25. きっと、大丈夫


 「平常心。へいじょうしんへいじょうしんへいじょうしん……」

 そう呟いて、隣の下宿屋の玄関の戸をそっと開ける。

 昨日、私は、うっかり、というか思わず、ヒロヤを抱きしめてしまった。

 びっくりして帰ってしまった彼に、今日は、きちんと謝らなければ。


 昨日の帰り道。

 このところ、妙に元気のなかった彼が気になっていた私は、心配事でもあるんじゃないかと彼に訊いた。「ありがとう」「大丈夫」そう言って彼は笑ったけれど。

 でも。

 その顔が、あまりにも淋しそうで、心細そうに見えたのだ。

 口元は笑っているのに、目が泣き出しそうに見えた。

 もしかしたら、この人は、いつもずっとこうやって、笑いながら、何でもないと、大丈夫と言いながら、1人で抱えてきたのかも。弱みをあまり見せることもなく。

 そう思ったら、思わず、腕が動いた。彼をぎゅうっと抱きしめてしまった。


……いやいや、いろいろ言い訳を並べても、唐突に何をするねん、と言われてもしかたのないことをやらかしてしまった。


 困らせたよな。……間違いなく。

 反省しながら、昨夜は熟睡できなかった。そして、うとうとしながら見た夢で、小さな男の子姿のヒロヤの頭を撫でたりもして。


 幸い、他の6人の目のないところでの話だから、これ以上、ヒロヤを困らせないように、いつも通りに振る舞って、あとで、こっそり、ヒロヤには謝ろう。

 そう心を決めた。


「おはようございま~す」

 小さな声で言いながら、廊下を真っ直ぐ進む。そのまま進んでキッチンへ行く前に、途中、廊下の左側にあるリビングを覗く。いつもより早いからか、まだ誰もいない。


 ちょっとほっとしながら、キッチンの暖簾をくぐると、

「おはよう」

 ヒロヤが、いた。いつも通りの顔だ。頭のてっぺんに近いところで、髪の毛が少しはねている。

「あ、お、おはようございます」

 慌てて挨拶を返す。つい言葉がいつもより丁寧になってしまう。でも、これだけは言わなくては。

「き、昨日は、ごめんなさい。びっくりさせて」

「いや。こっちこそ。……心配かけててんな。ごめんな」

 ヒロヤが、申し訳なさそうな顔になる。


「あつかましいっていうか、変なことして、ごめん」

「いや。そんなことないよ」

「なんか、なんていうか。何かわからへんけど、1人で悩まんといてほしいな、って。何も力にはなられへんかもしれへんけど。1人じゃないよ、力になりたいって思ってる人間がここにもいるよ、って思って、思わず」

 一生懸命言うと、ヒロヤが、溶けそうに優しい笑顔で、滲むように笑った。

「……そう、口で言えばよかったね……びっくりさせて、ごめん」

 私が続けた言葉に、ヒロヤが静かにそっと首を横に振った。


 うつむく私に、ヒロヤがそっと腕を伸ばした。そして、次の瞬間、私は、ヒロヤの腕の中に包み込まれていた。

 優しい声が頭の上から降ってくる。

「……びっくりはしたけど。嬉しかったよ。気にかけてくれる人が、心配してくれる人がいる、ってことが、すごく伝わってきて、……嬉しかった。ありがとう」

 

 彼の鼓動と体温がお互いのTシャツを通して伝わってくる。

「……今は、まだ言えないこともあるけど。また、いつか話せるときが来たら、聞いてくれる?」

 ヒロヤが、穏やかな声で言った。

「うん。もちろん」

 私は、力一杯うなずく。

「よろしく。……これで、あいこやな」

 彼は、そっと腕をほどいて、私にほほ笑みかけた。

 その笑顔は、泣きそうでも心細そうでもなかった。胸に染みるような温もりのある笑顔だった。


 深呼吸を一つすると、

「じゃあ、今日も、がんばりましょうか」

 彼が、にっこり笑って、握りこぶしを私に向けてきた。

 握ったこぶしを、可愛く、招き猫みたいに、くいくい動かしている。

「うん。がんばろう」

 私も、応えるように握りこぶしを作って、彼の握りこぶしに軽くぶつける。


「ところで、今朝のメニューは何?」

 ヒロヤがニコニコしながら言う。頭のてっぺんで、はねた髪がひと束揺れる。

(可愛い……)そう思ったけど、もちろん、今日は不用意に撫でたりしない。

「今朝はね、クロックムッシュとね、ヨーグルトと、フレッシュフルーツジュースと……」

 言いかけたところへ、6人が次々に、飛び込んできた。

「やったあ~。で、クロックムッシュ、って何?」ユウトが両手を挙げながら、首をひねる。

「なんかわからんけど、美味しそう」サキトがとろけるようにほほ笑む。

「なんかカッコいいな。洋食? 和食、ちゃうよな?」ナオトが頭の上に?マークを浮かべているような顔になる。

「おっしゃ、ともかく、用意しよう」トモヤがはりきる。

「あ、俺、今日当番やから、助手します! なんでも言うて」テツヤが、選手宣誓する野球選手みたいに、手を挙げる。

 

 いつものにぎやかな朝が始まる。

 ヒロヤは、そんな6人を眺めながらほほ笑み、私と目が合うと、小さくうなずいた。

 

(そうやね。何かあっても、きっと、大丈夫。このメンバーがいれば。

 ――――そして、私も。私も、いるからね。)


 私は、ヒロヤに、目でそう話しかけた。

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