七 レインと悪魔
ことの発端は、レインが当時滞在していた町で耳にした噂だ。
一年中雨が降っているという奇跡のような森があって、そこには悪魔が住んでいるという。
『その森ってどこにあるの?』
『何、お姉ちゃんたち興味あるの?』
『うん』
『隣町から来たやつに聞いたんだ。こっから東のなんちゃら山を登って降りたところに洞窟があって、そこを抜けると天気が雨しかないヘンテコな森があるんだって』
『東というと――ホルスアイム山のことか』
それなら隣町とは、ここから北東に進んだところにある町のことだろう。どちらかと言えばホルスアイム山寄りの高地に位置する町だ。
聞けば、陽当たりが悪く農作物の育ちが悪いその町から、新しく出来たこの町に引っ越してくる者が多いらしい。
『その悪魔は、雨を降らせる悪魔なの?』
『ううん。願いを叶えてくれる、普通の悪魔』
『願いを叶える? 契約ではなく?』
『わかんないよ。子どもを捧げると叶えてくれるんだって。だから隣町から来たやつら、悪いことをしたらリグネットの悪魔に食べさせるぞって、よく脅して来やがるんだ。
子どもの命と引き換えに悪魔が願いを叶える。それは立派な悪魔契約だ。
しかしこう言った噂話やお伽噺は世界中にあるし、子どもに言うことを聞かせるための作り話なんてありふれている。話を聞いた限りでは恐らくその類いと思われた。
「ハーゲルお兄様」
追い付いたレインが前に立って呼ぶと、ハーゲルは漸く立ち止まった。
「ハーゲルお兄様、どこまで行くのですか」
「ごめん、レイ。一緒に着いて来て」
ハーゲルの過保護は今に始まったことではないが、ここまで焦っているのは初めて見る。
レインは目を伏せて言った。
「彼は――」
彼はこの森に住む悪魔だ。ハーゲルの探すべきは本来別に居る。
「レイン?」
「――彼は」
レインは口ごもった。
悪魔に記憶を弄られているとはいえ、ハーゲルにとってスオウは紛れもなく家族なのである。それをいきなり悪魔呼ばわりして、信じて貰える訳がない。
迷った末、レインは言い訳のようにぼそぼそと言った。
「彼は――大人ですから。そんなに心配しなくても大丈夫じゃないですか?」
「そういう問題じゃないよ。レイも知っているだろうけど、ここには悪いものが住んでいるんだ」
「それは――」
ハーゲルが行こうとするのでレインは慌てて声を上げる。
「ま、祭りの準備はどうするのですか」
「そんな場合じゃないよ」
「そんな場合です。ハーゲルお兄様は牧師なのです。牧師としての役割を果たすのを何より優先すべきなのです」
「私は確かに牧師だ。聖職者だ。神の申し子だ。だからこそ私は彼を探さなくてはいけない。こころに一点の曇りも迷いもあってはならない」
ハーゲルは真っ直ぐな瞳でそう言いきると、急にレインを見る視線を和らげ、「行くよ」と手を差し伸べた。
戸惑ってしまうほどの綺麗さだ。
彼の言いたいことはよく理解出来る。悪魔は迷いや恐れといった心の隙につけこむ。だから悪魔を寄せ付けない為には、そう言った憂いを持たない、もしくはそのような状況を長引かせないようにすることが大切なのだ。
ハーゲルは聖職者としての有方を確かに理解しているようだ。
この間のように置いていかれないだけ良いと思ったレインは、しぶしぶ彼の手を取った。
尤もあのときと今では状況が違う。ここでレインをひとりにしてスオウを追ったのでは本末転倒。ハーゲルはレインを置いてはいけないし、だからといってスオウを放っても置かないだろう。結局今回もレインが折れるしかないのだ。
どちらにせよ、スオウは暫く見つかりはしない。彼はあの滝を浴びた効力で、人形を保って居られなくなっている。
スオウが再び姿を顕すには時間がかかる。その間にあの悪魔への対応策を考えよう。
ハーゲルが歩き出したのでレインも続く。しかしハーゲルの足はまた数歩のうちに止まった。
「ハーゲルお兄様?」
レインはハーゲルの後ろから首を伸ばし、その視線の先を追った。
木々が立ち並ぶ森の奥、暗闇の中に白い腕が浮かんでいる。
木の後ろに誰か居る。
(まさか他にも悪魔が居るの……?)
レインの背筋にひんやりとしたものが走った。その腕は瞬きする間に木から木へと移動して、少しずつ近づいてくる。
どう見ても人間ではなかった。
「そこに居るのはスオウ?」
予想外にもハーゲルがその「何か」にすんなり声を掛け、しかもスオウの名前を呼んだ為、拳を握り占めていたレインはポカーンとして固まってしまった。
あれをスオウと考えるのは、あまりにもご都合主義過ぎるし、何よりそれだとスオウを化け物だと認めるようなものだ。
(ハーゲルお兄様……)
その手はふりふりと動いた。
「はーい」
嘘だ。レインは混乱した。
まだ滝をくぐって数十分も経っていない。スオウはまだハーゲルに姿を見せられない筈だ。しかしその声は紛れもなくスオウのものだった。
レインは彼が腕から先を見せないように動いていることに気付いた。あの腕の先は、まだ完全には形成出来ていないのだろう。
手招きするように腕が動いた。ハーゲルが行こうとするのでレインはその場に踏みとどまって彼を抑える。
「レイン? どうしたの?」
「……」
自身の正体がバレれば、スオウはハーゲルを殺すかもしれない。もしかしたら、それを狙ってわざと姿を顕すような真似をした可能性もある。
レインは黙したまま威嚇するように腕を見詰めた。木の影から伸びた白い腕は、そこから伸びた一本の枝のようにしなやかに凪いでいる。
「ハーゲルお兄様」
冷たい風が吹いた。
「すみません」
口を開きかけたハーゲルの身体がぐらつき倒れる。
受け止めたレインは後ろにある木に彼を預けてから、白い腕へと接近した。
木の裏を覗いた瞬間、それはレインの首目掛けて掴みかかってきた。
真っ白な腕の先はやはり人でなく、黒い泥のようなものがうねうねと動いている。人でいう腹の辺りには小さな赤い瞳が一つあり、それと目を合わせたレインは感情のない声で呟いた。
「キモチワルイ」
瞬間、黒い物体はピキピキと音をたてて硬化し、砂のように細かに崩れていった。
レインは袖で口元を覆い、何かが滅んでいく様を無感動に見ていたが、目玉が地に転がり出てくると、それを足でグシャリと踏み潰した。
終わったとばかりにレインがハーゲルのほうを向くと、舞散る砂塵の中に人が立っていた。
一瞬ハーゲルかと思いドキリとしたが、少し身長が高い。しかも裸体だ。
「殺したのですか?」
その声を聞いた途端、レインは飛び上がりそれに向かって蹴りだした。砂塵が晴れ、黒い砂を纏った白い腕がレインの足を掴む。
「殺したのですか?」
「彼の声を使うな!」
「殺したの?」
はっとして振り向くと、小さな少女の影が背後に踞っていた。更にその隣に三つの影が浮かび上がってくる。
真っ黒なそれには口も目もないのに、確かにレインを見上げて言っている。
「殺したんだ」
「レインちゃん、殺したの?」
「レイン」
「レイン」
「私たちも――」
レインは身体を思い切り捻って、足を掴んでいる手を振り払うと、空を切るように影を払った。
感覚はなく、実体のない影は霧散するように消える。そのまま勢いは殺さず後ろに蹴りを繰り出した。
スオウは不意を突かれて驚いたような顔をしたが、身軽な彼はさっと後方に飛んで蹴りを避けた。
「ひゃあ、おっかないおっかない」
その頭にはエナメルのように真っ黒な角が二つ生えており、真っ赤に染まった瞳は悪魔の印だ。口元から覗く舌が誘うように蠢いている。
スオウの直ぐ後ろに眠っているハーゲルを確認して、レインは口を開いた。
「何が目的ですか?」
「それはあんただろ。魔狩りが何てったって、こんなところで家族ごっこに興じているんだ?」
「質問に質問で返さないで下さい。今すぐ祓っても良いんですよ」
「そうやってすーぐ殺そうとする」
決まっている。レインは初めて会ったときから、彼を殺したくて仕方なかったのだ。
スオウはやれやれと肩をすくめると言った。
「暇潰しだよ。ほら、悪魔って寿命長いだろ。だからちょっと遊ぼうかなって――」
「ここで人を食ってきたのはあなたですか」
「何?」
レインは射るような視線でスオウを見た。そこに在るのは殺意のみ。レインがしているのは質問ではなく糾弾だった。
「あの滝の向こうであなたは人を待ち伏せ、生け贄を捧げさせる代わりに木を与えた」
「木?」
「リグネットの木です。雨を降らせる木。あれには魔力が宿っている」
スオウはあぁあの木かと頷いて、続けて首を振った。
「俺はそんなことしてない」
「往生際が悪い。贄が来なくなったからってあなたは町の人たちにも手をつけ始めたのでしょう」
「いやいや、本当だって。俺は散歩途中にあの町を偶然見つけて立ち寄ったに他ならない、罪なき悪魔だよ」
「罪なき悪魔などいません」
「いるんだなそれが」
スオウは爽やかに笑ったが、服も着ていなければ悪魔の姿なのでいささか無理がある。
悪魔は人を誑かし陥れる。どんな会話も不毛だ。
しかしハーゲルのことを回収するために、会話で悪魔の気を逸らしながら、少しずつ間合いを詰めていく。
「悪魔は欲深く、人間を罪悪へと引き摺り込みます。あなたたちは罪作りなモノなのです」
「人間だって欲深い。こんな話もある。『悪魔は人間から生まれた』。悪魔が罪作りなら人間はその更に上だ。罪作り作り」
「……ふざけたことを。あなたたちと私たち人間には明確な違いがある。一つは欲に打ち勝つ理性を持っていること。そしてもう一つは天使が遣わされたことです」
天使という言葉にスオウが反応する。レインはその隙を見逃さなかった。
詰めた距離から一気に走り出し、ハーゲルに手を伸ばす。あと少しで触れるというところで髪を後ろにぐいと引っ張られ、つんのめるように前に倒れた。
「うぶっ」
最近鼻をぶつけてばかりいる気がする。
怨めしげに顔を上げたレインの上をスオウが跨いで行った。
「やぁっぱり話聞いてなかったか。人の話はちゃんと聞かなきゃ駄目だろー人じゃないけど」
スオウはハーゲルの顎を指先で持ち上げて自分の顔の前に持ってくると、感心したように何度か頷いた。
「綺麗な顔だ」
「彼に触らないで下さい――んむっ」
スオウは続いてレインの顔を雑にひっつかむと言った。
「ふーん。まぁまぁだな」
イラッ。
レインはスオウの陰部目掛けて唾を吐き掛けた。
「…………」
信じられないものを見るような目で見られても一向に気にせず、むしろスッキリしたレインは、スオウの手を振り払って立ち上がった。
ショックで固まっているスオウを素通りしてハーゲルを背負い、レインは雨境に向かってさっさと歩き出した。
暫くしてスオウが追いかけて来る気配がしたが無視する。しかし前に立ちはだかれ、レインは仕方なく立ち止まった。
いつの間に黒い服を着ている。流石に寒かったのだろうか。
「お……おまっ、おおお前……っ」
よっぽど衝撃だったのか「お前」しか言えなくなっているスオウを、レインは白けた目で見る。
やはり祓ってしまおうか。
「お前お前言ってる暇があるなら、陣を作るの手伝って下さい」
「は……?」
「あなたなら一瞬でしょう」
スオウは呆気にとられたように固まった。
レインはもう待つ気はないとその横をすり抜ける。我に返ったスオウはあとを追って訊いた。
「俺を祓わないのか?」
「祓いません。というか祓えません」
「なんで」
「答える義理はありません」
「いやいやいや」
面倒臭い。
レインは目を伏せ言った。
「今、ハーゲルお兄様たちはあなたのことを家族だと思っています。家族が突然抹消されたら彼らが悲しみます。だからです」
「魔法を解けば良いじゃないか」
「解いてくれるのですか?」
期待の籠らない問いを投げつけると、やはりスオウは首を横に振った。
「解かない、し、解けない。が、あの滝があるじゃないか」
レインは感心したように目を僅かに見開いた。意外と頭が回るらしい。
「あの滝は魔力を落とす力があるんだろ」
「はぁ、気付いていましたか。悪魔のくせに頭が回るんですね」
「悪魔のくせには余計だ」
「そうですね。確かにあれなら魔法を解けるかもしれませんが、恐らく無理です」
「何故だ?」
「あの雨は触れた場所にしか作用しないんです。だから、脳にかけられた魔法は落とせません」
スオウを完全に祓えなかったのもそのためだ。恐らく核に触れなかったのだろう。
スオウ自身もそのことに思い至ったのか、ゾッとした様子で真っ赤な瞳を手で覆った。
帰りに通るとき、再びスオウをあの雨の中に突っ込もうと思っていたのだが、この感じだと難しいかもしれない。
そうこうしているうちに雨境まで到着する。レインはしめ縄を爪先で軽く小突いてスオウに示すと言った。
「ということで今は祓わないであげるので役に立って下さい」
「えぇ……仕方ねぇなー」
スオウは考えるのが面倒臭くなったのか投げやりにそう言って縄を担ぐと、レインを振り返って訊いた。
「つーか神事に関わることを
そんなこと言ったら製作工程で挫折しているのだが、スオウは素知らぬ顔である。
「ハーゲルお兄様を背負ったまま私も反対から回りますが、なにぶん時間がないので」
「そいつ気絶させたときも思ったが、あんた結構雑だな………つか成人男性背負ったままとか真面目にゴリラ――」
すぱーん、と。小気味良い音が森に響いた。
雨の日の悪魔 カニ @usenotrealizewhathappened
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