第63話 仕方なかった ー 3

「―――っ」


 息を呑んだ。その言葉が、その名前が、この場で彼の口から発せられるとは、幸介自身が微塵も思っていなかったから。


 唇はわなわなと震え、緊張に満ちた脂汗が額に吹き出す。敏明さんが、その事実を存じていることだけは承知の上だった。だがその一方で、彼だけは絶対にその件を口にしないだろうという自信が、幸介にはあったのだ。


 六年前の転居を経てもなお、自分と普通に会話してくれた彼だからこそ、信じていたのに。


 不思議そうに首を傾げて、敏明さんは言った。


「もしかして知らないとでも思ってた? いやいや、当然知ってるよ。十年前―――」


「やめろ!」


 行動しようと意識したわけではない。しかし思考が停止したのは一瞬の出来事で、気付けば幸介は眼前の敏明さん目掛け、叫び声と共に掴みかかっていた。


 もつれるように、二人揃ってカーペットの上に倒れ込む。踏み潰された骨の割れる音と共に、部屋が揺れる鈍い音が響いた。体勢は幸介が有利だった。胸ぐらを掴み上げ、馬乗りになるような格好で、歳の割に細い敏明さんの下半身を抑え込んだ。


 けれども敏明さんは、平然とした顔をしていた。必死の形相の幸介を嘲笑うかのように目を見開き、言葉の続きを語った。


「十年前、君は母親に殺されかけた。でも殺し返した。有名な話じゃないか!」


 瞬間、視界が染まった。色は白色だった。沸騰した怒りの感情を、心は正しく認識することができなかったのだ。振り上げた右腕は衝動的なもので、相手のどこをどう狙ったのかすら、よく覚えてはいない。


 状況が理解できたのは、刺すような痛みが右腕に走った直後のことだった。激痛と共に、大きな影に圧し潰されるような格好で、幸介はカーペットの上を転がった。


 視線を動かすと、鋭い牙が右上腕部に食い込んでいた。


 森で出会ったものと同型の魔獣。あのときは魔力のせいで大きく見えたのだろうか、狼のように思えていたそれは、中型の犬の姿をしていた。


「まったく。今更なにを言っているのか」


 もがき苦しむ幸介をよそに、のっそりと立ち上がった敏明さんの言葉が降ってくる。


「君は母親を殺した。死なないために、仕方なく。僕も同じさ。娘を守るために人を殺した。仕方なく」


「違う!」


 強く否定する幸介。しかし敢えて言葉を遮るように、敏明さんも語気を強めた。


「違わない! 同じだよ! 僕と君は同じだ!」


 言葉に呼応するようにして、魔獣の牙が肉の奥深くに食い込んでいく。鈍痛が体中を駆け巡り、幸介が呻く。息は浅く、時間の経過と共に視界が霞む。魔獣が腕を噛み千切ろうとしていることを理解するのに、そう時間はかからなかった。


 痛い。痛い。


 やがて感覚は熱を帯びていった。


 熱い。痛い。熱い。


 血が出ている。視界に映る範囲だけでも、いっぱい出ている。


 脳裏を過ったのは、シロのことだった。あの日、あの森で、もしも偶然シロに出会っていなければ、自分はこうして殺されていたのだろうか。


 偶然。そういった奇跡的な産物を、人は時に『運命』と称することがある。けれども不思議かな。幸介は、こうして死の淵に瀕してなお、それを運命と定義づけることができずにいた。なぜならば、これは自分自身が選んだ結末だからである。


 スマホはポケットにしまった。しかし通話は切らなかった。だからこそ彼女は、会話の情報から、幸介の居場所を敏明さんにも感づかれることなく察知することができる。


 期待半分。ダメで元々。万が一の保険。けれどもこの状況においては、期待が現実に勝った。


 窓ガラスが割れる。飛び込んできた白い影が、魔獣に体当たりをかます。


 自慢の魔獣が吹っ飛んでいく様に、息を呑んだのは敏明さんだった。


 あっという間の出来事だった。魔獣を組み伏せ、森と同じ要領で水晶―――コアを破壊したシロは、闇を携えたライダースーツを翻して敏明さんの前に立ち、毅然と言い放つ。


「桃生敏明。殺人未遂及び死体遺棄の現行犯で、あなたを拘束します」


 幸介が知る通りの、平坦な口調。しかしどうしてか、今回に限っては妙に感情に満ちた声色に聞こえた。


 対照的に、困ったような息を吐いたのは敏明さんだった。そうかそうか。どこか納得したような表情で頷きつつ、据わった視線がシロを睨んだ。


「君が、邪魔をしてくれた張本人か」


 そして言うが早いか、懐から取り出した紙を床に叩きつける。現れたのは光だった。いや、光を纏った魔法陣のような代物だった。


 一見するだけなら図式のような紋様が、紙を中心にカーペットの上一帯に広がる。直後、目が眩むほどの光の中から、先ほどと同タイプの魔獣が三頭、姿を現した。


 唸りを上げる魔獣たち。その向こう側に、敏明さんの姿がある。


「また邪魔をされては困るからね。悪いけど、撤退させてもらうよ」


 再び光が灯る。今度は、敏明さんの後方の壁に紋様が現れた。


 魔獣が襲い来る。幸介を背中で庇いつつ、それらを一頭ずつシロが捌いていく。一頭目を倒した頃、光が強くなった。二頭目を倒した頃、敏明さんの姿が見えなくなった。


 そして三頭目を片付ける頃には、光と紋様そのものが見えなくなっていた。


【次回:米谷幸介 - 1】

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