真っ黒な世界

真っ黒な世界で君を待つ

 『忘却眠り病』の初めての症例は今から数年前のことだったらしい。

 もしその頃に、この病気が人類に甚大な被害を及ぼすものだと気づいていれば何か変わったのだろうか。わたしにも何か残されたものがあっただろうか。

 ぼんやりと仰向けに寝転んだベッドの上、薄汚れた天井を見つめながら考える。

 このベッドにいられるのもあとどれくらいだろう。もう自分には何も残っていない。ただ考えることしかできない。ただ待つことしかできない。この真っ黒な世界から誰かが救い出してくれる日を。

 そのとき脳裏に浮かんだのは真っ白な世界で微笑む少女の姿。


 ――誰なんだろう。


 知らない少女だ。いや、今のわたしにとって自分すらも知らない人間なのだ。ただほんの少しだけ何かの記憶の欠片が残っているだけ。その記憶の欠片に閉じ込めた彼女を思い出す瞬間だけ気持ちは少し穏やかになれた。

 ふいに窓を打ち付ける雨の音が強くなってきた。


「台風でも来てるのかな」


 呟きながら身体を起こすと窓の近くに立つ。そこから見える街は真っ黒だ。光なんて見えない。

 そこに広がっているのが街だということはわかる。建物の色もわかる。空を覆っている雲の色も、近くの公園の木々の葉の色も理解できている。それなのに街は真っ黒だ。この感覚はきっとわたし以外の誰にもわからない。

 この目に見えている世界が本当の世界なのか、それとも病気による症状なのかも分からない。ただはっきりしていることは、わたしにとってのこの世界はいつの間にか真っ黒になってしまったということ。

 どこへ行っても何をしていてもこの世界は黒い。綺麗な景色なんてどこにもない。ただ真っ黒に汚れた世界が広がっているだけ。

 そんなことを医師に話してみても彼らは無表情に「そうですか」と頷くだけ。何も解決しないのでもう話すことすら諦めた。やがてわたしは理解した。きっとわたしはこの世界では息をしながら死んでいるのだ。だから世界は黒く腐ったように見えているのだろう。


 ――あの白い世界に行けたらな。


 あれがどこの世界なのかわからない。ただこの世界とは別の場所にあるのだろうことだけはわかる。だってあそこは綺麗だったのだ。落ち着くことができた。穏やかに過ごすことができた。

 そしてあそこには彼女がいた。名前も顔も知らない彼女が。

 わたしはしばらく雨が降り続く街を見つめていたが、やがて退屈になって病室を出た。廊下には誰の姿もない。当然だ。ここは隔離施設。それも重症者用病棟。この病棟に入院している者は眠り続けている。

 わたし以外、全員。


 ――わたしも目覚めなければ良かったのに。


 しかしわたしは目覚めてしまった。目覚めた当時は貴重な症例だと騒がれ、あらゆる検査をされた。しかしその甲斐もなく、この病気について何かが解明されたわけではないようだ。それどころかおそらく謎は深まっただけだろう。わたしは目覚めてからまったく眠れなくなったのだから。

 何日も何日も一睡もすることなく意識を保ち続け、やがて異常だと気づいた医師が夜になると薬を持って来るようになった。それを投与されると数分後には意識を失い、気づくと朝を迎えている。それが今のわたしにとっての睡眠だ。

 眠るのではなく、身体を休めるために意識を殺す。そんな毎日。

 そんな日々で健康になるわけもなく、自分でもわかるほど身体は弱っていた。歩くことすらやっとの状態だが、まだ歩こうという気持ちがあるうちは歩こうと決めた。もしかするとどこかで何かを思い出せるかもしれない。そんな淡い期待がまだ胸に残っているから。


「――ね」


 廊下をフラフラ歩いているとふいに小さな声が聞こえた。空耳かと思ったが、直後に目の前の病室の扉が開き、わたしは思わず足を止める。出てきたのは少女だった。同年代くらいに見える彼女はわたしを見ると目を見開いて動きを止めた。


「……幽霊?」


 わたしが呟くと彼女はさらに目を大きく見開き、そして「それはこっちの台詞」と笑う。なんだか懐かしい。そう思ってしまうのはなぜだろう。


「あなたもお見舞い?」


 彼女はわずかに首を傾げながら言った。わたしは「違う」と答えると彼女が出てきた病室を覗き込んで聞き返す。


「あなたはお見舞い?」


 病室の電灯はついていない。真っ暗な部屋にはベッドが六台敷き詰められるように置かれていた。


「待ってるの」

「なにを?」

「彼女が起きるのを」

「ここ、重症者用の病棟だよ?」

「うん。でも待ってるんだ」


 彼女は言いながら切なそうな表情を病室に向ける。彼女が待っているのはどのベッドに眠る子だろう。視線を追ったがよくわからない。じっと病室を見ていると彼女が扉を閉めてしまった。


「あなたはどうしてここにいるの?」

「入院してるから」

「ここ、重症者用の病棟でしょ?」

「そう。わたしは末期」


 しかし少女は疑わしそうな目でわたしを見てくる。当然だろう。この病棟に入院している患者は誰も歩き回らないどころか目を覚ますこともない。わたしは微笑む。


「わたしはきっともうすぐいなくなるけどさ、もしわたしが眠った先であなたが待ってる人がいたら言っておくよ」

「何を?」

「あなたがここで待ってるって」

「……わたしが誰を待ってるか、わかるの?」

「さあ。でもあなたが待ってるのなら、あなたが待ってる人もあなたを待ってるでしょ?」

「そうかな」

「そうだよ」

「忘れてるかもしれない」

「忘れてないかもしれない」

「あなたが忘れるかもしれない」

「それはあるかも」


 わたしが肩をすくめると少女は微かに笑った。そのとき廊下のスピーカーにブツッと音が入った。


「面会時間は過ぎています」


 彼女は天井のスピーカーを見上げると「行かなくちゃ」と呟いた。そしてわたしを見つめる。わたしが首を傾げると彼女は「あなたはどうしていなくなると思うの?」と言った。

 わたしは少し考えてから「もう眠れないから」と答える。


「眠れない?」

「うん。もう眠れない。だからきっとわたしはもうすぐいなくなる」

「よくわからないよ」


 彼女は眉を寄せた。わたしは「わたしもわからない」と微笑む。


「だけど、そんな気がするんだ。わたしはきっともうすぐいなくなる」


 だからこの世界は真っ黒なんだ。


「また会える?」

「会ってどうするの?」

「お喋りとか」

「それはあなたが待ってる人が起きたらしなよ」


 わたしは笑うと彼女に背を向ける。


「どこ行くの」

「……わたしは向こうに行きたいんだ」

「白い世界?」


 彼女の言葉にわたしは思わず振り向き、そして笑った。


「この世界で待っててもあの子はきっと来てくれない。だから向こうに行きたい」

「……そっか」


 彼女はそれ以上何も言わなかった。ただじっとわたしのことを見つめてくる。


「早くここから出ないと怒られるよ」

「そうだね。もう行かなきゃ」

「じゃあね」


 わたしは自分の病室に向かってフラフラと歩き出す。すると背中に「またね」と小さな声が聞こえた。


 ――またね、か。


 その言葉もまた懐かしい。どこかで誰かに言われたような気がする。


 ――どこで、誰に。


 病室に辿り着くまでずっと考えていたが思い出せるはずもない。


「――またね」


 ベッドの上で口に出した言葉は誰にも届かない。ただ虚しい気持ちが広がるだけだ。この真っ黒な世界でいくら待とうとも会いたい誰かに会えることはないのだから。


 ――だったら、わたしは。


 ベッドに仰向けに寝転び、薄汚れた天井を見つめながらわたしはぼんやり考えながら待ち続ける。

 この世界が終わった先にある世界で、会いたい誰かに会える日を。


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この世界で君を待つ 城門有美 @kido_arimi

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