23. 初めての気持ち
私は、急いでシャワーを浴びる。
今、家に、先輩と2人きり。そんなシチュエーションをあまり考えすぎると、のぼせてしまいそうなので、あえて考えないようにして。髪もできるだけざっくりと乾かして。
メイクをする暇は、ない。けど、手早く化粧水と乳液を顔にはたき込む。とりあえず、眉毛だけは描き足す。軽くリップを塗る。これで、すっぴんを多少はごまかせるだろうか?
大急ぎで、リビングへ行くと、先輩は一冊の本をじっと集中して読んでいる。
気配に気づいて、顔を上げた先輩はニコッと笑った。
「これ、すごいね。めちゃくちゃ面白い」
そう言って、私に表紙を見せた。
『大相撲の不思議2』(内館牧子 著 潮新書 )だ。
「あ、それ。面白いでしょう? どこまで読みました?」
「えっとね、あちこち拾い読みして、今読んでたのは、143ページの、『相撲列車』のところ」
「そう。全部面白いけど、そこ、びっくりしますよね」
「うん。力士たちが、地方へ巡業や本場所で移動するときの切符の手配とか座席割りって、行司さんがするんだね。知らなかったよ。土俵の上で、軍配もって勝敗の判定する仕事だけかと思ってた」
「そうなんですよね。こんなお仕事もしてたのか~っていうのがいろいろ載っていて、ほんまに面白いでしょう」
「俺ね、相撲、全然詳しくないけど、1人好きな力士がいてね」
「え、誰? 誰ですか?」
思わず力が入る。私も詳しくはないけど、1人大好きな力士がいて、場所中は毎日大相撲を録画してまでみてしまうくらいなのだ。
私のあまりの食いつきに、先輩が少し驚きながらも答えた。
「わあ! 一緒!」
先輩が口にした名前に嬉しくなって、私は思わず、続ける。
「幕内で活躍してたのに膝のケガで大手術をして幾場所も休場して、でも、それを乗り越えて、再び幕下から徐々に上がってきて、今は幕内上位で活躍してる姿がすごいな、って」
「そうそう。それに、あのちょっと可愛いクマのプーさんみたいな顔で一見穏やかで闘志をむき出しにして見せたりはしないのに、その粘り強さや技の豊富さで、面白くて見応えのある取り組みを見せるところとか、すごいよね」
「そうそう、そうなんです!」
「俺ね、自分も彼みたいな仕事ができたらな、って思って。ギラギラな感じじゃなく、冷静で。でも粘り強く、しなやかに勝ちを目指す。そんなのが、理想」
「うんうん」
すっかり嬉しくなって、私は、今自分がすっぴんだとか、先輩と2人きりで家にいるのだとか、いうことは、頭からすっかり吹き飛んでしまった。
気がつくと、大相撲のことやリビングにある他の本のことまで、先輩と私は夢中でしゃべって、ふと時計を見ると、1時間近くが過ぎていた。
「ごめん。仕事中だったのにね。俺、すっかり邪魔しちゃったね。そろそろ、仕事に戻らないと行けないんだよね?」
私が、時計に目を走らせたのに気づいて、先輩が言った。
「あ、いえいえ。……はい。そうですね。そろそろお仕事に戻ります」
「うん。……俺も帰るよ」
ちょっとなごり惜しい。
お互い、お風呂上がりにすっぴんで、ラフな服装。というのもあってか、こんなに打ち解けて話したのは初めてかもしれない。少し心残りで、もっと話していたいような気もする。
私の顔にそんな気持ちが出ていたのか、先輩はふっと唇の両端をあげて、優しく笑うと、
「また、来てもいいかな? ……今度は、カエルぬきで」
「はい」
私も笑いながら応える。
先輩の濡れた服をビニール袋に入れて手渡す。洗濯機で回したけど、乾燥まではできなかったのだ。
「すみません。乾かせてなくて」
「全然大丈夫だよ。それより、この服貸してくれたお隣さんに、ありがとうって伝えてね。また今度お礼するよ」
「はい。伝えときます」
先輩は、Tシャツとジャージ姿で、家の前の白い車に乗り込む。
「じゃあ。お邪魔しました。ありがとう」
田んぼに挟まれた道路をゆっくりと走り去っていく車に、私は元気よく手を振った。
なごり惜しいのに、なぜか不思議に、のどかな気持ちだ。
先輩の車を見送るとき、こんな気持ちになったのは、初めてのことだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます