くりなり

いのののの

第1話

 放課後。黄昏たそがれ時。

 クラスメイトたちもいなくなった孤独な教室。


 窓を開けてみると、初秋にしては冷たすぎる風が教室に吹き込む。

 まとめられていないカーテンは揺れ、学生鞄につけたお守りの鈴が鳴り響く。

 最後列の机に腰かけ、ありもしない未来について思いをはせる。

 教室へ入ってきた担任が「そろそろ教室を閉めるぞ」と言う。

 聞きなれた言葉に頷き返すと、ボクは教室を後にする。


 行く当てもなく下駄箱までふらふらと歩いて行く。

 もう靴を履き替える余裕すらない。というか、あまり履き替える意味はない。


 上履きのまま、街へ繰り出す。行く当てはない。自宅は消えていたから。

 学校外での自分は文字通り空気になってしまったみたいに、誰にも相手にされない。

 本当に見えていないんじゃないかと思って、器物破損をやってみようと考えたこともあったが、ボクの中ではまだ理性のほうが強い。

 自分の一瞬の欲望で他人に迷惑をかけるのは、さすがに気が引けるというやつだ。


 いつもと同じように近所の公園で時がくるのを待つ……。

 丑三つ時になると同時に、ボクの意識は暗闇に落ちていく。

 そして、見覚えのある日が始まっていく。


 覚醒と同時に教室にいることを確認する。理由はわからないが、いつもこうだ。

 半ば諦めながら、黒板に書いてある日付を確認するも昨日とは変わらない。

 見飽きたクラスメイトたちの下校風景は、吐き気を催す。彼らにとって昨日と今日は違う1日に感じられているらしい。

 ボクにとっては286回過ごしている同じ放課後に過ぎない。繰り返す9月9日。誰が何を言って、何をするかまで手に取るようにわかる。


 だが、くり返す日についてわかっていることは、そんなに多くない。

 最終下校時間までは学校から出られないこと、9月10日午前2時には意識が飛び9月9日の放課後黄昏時に戻ること、最後に幼馴染の葉月がいないことくらいだ。


 状況を打開するために何かないのかと、あらゆる行動を試してみたが、効果はなかった。

 ボクがやったことも次の日――9月9日――になれば、そんなことは誰も覚えていない。ただ、最終手段として実行していないことがいくつかある。そろそろ、試してみたくなっていた。


 花を摘みに行く淑女のようにゆっくりと立ち上がり、近くの用具箱から拝借したカッターの刃をジリジリとむき出す。

 カッターを握る右手が少しだけ震えていたような気がするが、自覚症状はない。

 こういう時は、迷ったらいけない。

 歯を食いしばってこめかみあたりにグッと力を込めるイメージ。

 そのまま振りかぶったカッターを思いっきり刺す。

 最初に膜を突き破る感触、皮膚を貫通したんだろう。

 次に肉を断ち切る感触、筋肉による抵抗があったんだろう。

 なるほど、これは独特の手触りだ。

 鮮血は思ったほど飛び散らない。

 刺した場所から滲むように黒々とした血が流れ出す。

 初めて人――自分――を刺した。


 ……痛みよりも熱でどうにかなってしまいそうな左手を圧迫止血する。

 少し遅れてくる鈍痛。やがて傷跡は鋭い痛みをもたらす。気づけば、脂汗が止まらなかった。

 手術をする時は絶対に麻酔をするべきだなと、現状と関係ないことが脳裏に浮かぶ。

 どう我慢しようとも漏れる嗚咽と血に汗。

 自傷行為の実験は順序を追うべきだったと、今さらになって思い切りのよい性格を憎んだ。


 さすがにこの傷を放置はマズい。手当てをしたほうがいいはずだ。

 ボクは学生生活で初めて保健室を訪れる。

 入った瞬間に痛みをかき消してしまうようなタバコと香水のブレンドされた匂いが鼻をつく。

 痛みと匂いで気がどうにかなりそうなボクを迎えたのは、椅子に座った無精ひげと白衣の壮年の男。

「珍しい」と小さく呟き、気だるそうに立ち上がる。

「派手にやったな」などと言いながら、彼は手際よく消毒と滅菌された布などを用意する。顔に似合わずと言ったら失礼になるんだろうが、丁寧に素早く処置され、縫われたボクの傷跡。

「自傷にしては、ちとやり過ぎだな。だいたいね、ガッコーでやるんじゃないよ。面倒なんだから」

 ぼやきながら医療用手袋を外して、シャツの胸ポケットからタバコを取り出そうとするも、ボクのほうを見て動作を止める。

「吸ってもらって大丈夫です」

「悪いね」と口では言いながら、悪びれる様子もなく紫煙を燻らせる養護教諭。

「……で、一応聞いておかなきゃいけないんだけど、どうしてやっちゃったの」

「先生は同じ日が繰り返すという現象が実際に起こると思いますか」

 ボクと目を合わせた養護教諭は「パニック……というわけじゃないみたいだね」と会話を区切る。

 詳しい部分は省略しつつ、ボクが置かれた境遇について、この怪しげな大人に相談することにした。

 何故この人に話したのか。特別な理由はないが、どうせ明日にはリセットされている可能性もあるし、実験的な意味合いのほうが強かった。

 ほかの教師にも同じ話をしたこともあるが、まともに取り合ってはもらえなかった。

 養護教諭は「なるほど……」と呟いた後に紫煙を吐き出す。

「少年、隠し神というものを知ってはいるかね」

「神隠しではなく、ですか?」

「そう。非常にオカルトな話だが、妖怪の一種のようなものをそう呼ぶ」

「その隠し神に連れ去られた?」

「というのが、ひとつの仮説。もうひとつは神奈備かむなびに入り込んでしまった……か」

 聞きなれない言葉に疑問を浮かべる。

「神聖な山や森のことさ。じつはこの近くにもある」

 その説明を聞いて、なんとなくボクの頭の中のパズルがハマり始めた。

「先生は何故そんなことを?」

「ふむ……。それは聞かないほうがいいかもしれない」

 ボクは静かに頷くと「ありがとうございました」と礼を述べ、保健室を後にしようとする。

「ああ、キミ。繋がりはまだあるのか」

「繋がり?」

「現世と常世を繋ぐものがあれば、まだ戻れるかもしれないよ」

 タバコを咥え、椅子の背もたれに深く体を預け、何もない空間を見つめる養護教諭は、餞別を送るようにそう言った。

 左手の鈍痛が深い思考を妨げる。あと少しで何か掴めそうなのに邪魔をしないでほしい。


 大禍時が終わり、夜の帳が下りた頃。

 ボクは先ほど聞いた神奈備にあたる場所に向かっていた。

 推論が間違っていなければ、いつも夏祭りが行われる神社の近くにある森。

 そこが神奈備なのではないか。

 ボクはそこを日付上では最近――体感では1年近く前――に幼馴染の葉月と訪れていた。


 ※


 少し広い石段を浴衣姿の面々が往来していた。

 ボクと葉月は肩が触れるか触れないかの距離で石段を登る。

 だんだん、祭囃子と屋台から発せられる音が聞こえてくる。

「ねえ。何か食べよっか」

 そう言ってこちらに目を合わせてくる葉月の栗色の髪が揺れる。

「たこ焼き」

 正直なんでもよかったが、目についたのがたこ焼きだった。

「えー、私はりんご飴がいいなー」

「じゃあ、なんで聞いたんだよ」と言ってみるが、いつもこんな感じなので不快感はない。

 りんご飴を探しているあいだも特別会話はないが、幼馴染にもなるとそんなものだと思う。

 人混みをかき分けて、やっとのことでたどり着いた屋台で葉月にりんご飴を買ってやる。

 それにしても高校生にもなるのに、りんご飴をあんなに楽しげに待てるのは才能なんだろうか。

「そんなに楽しみ?」

 ふと興味本位で聞いてみることにした。

「うん。こういう時にしか食べられないでしょ。りんご飴って」

「たしかに、普段食いはできない」

「それに……と、いっしょ……し」

「ん?」

 葉月が何やら言っていたが、喧騒にかき消されてしまう。

「な、なんでもないっ」

 何を言いかけたのか少しだけ気になったが、しつこく聞くと怒られそうだ。

「あ、そうだ。花火の場所、早めに行こう!」

 ボクは人混みで見る花火がそれほど好きではない。どちらかといえば、静かなところで見たい。

 そんなわけで今年は人気のないところを探していた。

「葉月、いい場所見つけたんだ」

「え、どこどこ?」

 今思えば、これがきっかけだったのかもしれない。


 ※


 あの日の夜と同じように祭りが行われている神社から少し離れた森のほうへと入って行く。


 森には不思議と月光がほどよく入り、懐中電灯を持たずとも歩ける。

 響いてくるのは自分の心拍音と森を踏み鳴らす足音だけ。

 耳を澄ましても木々が揺れる音はせず、生き物すら鳴りを潜めているような静寂に本能的な恐怖を抱く。左手の痛みだけが、現実を思い出させてくれた。


 距離感覚が狂ってしまいそうなこの場所でボクは、確かに葉月と花火を見た。

 夜空に咲く花は刹那的で美しく、人々を魅了する。

 時たま花火の光が反射して、よく見えなかった葉月の表情がわかる。

 楽しそうで、うれしそうで、なんだか切なそうな顔だった。


 叶うものなら、もう一度あの顔を見たい。

 そんな想いを胸に、ふたりで花火を見た場所に座る。

 何がきっかけか突然、森に風が吹く。初秋にしては冷たすぎる風。

 葉月からもらったお守りの鈴が鳴ったような気がした。

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