13.珸瑶瑁先生と松ぼっくりちゃん


          *


 ――ハル子さんとうつぼ君達が、やり取りをしていた間、珸瑶瑁ごようまい先生は壁に寄り添い、ひっそり人々を見つめていた。


 背筋を正し、へその前で掌を重ねるさまは、まるで高級百貨店の店員のように「歪み」や「ゆらぎ」と云うものを知らない。


 それはもちろん、彼が己に脇役かつ、場の装飾たることを求めているからだった。じっと立ち尽くしたまま、彼は袖の皺という、実にわずかなものを気にする。その皺は、幼子ののようで潔くなく思えた。談笑に加わることも何やら潔くない気がした。それに、元来何をするでもなく、ただ人々の様子を見ることが好きでもある。それらの要因は、「壁にひかえて絶対表に立たぬこと」を宿命づけられてきた生い立ちによるところが大きいのだろうが。


 と、かちゃんと音がした。「アッ」と高く、ひそやかな声がする。


「?」


 側の円卓が揺れる。見やる。珸瑶瑁のすぐそばで小さな影がよろめいた。咄嗟とっさに腕が出る。


 ぱすり、と音がした。


 珸瑶瑁先生が受けとめたそれは、重量のまるで感じられない、実に軽い身軆からだだった。彼の腕をつかむてのひらもまた、ひどく小さい。そして待ち上げられた顔は、何かとんでもない失敗をやらかし、一体どんな処罰を受けるものかと今から恐怖に打ち震えている――そんな表情を浮かべていたのだ。それが珸瑶瑁先生にはおかしくもあり、懐かしくもある。溜息をつくように、さらさらと微笑んだ。偽古庵様にも一時期、こんな表情で珸瑶瑁先生の一挙手一投足に神経をすり減らしていた時期があったのである。そのことを思い出したのだ。しかし、今懐中にいるのが偽古庵様でないことを珸瑶瑁先生はきちんと認識している。これは――松ぼっくりちゃんだ。


 珸瑶瑁先生は、なるたけゆっくり腰を落とし、松ぼっくりちゃんの前に片膝をついた。少女の顔が、珸瑶瑁先生の目線よりわずかな上に位置する。今度珸瑶瑁先生に見えたのは俯いた顔で――それは、さっきと全く異なった印象を孕んだものだった。


 眼だ。


 人の内側を、すくいとるように見つめる眼だった。そして、それとは相反して困惑した眼差し。


 珸瑶瑁先生は、ゆっくりと微笑んだ。


「大丈夫ですか?」

「は、はい……」


 松ぼっくりちゃんの頬は薄く染まっている。それを見た珸瑶瑁先生は、いっそうゆっくりした速度で、さらさらと微笑んだ。


「松ぼっくりちゃん、でしたね?」

「は、はい」

「松ぼっくりちゃんは、大勢の人がいるところは苦手ですか?」

「は、――はい。少し……」

「では、知らない男の人がたくさんいるのも、実は得意ではないでしょう?」

「はい」


 今度の「はい」には全く迷いがなかったので、珸瑶瑁先生は珍しく「ふふふ」とこえに出して笑った。


「では、私と一緒に果物でもいただいておりませんか?」

「え」

「松ぼっくりちゃんは、こう云った場面が苦手でいらっしゃると云う。そして私はこの場の御婿様がたとは関係がない立場にある。さいわい、私は松ぼっくりちゃんから御覧になられた時、小父さんと呼ばれて差しつかえない年齢です。松ぼっくりちゃんも、緊張はされていらっしゃらないようですし」

「あ……」


 珸瑶瑁先生に云われて初めてその事実に気付いたらしい松ぼっくりちゃんは、小さな小さな掌を、愛らしい頬にそっとよせた。


「本当でございますね。わたくし、いつもならどんなかたとお逢いしても、どうしても緊張して真ッ赤になってしまいますのに――」

「それは、とても光栄なことですね」


 珸瑶瑁先生はひとみを細めて近くのテーブル上にあったバナナを一本手に取り、それをぱきりと半割りにする。そしてその半分を手渡した。


「あの、ありがとうございます」


 珸瑶瑁先生は、やはりさらさらと笑い、自身もバナナの皮をむいた。


「私がお仕えする偽古庵様は、お小さい時分からバナナがお好きで、いつもこうやって反割りにして差し上げていたんですよ」

「そうなのでございますか」

「もちろん今ではお一人で一本召し上がられるのですが、なぜか未だにこうやって反割りにしてから召し上がられるのです」


 首の後ろに大きな掌をやりながら説明する珸瑶瑁先生に、松ぼっくりちゃんは静かな微笑みを見せた。


「共有された思い出なのでございますね。すばらしいことです」

「そう云っていただけますか」

「はい。珸瑶瑁先生のなさったことが、そのまま偽古庵様に受けつがれたと云うことなのでございますから」


 そこで松ぼっくりちゃんは一旦言葉を区切り、そっと人々のほうへ顔をむけた。


「絆と云うものは、おそらく表立って眼にできるものではないのですね――」

「――……。」


 そうして、松ぼっくりちゃんは小さな溜息を一つ「ほぅ」と落とした。聴き止めていたはずの珸瑶瑁先生は、あえて何も云わず、ただうさぎ林檎の乗った皿を手に取り、松ぼっくりちゃんに差し出すぎりである。松ぼっくりちゃんも、静かに微笑むぎり。


 それから小一時間ほど、松ぼっくりちゃんと珸瑶瑁先生は二人並んでぼんやり春の庭を眺め、果物を口にした。特に何を語り合うでもなかったが、それが苦痛ではない二人だから、並んで座するさまが空間になじんで見えたのだろう。


 そしてそのさまを、静かに見護る幾つもの眼があった。


 古里さんが「ここらで一つ、質問コーナーとでもいきましょか」と提案したのは、それから間もなくのことである。





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