第34話 一人のお茶時間
月に一回とお願いしていたレッスンはすぐに月二回になり、翌月には毎週となった。
先生のお宅に訪問することになったので、母が送ってくれることになった。帰りは近くのバス停まで歩いて、バスに乗って駅まで向かう。
駅に着いて、私はメールの確認をする。花から何か来てないかと思った。イヤフォンをつけて、チェックすると何か来ているようなので、タップしてみると、天使のようなチェロの音が流れ出す。
「あ…」
(京のチェロだ)
美しいアヴェマリアの旋律が耳の中から体に入っていく。優しく甘く私を包んでくれた。
(響きが全く違う)
気がついたら、頰に涙が伝っていた。
乗るはずだった電車も見送っていた。
京が聴かせたかった音が体を巡っている。遠くにいる京が私を包んでくれているようで、私は久しぶりに幸せな気持ちになった。光が天から差している。音が消えても私はホームに立ち尽くした。
「…大丈夫ですか?」と見知らぬ人に声をかけられる。
電車を乗り過ごして、涙を流している白杖を持った私を心配してくれる優しい人だった。落ち着いた女性の声がした。
「…あ、ごめんなさい」と慌てて涙を拭う。
「次の電車は八分後です。良かったら、ベンチに座って待たれますか?」と言って、ベンチまで案内してくれる。
そして私はもう一度、京の演奏を聴いた。誘われていたヨーロッパでの演奏だろう。拍手と歓声が聞こえる。
(…そこへ行きたかったな)と今更思ってしまう自分にため息をついた。
(きっと京はどこでも素敵な演奏ができると思ってた。私はようやく、京の後を追いかけようとし始めたところで、随分、大きな差があるけど、きっと一生かかっても埋められない距離だけど、でも…あの時、京が怒ってくれたこと、それも私の種が育つ肥料になったから…、いつか一緒に演奏できることを目標に頑張るね)と出せない手紙を心の中で綴る。
あの頃に今、戻れたら、私はきっとちゃんと練習するのになぁ…と、これも伝えられない気持ちだったけれど、心の中で呟く。
ようやく涼しい風が吹き始めて、頬を撫でていく。京のお陰で私は久しぶりに微笑むことができた。
乗り換え駅で、私はコーヒーを飲むことに挑戦することにした。でもその前にお母さんに心配されるから電話を入れる。
「どうしたの? 駅まで迎えに行こうか?」と焦ったような声が聞こえた。
「ううん。あのね。少し寄り道して帰るから」
「誰かと一緒?」
「ううん。一人だけど。コーヒーを飲んでみるの」
「え? 那由がコーヒー?」
「あ、紅茶かも知れないけど」
「分かったわ。遅くなるようだったら、駅まで迎えに行くから連絡して」とお母さんが覚悟を決めたように言う。
お母さんも私も今までずっと、事故の後からずっと二人で一緒だったけど、これからは私は私でやっていかなきゃ、と思ってたから、お互いに少しずつ距離を取っていかなきゃいけない…と思った。
一人で珈琲店に入ろうと思ったが、分からない。コーヒーのいい匂いがするので、近くにあると思うけれど、ぼんやりしていてどれがそうか分からない。近くを通り過ぎる人に聞いて、入り口まで連れてきてもらえた。親切な人にお礼を言って、お店の中に入る。レッスンの後に少し休憩して帰るのも悪くないと思った。
そして私は声をかけてくれる店員さんに案内されて、席についた。
「メニューわかりますか?」と言われるので「コーヒー…あ、カフェオレありますか?」と言う。
「カフェオレもありますけど、ウィンナーコーヒーって言って、生クリームが乗っているのもあります。ジュースもあります。もちろん紅茶も。ケーキも種類が少ないですがあります」と丁寧に教えてくれた。
私はウィンナーコーヒーとイチゴのショートケーキを頼んだ。運ばれて来て、私はそれを写真に撮った。上手く撮れたか分からない。何かは映っているはずだった。その写真を京に送信した。アヴェマリアのお礼としてはかなり微妙だけれど、私は元気で、一人で喫茶店にも入ったと言うことを知って欲しかった。本当は声が聞きたかったけれど、さすがに声を聞いてしまったら、辛くなると思って。京だってきっとそうだからチェロだけ送ってくれたんだと思った。ボイスメッセージはお互いに送れない。
ゆっくりと一人でお茶の時間を楽しんだ。あの頃のようにベンチに座って、一人でお菓子を頬張るんじゃなくて、一人で喫茶店でケーキを食べている。そして京との思い出を繰り返しながら、甘くて、苦いコーヒーを味わった。
ピアノは毎日、夜に練習をした。土曜日は一日中。そして日曜日のレッスン。だから寄り道するお茶の時間は貴重なリラックスタイムだった。京は三日に一度の頻度でチェロを届けてくれるようになった。そんな日はコンサートがあった日だと分かる。京がコンサート終えてすぐに送ってくれている。チェロの音が届けられるたびに、私は神様に感謝した。
見えないのが目で良かった。耳が聞こえる幸せを京のチェロを聴きながら感じていた。
私はお返しに、レッスン後の喫茶店の写真を送る。今日はホットケーキとレモンティにした。お店の人も私に慣れてくれて、席まで案内してくれる。混雑している時は申し訳なさそうにカウンター席を案内してくれた。その日は雨で少し見えにくい日だった。ゆっくり食べて、ぼんやりしていると、隣の席の人に声をかけられた。
「あの…もしかして。チェロの西澤さんとピアノ弾いた方ですよね?」
「え?」と私は声のする方に顔を向けた。
「あ、突然、すみません。私、西澤さんのファンで」
「…そうですか。ごめんなさい。私が…演奏して…。本当はもっと上手い人と演奏すると良かったんですけど」と私は慌てて謝った。
「いえ。そんな…。あの時の演奏が…今までと全然違っていて…。なんて言うか、優しくて、暖かくて…私、最後のアンコール曲はちょっと泣いてしまったんです」
思いがけない感想を聞いて、私はなんて言ったらいいのか分からなくて「ありがとうございます」とお礼だけ言う。
「いつも自信満々で堂々と演奏する西澤さんがすごく格好良かったんですけど、あの日は本当に…大切にチェロを弾いている音がして」
私は自信満々の様子が思い浮かべてしまい、思わず笑ってしまった。そうだ。京はいつも堂々と何者にも揺るがされないような態度で音を出していた。でもふと指で辿ったチェロを抱え込む大きな背中を思い出す。腕の筋肉の筋、大きな手と長い指…。
「あ、ごめんなさい」と急に謝られて、私は涙を零していたことに気がついた。
「…こちらこそ。何だか 懐かしく感じて。ちょっと前のことなのに…」
「今、ヨーロッパですよね。もうすぐ帰ってくるとか…」
「…そうなんですね」
「また一緒に演奏とか…」
「今は無理ですけど。…いつか、そうなれたらいいなって思ってます」
「ぜひ…そうなって欲しいです。楽しみに待ってます」と弾んだ声がする。
私は誰かにそう言われて、嬉しくなった。練習、頑張ろうと思った。
ネット上でさまざまな声が上がっていることを私は幸い気にすることもなく、ピアノの練習に打ち込めた。仕事先でも少し元気になった様子を見せることができるようになっていた。秋が深まってきて、京がそろそろ日本に帰ってきているはずだった。
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『私、その子知ってる。大学一緒だったから。すごく下手で、存在感がない子だった』
『え? でも普通に上手だったよ?』
『あの程度の曲なら…まぁ…音大行ってるなら、誰でもって感じ』
『顔も特に特徴ないし』
『顔関係ある? www』
『楽器屋で見た時は可愛いと思ったけどなぁ…』
『関係者、おつ』
『ディスりたい人多いんだね』
『ニッシーのファンでしょwww』
『あの二人付き合ってるってまじ?』
『あ、あたし聞いたけど、『はい』ってニッシーが言ってた』
『嘘でしょ?』
『ニッシーって塩王子なのに言うわけないじゃんw』
『この間、花束渡したら、ありがとう言うてたよ』
『成長したなー(*^ω^*)』
『誰目線? (=^▽^)σ』
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