検証が始まると、幸介は首根っこを掴まれる形で部屋を追い出された。シロと共に一階の廊下へと連行され、戸倉さんに詰め寄られた。
「あんたが捜査に協力する限り、あたしたちはあんたを守ると言った。でもね、自分から死にたがってるやつを善意で守ってやれるほど、あたしたちも暇じゃないんだよ! 腕を胴体から引き剥がしたいなら戦争屋にでもなりやがれってんだ!」
降り注ぐ罵声の嵐を、幸介はただ流されるがままに受け止め続けた。反論する気力は起きなかった。そんな資格などないことは、誰よりも自分がよく理解していたから。
焦点の合わない瞳でフローリングの筋を見つめ、次の言葉を待った。けれども降ってきたのは、別の人の声だった。
「いやー、ひどいねこりゃ」
ゆっくり体を起こすと、清水さんとシロが階段を下りてくるところだった。
戸倉さんが尋ねた。
「白骨、桃生みちるですか?」
「十中八九ね。鑑定の必要はあるけれど、女性の骨だってことは確かだよ」
「植物の方は?」
「本体はアラレアだね。ごく普通の観葉植物。でも土の部分は、魔力で練られた人工土壌だったよ。匂いの元はそっち。動物はあの部屋で食わせてたみたいだし、その臭いを誤魔化す意図かな」
言いながら、清水さんが戸倉さんに肩を並べる。よっこらせ。呟きながら腰を落とすと、幸介の眼前に二枚の紙を突き出した。
敏明さんが使った、紋様の書かれた紙だ。
「確認。これを使って桃生敏明は魔獣を呼び出した。そしてどこかへと消えた。そうだね?」
「……はい。でも、それは……?」
「魔術式。まあ、魔法陣みたいなものだよ。もっとわかりやすく言うなら、複雑な魔術を用いるときに使う、カンニングペーパーみたいなものだと思ってくれればいいかな。これは両方とも転移の術式。指定座標からものを呼び出すやつと、指定座標にものを転移させるやつ」
「複雑な……魔術……」
言葉を継いだのは戸倉さんだった。
「とびっきりね」
吐き捨てるように、言い放った。
「特別過ぎて、誰も使いたがらないぐらいには」
「そうなんですか? 魔術らしくて……むしろ使いそうな気がしますけど」
戸倉さんは息を吐いた。これだから素人は。馬鹿にするように言葉を放ち、やっとの思いで立ち上がった幸介を睨んだ。
「瞬間移動だよ? どうやりくりしたって、魔力の消費量が多すぎる。人によっちゃ、使っただけで死に至ることもあるっていうのに……」
「それだけの覚悟ということさ。僕たちには理解できなくても、彼にとってはそうなんだ」
行こう。清水さんが告げる。
どこに? とは訊けなかった。言葉を発するよりも先に、戸倉さんに腕を掴まれたのだ。
引き摺られるようにして家の外に出ると、正面の道に黒塗りの車が停まっていた。一昨日乗せられたものとは別の車だ。運転席にシロ、後部座席に清水さんが乗り込む。幸介は清水さんの隣に座るよう促された。全員が乗ったことを確認してから、戸倉さんは助手席に乗り込んだ。乱暴なドアの閉め方に、感情が乗っていた。
行くと言った割に、車は動き出さなかった。エンジンもかかっていなかった。
代わりに、清水さんが言った。
「すまなかった」
言葉と共に、幸介へ向かって深く頭を下げた。
びっくりした。びっくりして、思わず変な声が出た。へっ? 素っ頓狂な反応を見せた幸介に対し、しかし清水さんは構わず言葉を継いだ。
「君の過去の件だ。ずっと知らないフリをしていた。そのことを、謝りたかったんだ」
ああ、と思った。そのことか、と息を吐いた。
闇の底から滲み出すようにして心を侵食していったのは、虚無の感情だった。
【次回:米谷幸介 - 2】
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